【短歌】中の人が…(毎日新聞・毎日歌壇2016年2月8日・米川千嘉子・選)
- 2016/02/08
- 12:45
憎しみの分だけ外に並んでるペットボトルがとてもあたたか 那須ジョン
「すみませんでした」とそっと言い終えて波つま先の砂に消えゆく 岩元秀人
【ミッキーの私小説】
今日の加藤治郎さん選・毎日歌壇からの二首です。
わたし、ときどき思うんですが、〈短歌〉ってけっこう〈中の人〉があらわれてくる文芸なんじゃないかと思うんですよね。
よく、声優さんやあるいは着ぐるみの中に入っているひとを〈中の人〉と呼んだりしますが、そういう〈中の人〉的主体ってちょっとおもしろいなと思っていて、つまり、機能的主体としては〈声〉とか〈着ぐるみ〉とかが表面にあらわれているわけです(文楽とか能楽とかもそう)。
でもそのエンターテインメントの部分の光(声の根っこ)や闇(着ぐるみの根っこ)を引き受ける根っこの主体が〈中の人〉になっている。
そういう〈枝分かれする主体〉というんですが、〈分業の主体〉が〈中の人〉的主体です。
で、たとえば上の那須さんの歌には猫よけのために表面的に並べられた「ペットボトル」と、でもその〈機能〉している「憎しみ」だけでない、「とてもあたたか」と感じる〈中の人〉の根っこも描いている。
岩元さんの歌も「波」の〈中の人〉が「すみませんでした」と発話している。
短歌って少しそういう〈着ぐるみ的ななにか〉に近いんじゃないかと思うんですよ。そしてそれは定型があるからなんじゃないかと。
着ぐるみって、着ぐるみ感を出してはいけないわけですよね。ミッキーがいやいや手をふっていたら着ぐるみ感満載なわけですよね。うそくさくなるので。
定型ってそれとちょっと似てるんじゃないかとおもうんです。
定型をむりやりに酷使して無理矢理あてはめると、いやいや手をふるミッキーみたいになる。
でも、中の人とミッキーがすっと同一化するしゅんかんがあるように、定型も歌と同一化するしゅんかんがある。
そしてそれを観ているひとは同時にその分離をも理解しつつも同一化の快楽も味わっている。
そういう分離が統合されて〈わたし〉的ななにかになるしゅんかんに着ぐるみや短歌の構造的快楽があるのではないかっておもうんです。
中の人が縫い目を破ってあらわれて <私>と名乗る、そんなエンディング 柳本々々
(毎日新聞・毎日歌壇2016年2月8日・米川千嘉子・選)
「すみませんでした」とそっと言い終えて波つま先の砂に消えゆく 岩元秀人
【ミッキーの私小説】
今日の加藤治郎さん選・毎日歌壇からの二首です。
わたし、ときどき思うんですが、〈短歌〉ってけっこう〈中の人〉があらわれてくる文芸なんじゃないかと思うんですよね。
よく、声優さんやあるいは着ぐるみの中に入っているひとを〈中の人〉と呼んだりしますが、そういう〈中の人〉的主体ってちょっとおもしろいなと思っていて、つまり、機能的主体としては〈声〉とか〈着ぐるみ〉とかが表面にあらわれているわけです(文楽とか能楽とかもそう)。
でもそのエンターテインメントの部分の光(声の根っこ)や闇(着ぐるみの根っこ)を引き受ける根っこの主体が〈中の人〉になっている。
そういう〈枝分かれする主体〉というんですが、〈分業の主体〉が〈中の人〉的主体です。
で、たとえば上の那須さんの歌には猫よけのために表面的に並べられた「ペットボトル」と、でもその〈機能〉している「憎しみ」だけでない、「とてもあたたか」と感じる〈中の人〉の根っこも描いている。
岩元さんの歌も「波」の〈中の人〉が「すみませんでした」と発話している。
短歌って少しそういう〈着ぐるみ的ななにか〉に近いんじゃないかと思うんですよ。そしてそれは定型があるからなんじゃないかと。
着ぐるみって、着ぐるみ感を出してはいけないわけですよね。ミッキーがいやいや手をふっていたら着ぐるみ感満載なわけですよね。うそくさくなるので。
定型ってそれとちょっと似てるんじゃないかとおもうんです。
定型をむりやりに酷使して無理矢理あてはめると、いやいや手をふるミッキーみたいになる。
でも、中の人とミッキーがすっと同一化するしゅんかんがあるように、定型も歌と同一化するしゅんかんがある。
そしてそれを観ているひとは同時にその分離をも理解しつつも同一化の快楽も味わっている。
そういう分離が統合されて〈わたし〉的ななにかになるしゅんかんに着ぐるみや短歌の構造的快楽があるのではないかっておもうんです。
中の人が縫い目を破ってあらわれて <私>と名乗る、そんなエンディング 柳本々々
(毎日新聞・毎日歌壇2016年2月8日・米川千嘉子・選)
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