【感想】たぶん親の収入超せない僕たちがペットボトルを補充してゆく 山田航
- 2016/02/11
- 23:18
たぶん親の収入超せない僕たちがペットボトルを補充してゆく 山田航
【未来はすぐに補充される】
この歌をふたつのポイントから読んでみたいんです。
「たぶん」と「ペットボトル」です。
まずは、「たぶん」。
この歌って「たぶん」で始まっている〈たぶん〉の歌です。「親の収入超せない僕たち」という認識はあるんです。そういう認識があるんだけれど、それが〈たぶん〉というアバウトな認識にしかならない。それが実際に本当なのかどうか踏み込んでいけない。そこにわたしは〈認識の階層差〉のようなものがあると思うんです。少し先取りするけれど、「ペットボトル」をえんえんと果てしなく補充してゆく〈終わりのない日常〉のなかで、〈認識〉の分節も奪われてしまう。そうして、あらゆる物事を〈たぶんの思考〉でしか考えられなくなってしまう。
この歌の危機は、「親の収入超せない」というところにあるのではなくて、「たぶん」にあると思うんですよ。
で、もうひとつが「ペットボトル」なんですが、たとえば「ペットボトル」の「補充」ということですぐに想像するのがコンビニのバイトです。でもここで語られているのは「コンビニのバイト」ではなく、「ペットボトルの補充」です。問題は、〈職がない〉ということにあるのではなく、職はあるのだけれどどんなに働いても働いてもいったいその〈先〉があるのかという「ペットボトルの補充的未来」にあるんじゃないかとおもうんです。
だから〈働けない危機〉というよりは、〈働くことの危機〉です。コンビニのペットボトルの棚をみてもらえばわかるけれど、あれって前のやつを抜き取るとうしろから勝手に前へおりてくるんですよ。つまり私がどれだけ一所懸命働いても私に固有性はなく、すぐ次の誰かがやってきて私のあとを埋めてしまう。働くことはできるんだけれど、その働き続けることに、フックがかかるような未来がない。
それが「ペットボトル補充的労働」なんじゃないかとおもう。
そしてこれは「僕」だけの話ではない。「僕たち」の話でもあるっていうことですよね。うしろから詰められて補充されてしまうような「僕たち」の。しかしそれを歌うことによってなにがしかのフックを時に刻み込む「僕たち」の。
「働く意欲」によって両者を分かつ分割線はそんなに強固なものか。生の可能性を縮減されるただ中で「でも働くしかない」と思う事と「もう働けない」と思うこと、或いは「働きたいと思い、体が動くこと」と「働きたいと思っても、体が動かないこと」との間にはいかなる違いがあるのか 湯浅誠+仁平典宏
高畑勲『かぐや姫の物語』(2013)。高畑勲アニメにとってキャラクターのそれまでの歴史と無関係の都市的風景が最後に出てくるっていうのが割と特徴なんじゃないかと思うんですね。『火垂るの墓』や『平成狸合戦ぽんぽこ』なんかがそうなんですが、最後にそれまでのキャラクターが築き上げようとした風景とはまったく違うビルディングが出てきたりする。そこまでアニメーションによってキャラクターが積み上げてきたキャラクターの時間が〈無視〉されるしゅんかんを描く。それが高畑勲アニメの〈リアリティ〉なんじゃないかっていつも思うんですよ。で、『かぐやの物語』もある意味そうで、さいごに天人が迎えにくるんだけれどかぐや姫が泣いているのに凄まじく陽気な民族音楽のようなボサノヴァのような音色でくるんですね(邦楽的でもなんでもない)。それまでのかぐや姫の水墨的アニメーションの固有の堆積された時間を無視しているわけです。無視してかぐやをかっさらっていく。私は高畑勲アニメって、現実に対してアニメってそういうもんなんだよっていうメッセージ性があっていつもそれがこわいって思うんですね。つまりどんなにアニメが補充しても現実がそれを埋め合わせてしまうんだよっていう。
【未来はすぐに補充される】
この歌をふたつのポイントから読んでみたいんです。
「たぶん」と「ペットボトル」です。
まずは、「たぶん」。
この歌って「たぶん」で始まっている〈たぶん〉の歌です。「親の収入超せない僕たち」という認識はあるんです。そういう認識があるんだけれど、それが〈たぶん〉というアバウトな認識にしかならない。それが実際に本当なのかどうか踏み込んでいけない。そこにわたしは〈認識の階層差〉のようなものがあると思うんです。少し先取りするけれど、「ペットボトル」をえんえんと果てしなく補充してゆく〈終わりのない日常〉のなかで、〈認識〉の分節も奪われてしまう。そうして、あらゆる物事を〈たぶんの思考〉でしか考えられなくなってしまう。
この歌の危機は、「親の収入超せない」というところにあるのではなくて、「たぶん」にあると思うんですよ。
で、もうひとつが「ペットボトル」なんですが、たとえば「ペットボトル」の「補充」ということですぐに想像するのがコンビニのバイトです。でもここで語られているのは「コンビニのバイト」ではなく、「ペットボトルの補充」です。問題は、〈職がない〉ということにあるのではなく、職はあるのだけれどどんなに働いても働いてもいったいその〈先〉があるのかという「ペットボトルの補充的未来」にあるんじゃないかとおもうんです。
だから〈働けない危機〉というよりは、〈働くことの危機〉です。コンビニのペットボトルの棚をみてもらえばわかるけれど、あれって前のやつを抜き取るとうしろから勝手に前へおりてくるんですよ。つまり私がどれだけ一所懸命働いても私に固有性はなく、すぐ次の誰かがやってきて私のあとを埋めてしまう。働くことはできるんだけれど、その働き続けることに、フックがかかるような未来がない。
それが「ペットボトル補充的労働」なんじゃないかとおもう。
そしてこれは「僕」だけの話ではない。「僕たち」の話でもあるっていうことですよね。うしろから詰められて補充されてしまうような「僕たち」の。しかしそれを歌うことによってなにがしかのフックを時に刻み込む「僕たち」の。
「働く意欲」によって両者を分かつ分割線はそんなに強固なものか。生の可能性を縮減されるただ中で「でも働くしかない」と思う事と「もう働けない」と思うこと、或いは「働きたいと思い、体が動くこと」と「働きたいと思っても、体が動かないこと」との間にはいかなる違いがあるのか 湯浅誠+仁平典宏
高畑勲『かぐや姫の物語』(2013)。高畑勲アニメにとってキャラクターのそれまでの歴史と無関係の都市的風景が最後に出てくるっていうのが割と特徴なんじゃないかと思うんですね。『火垂るの墓』や『平成狸合戦ぽんぽこ』なんかがそうなんですが、最後にそれまでのキャラクターが築き上げようとした風景とはまったく違うビルディングが出てきたりする。そこまでアニメーションによってキャラクターが積み上げてきたキャラクターの時間が〈無視〉されるしゅんかんを描く。それが高畑勲アニメの〈リアリティ〉なんじゃないかっていつも思うんですよ。で、『かぐやの物語』もある意味そうで、さいごに天人が迎えにくるんだけれどかぐや姫が泣いているのに凄まじく陽気な民族音楽のようなボサノヴァのような音色でくるんですね(邦楽的でもなんでもない)。それまでのかぐや姫の水墨的アニメーションの固有の堆積された時間を無視しているわけです。無視してかぐやをかっさらっていく。私は高畑勲アニメって、現実に対してアニメってそういうもんなんだよっていうメッセージ性があっていつもそれがこわいって思うんですね。つまりどんなにアニメが補充しても現実がそれを埋め合わせてしまうんだよっていう。
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