【感想】首に汗疹半分がエロ本の店 中山奈々
- 2016/02/13
- 00:22
首に汗疹半分がエロ本の店 中山奈々
【かたよると、うまれる】
『しばかぶれ(特集 中山奈々)』からの一句です。
この俳句のひとつの面白さに「半分がエロ本の店」っていう《割合》を気にしているところがあると思うんですよね。
エロ本のコンテンツを気にしているわけではない。エロの濃度や構成でもない。エロそのものに興味があるわけではなく、本屋さんの《割合》そのものを気にかけている、そういう句なのではないかと思うんです。
でもその割合にも偏差があるというか偏りがあって、《エロ本》と《エロ本以外》で分割された世界なんですよね、少なくともここでは。《エロ本》分割です。そういうカテゴリー分けがされている。《エロ本》に興味はないけれど、《エロ本》でものを考えている状態。
そのときに「汗疹」っていう季語が効いてくると思うんです。「首に汗疹」がある状態でいま世界を生きている。身体の重心が少し「汗疹」に偏差がある状態です。かゆかったりしますからね。そうした身体の偏差が、認識の偏差としてもでている。
割合をみつくろってバランスを取ろうとしても、そこに偏りが生まれてしまう。それがこの句の「半分がエロ本」の世界観なんじゃないかとおもう。
「首の汗疹」がなかなかとらえがたいものであるように(鏡でないと確認もできない)、「半分がエロ本の店」っていうのも実はなかなかとらえがたかったりする《大まかな》世界です。
でも語り手は見出した《偏差》によって世界のなにかをふっととらえようとしています。たとえば異臭でも。
ジーパンの異臭柳田国男の忌 中山奈々
大林宣彦『SADA』(1997)。猟奇的な阿部定事件の阿部定を描いたものなんだけれど、それを『時をかける少女』のある意味〈青春イメージ〉の大林宣彦監督が撮っているのがおもしろいと思うんですね。だから猟奇的やグロテスクというよりは、〈まっとうに生きようとしている〉〈さびしがりや〉の阿部定なんですよ。そこらへんをうまく接続しているのが、この映画で象徴的にあらわれるドーナッツです。阿部定がドーナッツを食べるシーンが何度も出てくるんだけれど、それってひとつは幼児性なんですね。無邪気さというか。で、だんだんドーナッツは性やセックスと結びつけられていくんだけれど、むしろこの映画ではセックスが間接的に描かれることによって、ドーナッツの方がセックスを代替するものになっていく。で、逆になってしまって、阿部定にとってセックスはドーナッツのようなものになっちゃうんですね。それって村上春樹的なセックスのイメージというか、〈関係を構築させないお茶会的なセックス〉なんですよ。つまり、今日あっても明日なくてもいいような。そういうある意味で〈さわやかな阿部定〉を描いたふしぎな映画です。黒木瞳が阿部定を演じているのでそのさわやかさと幼児性とアダルトさの三つ巴がよくでています。大林宣彦さんの描くセックスと村上春樹の描くセックスはふしぎとよく似ているとおもう。
【かたよると、うまれる】
『しばかぶれ(特集 中山奈々)』からの一句です。
この俳句のひとつの面白さに「半分がエロ本の店」っていう《割合》を気にしているところがあると思うんですよね。
エロ本のコンテンツを気にしているわけではない。エロの濃度や構成でもない。エロそのものに興味があるわけではなく、本屋さんの《割合》そのものを気にかけている、そういう句なのではないかと思うんです。
でもその割合にも偏差があるというか偏りがあって、《エロ本》と《エロ本以外》で分割された世界なんですよね、少なくともここでは。《エロ本》分割です。そういうカテゴリー分けがされている。《エロ本》に興味はないけれど、《エロ本》でものを考えている状態。
そのときに「汗疹」っていう季語が効いてくると思うんです。「首に汗疹」がある状態でいま世界を生きている。身体の重心が少し「汗疹」に偏差がある状態です。かゆかったりしますからね。そうした身体の偏差が、認識の偏差としてもでている。
割合をみつくろってバランスを取ろうとしても、そこに偏りが生まれてしまう。それがこの句の「半分がエロ本」の世界観なんじゃないかとおもう。
「首の汗疹」がなかなかとらえがたいものであるように(鏡でないと確認もできない)、「半分がエロ本の店」っていうのも実はなかなかとらえがたかったりする《大まかな》世界です。
でも語り手は見出した《偏差》によって世界のなにかをふっととらえようとしています。たとえば異臭でも。
ジーパンの異臭柳田国男の忌 中山奈々
大林宣彦『SADA』(1997)。猟奇的な阿部定事件の阿部定を描いたものなんだけれど、それを『時をかける少女』のある意味〈青春イメージ〉の大林宣彦監督が撮っているのがおもしろいと思うんですね。だから猟奇的やグロテスクというよりは、〈まっとうに生きようとしている〉〈さびしがりや〉の阿部定なんですよ。そこらへんをうまく接続しているのが、この映画で象徴的にあらわれるドーナッツです。阿部定がドーナッツを食べるシーンが何度も出てくるんだけれど、それってひとつは幼児性なんですね。無邪気さというか。で、だんだんドーナッツは性やセックスと結びつけられていくんだけれど、むしろこの映画ではセックスが間接的に描かれることによって、ドーナッツの方がセックスを代替するものになっていく。で、逆になってしまって、阿部定にとってセックスはドーナッツのようなものになっちゃうんですね。それって村上春樹的なセックスのイメージというか、〈関係を構築させないお茶会的なセックス〉なんですよ。つまり、今日あっても明日なくてもいいような。そういうある意味で〈さわやかな阿部定〉を描いたふしぎな映画です。黒木瞳が阿部定を演じているのでそのさわやかさと幼児性とアダルトさの三つ巴がよくでています。大林宣彦さんの描くセックスと村上春樹の描くセックスはふしぎとよく似ているとおもう。
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