【感想】上半身が人魚のようなものたちが自動改札みぎにひだりに 斉藤斎藤
- 2016/02/05
- 00:00
上半身が人魚のようなものたちが自動改札みぎにひだりに 斉藤斎藤
【言葉を食べる】
NHKの『スイッチインタビュー達人達』っていう番組面白くてよく見てるんですが、こないだの回が〈厚切りジェイソン×金田一秀穂〉のお二人の対談の回で後半に斉藤斎藤さんが出演されて、三人で短歌の話になったんですよ。
で、そのときに、斉藤斎藤さんが提示されたご自身の歌が、
上半身が人魚のようなものたちが自動改札みぎにひだりに 斉藤斎藤
だったんですが、厚切りジェイソンさんがこの歌を「っていっても人間じゃん!」って言われて、で、金田一さんはこの歌を「人魚のように見えることの孤独」って言われたんですよ(たしか)。
で、このお二人の意見って面白いなって思って、共通しているのは、《そう見えないところをそう見るしかない世界の提示》っていうことなんじゃないかと思うんです。
考えてみると「上半身が人魚のようなものたち」ってすごくヘンな言い方で、「上半身が人魚のようなものたち」っていわゆるふつうの「人間」なわけですよ。その意味で、厚切りジェイソンさんがまさにドンピシャで、人間でしかないことを《ねじまげて》「人魚のようなものたち」と歌っている歌なんですね。
だけど、金田一さんが《孤独》と指摘したように、それって《認識の孤独》なわけですよ。だって、みんなはふつうに改札から出ていく乗客たちをみているのに、そのひと《だけ》は、この歌の語り手《だけ》は「人魚のようなものたち」ってみているわけですよ。これでは、ふつうのひとたちと《認識の共有》ができないわけです。みんなは「のような」認識のなかで暮らしているわけではないから。
そのとき、この歌の「自動改札みぎにひだりに」ってすごく意味深だなって思ったんです。認識って基本的に《自動》というか、オートマティックなものですよね。「自動改札」みたいに勝手に枠組みがふりわけられるのが《認識》なわけです。リンゴをみて、それがいちいち林檎かどうかを哲学的に疑っていたら大変ですからね。でも、斎藤さんの歌って基本的に《認識》がまず《屈託》するんですよ。で、その《屈託》に孤独があるわけです。みんなが「自動改札」で「みぎにひだりに」ふりわけられていくなか、斉藤さんの歌ってなかなか「みぎにひだりに」行けない場所で右往左往している。
でも、その右往左往っていう《認識のためらい》が実は社会の認識が暴走しすぎているときに有効なんじゃないかってことも思ったりするわけです。もちろん、《斉藤斎藤》という名前も「みぎにひだりに」行けず、《ためらっ》ている《名前の右往左往》を表象しているとおもうんですよ。
だから、認識の自動化を防ぐものって、言葉なんですよ。
言葉によって、ひとは自動改札的思考をセーブすることができる。
みんな、言葉を食べて、生きている。
きょうはまた死んだ魚の生の肉あすは子牛のリンパ液飲む 金田一秀穂
宮崎駿『天空の城ラピュタ』(1986)。さいきん、「バルス!」について考えていて、で、この「バルス!」っていうラピュタを破壊する《破滅の呪文》ってかなりデジタル思考的なんじゃないかと思ったんですね。ラピュタの絵コンテを読んでるとムスカをゲームのように人を殺す男って注意書きが書いてあるんだけれど、「バルス!」っていう、もしかしたら衝動的にでも言えてしまいそうなたった3音の危うい言葉って《リセット思考》というか《スイッチ思考》なのかなって思うんです(うっかり「覚えてるかな俺」って確かめるために言っちゃうことだってあるのですから)。だから「バルス!」って呪文というよりはスイッチに近いんですよ。あのキューブリックの『博士の奇妙な愛情』の核兵器の簡単なボタンみたいに。なにかあったら電源を切ってしまおう、という。大局が面倒になったら再起動しちゃおうっていう。でも、大事なのは、あの最後に、シータとパズーがラピュタから飛び立つときにロボットが歩いてたじゃないですか、あれすごく印象的なんだけれど、ラピュタをリセットしても、ああいうふうに《人間の大局》とは異なるまったく《無傷の大局》がある。人間の自動化思考というか、いくらムスカが《ゲーム》のように動いてもラピュタにとっては痛くもかゆくもなかったりする。そう考えると、この映画の主人公ってタイトルにある通り、ムスカでもシータでもましてやパズーでもなく《天空の城ラピュタ》なんです。しかもちゃんと「天空の城」ってタイトルにふられているとおり、最後までこの城は《落ちない》。
【言葉を食べる】
NHKの『スイッチインタビュー達人達』っていう番組面白くてよく見てるんですが、こないだの回が〈厚切りジェイソン×金田一秀穂〉のお二人の対談の回で後半に斉藤斎藤さんが出演されて、三人で短歌の話になったんですよ。
で、そのときに、斉藤斎藤さんが提示されたご自身の歌が、
上半身が人魚のようなものたちが自動改札みぎにひだりに 斉藤斎藤
だったんですが、厚切りジェイソンさんがこの歌を「っていっても人間じゃん!」って言われて、で、金田一さんはこの歌を「人魚のように見えることの孤独」って言われたんですよ(たしか)。
で、このお二人の意見って面白いなって思って、共通しているのは、《そう見えないところをそう見るしかない世界の提示》っていうことなんじゃないかと思うんです。
考えてみると「上半身が人魚のようなものたち」ってすごくヘンな言い方で、「上半身が人魚のようなものたち」っていわゆるふつうの「人間」なわけですよ。その意味で、厚切りジェイソンさんがまさにドンピシャで、人間でしかないことを《ねじまげて》「人魚のようなものたち」と歌っている歌なんですね。
だけど、金田一さんが《孤独》と指摘したように、それって《認識の孤独》なわけですよ。だって、みんなはふつうに改札から出ていく乗客たちをみているのに、そのひと《だけ》は、この歌の語り手《だけ》は「人魚のようなものたち」ってみているわけですよ。これでは、ふつうのひとたちと《認識の共有》ができないわけです。みんなは「のような」認識のなかで暮らしているわけではないから。
そのとき、この歌の「自動改札みぎにひだりに」ってすごく意味深だなって思ったんです。認識って基本的に《自動》というか、オートマティックなものですよね。「自動改札」みたいに勝手に枠組みがふりわけられるのが《認識》なわけです。リンゴをみて、それがいちいち林檎かどうかを哲学的に疑っていたら大変ですからね。でも、斎藤さんの歌って基本的に《認識》がまず《屈託》するんですよ。で、その《屈託》に孤独があるわけです。みんなが「自動改札」で「みぎにひだりに」ふりわけられていくなか、斉藤さんの歌ってなかなか「みぎにひだりに」行けない場所で右往左往している。
でも、その右往左往っていう《認識のためらい》が実は社会の認識が暴走しすぎているときに有効なんじゃないかってことも思ったりするわけです。もちろん、《斉藤斎藤》という名前も「みぎにひだりに」行けず、《ためらっ》ている《名前の右往左往》を表象しているとおもうんですよ。
だから、認識の自動化を防ぐものって、言葉なんですよ。
言葉によって、ひとは自動改札的思考をセーブすることができる。
みんな、言葉を食べて、生きている。
きょうはまた死んだ魚の生の肉あすは子牛のリンパ液飲む 金田一秀穂
宮崎駿『天空の城ラピュタ』(1986)。さいきん、「バルス!」について考えていて、で、この「バルス!」っていうラピュタを破壊する《破滅の呪文》ってかなりデジタル思考的なんじゃないかと思ったんですね。ラピュタの絵コンテを読んでるとムスカをゲームのように人を殺す男って注意書きが書いてあるんだけれど、「バルス!」っていう、もしかしたら衝動的にでも言えてしまいそうなたった3音の危うい言葉って《リセット思考》というか《スイッチ思考》なのかなって思うんです(うっかり「覚えてるかな俺」って確かめるために言っちゃうことだってあるのですから)。だから「バルス!」って呪文というよりはスイッチに近いんですよ。あのキューブリックの『博士の奇妙な愛情』の核兵器の簡単なボタンみたいに。なにかあったら電源を切ってしまおう、という。大局が面倒になったら再起動しちゃおうっていう。でも、大事なのは、あの最後に、シータとパズーがラピュタから飛び立つときにロボットが歩いてたじゃないですか、あれすごく印象的なんだけれど、ラピュタをリセットしても、ああいうふうに《人間の大局》とは異なるまったく《無傷の大局》がある。人間の自動化思考というか、いくらムスカが《ゲーム》のように動いてもラピュタにとっては痛くもかゆくもなかったりする。そう考えると、この映画の主人公ってタイトルにある通り、ムスカでもシータでもましてやパズーでもなく《天空の城ラピュタ》なんです。しかもちゃんと「天空の城」ってタイトルにふられているとおり、最後までこの城は《落ちない》。
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