【感想】コンビニのおでんが好きで星きれい 神野紗希
- 2016/02/14
- 01:15
コンビニのおでんが好きで星きれい 神野紗希
愛はコンビニでも買えるけれど もう少しさがそうよ スピッツ「運命の人」
【おでんとスーパーフラット】
ふっと気がついたら家のぐるりに朱雀門みたいにあちこちにファミマが建っていて、ファミマに包囲された場所に住んでいるので、よくコンビニに行くんですね。自分にとって《冒険》というのはいつもコンビニに行くことを意味しているんですよ。
まあそれはいいんだけれど、コンビニにいくたびにこの神野さんの句を思い出しているんですね。
で、私は以前少し書いたんだけれど、この句の語り手は「コンビニのおでん」が好きじゃないんじゃないかって思ったんです。この句の語り手にとって「コンビニのおでん」ってきれいな「星」とほとんど等価であって、だったら〈夜景〉をみさえすれば、別に「コンビニのおでん」を食べなくても語り手はそれで満足してしまう。
つまり語り手にとっては「コンビニにおでん」というのは定型化された(決まり文句的な)「星きれい」ほどのものでしかないと思っていたんです。で、そこがこの句のおもしろさだと思っていたんですよ。コンビニ的感性、というか。あ、これ好き! って思うんだけれど、コンビニを出たしゅんかん、「あ、星も好き!」って思ってしまうという。《認識のコンビニエンスストア》です。
でも、だんだん、コンビニに通いつづけるうちに、それもどうなんだろうと思い始めた。気になってきたのが、中七と下五をつないでいる「で」です。
この「で」はいったいなんなんでしょうか。
コンビニのおでんが好きだ。星がきれい。(コンビニのおでんが好きで、星がきれい)
という「好きだ」という形容動詞の連用形の「好きで」だとは思うんです。
ただここで「好きだ」から「星きれい」につなげていく以上、「コンビニのおでんが好き」と「星きれい」は関係をもっていくはずです。「君のことが好きで、星きれい」みたいに。
だから、あえてもっというと、
コンビニのおでんが好きなので、星がきれい。
もっともっというと、
コンビニのおでんが好きなわたしなので、星なんかもきれいと感じてしまう。
のように、ここには大胆に省略したために生まれてしまう《おでんと星の関係性》がでてくるはずです(と思うんですよ)。
だからこの「で」っていうのがふしぎなニュアンスをうんでいるのではないかと思うんですよ。「だ」じゃなかったことによって。
この「で」によって、「コンビニのおでんが好き」というのが〈星がきれい〉であることの根拠にもなっているんじゃないかと思うんですね。例文をあげるなら「彼女のことが好き《で》手をぱっとつないだ」みたいに。
で、《そこまで》コンビニのおでんが好きだったひとは、今までいなかったんじゃないかと思ったんです。しかもそれを俳句という形式によって《整理》した。《整理》してまで好きだった。
この「で」というのが文法的にとても込み入っている感じがするんですね。「コンビニのおでん」にも関わらず、そこには〈季語〉が〈俳句〉が〈文法〉がといういくえにもレイヤーがかかっていく。「星きれい」というシンプルな感情表現を成立させるための環境整備がとても《込み入っている》んですよ。ぜんぜん、《コンビニエンス》なんかではないんです。
それも、この句のおもしろさじゃないかと。
俳句ってコンビニ化しそうになりながらも、でも、コンビニ化を避けてしまうところがある。そのふしぎさがあるんじゃないかとおもう。
外山一機さんが「神野紗希は何も生みださない」と書かれていたときに、それでも俳句がうみだしてしまう《剰余》とはなんなんだろうと外山さんの問題提起を引き継いで問いを設定することもできるんじゃないかと思うんですね。
「星きれい」という《あえて何も生みださない》《俳句のスーパーフラット》な空間構成なのに、それでも湧いてくるなにかがある。わたしもそのひとりなのですが、だれかがそれを語ろうとする。これからもコンビニの冬がくるたびに、わたし以外のわたしがこの神野さんの句を語るだろうとおもう。だとしたら、それはなんなのか。
コンビニは《私》の細胞をつくるトポスなのかも。
細胞の全部が私さくら咲く 神野紗希
堤幸彦『20世紀少年』(2008)。コンビニってふしぎな空間で、日本っぽくないのに(和名がない)日本に《しか》ないものなんですよ(基本的には海外にない)。すごくねじれた空間です。セブン-イレブンだって、7時から23時の営業だったものが24時間営業になるっていうねじれを抱え込んでいる。そもそも24時間営業って、《永劫営業》なんですよね。24時間ならば、48時間だろうが、132時間だろうが、9999999時間営業だろうが、なんだっていいんです。でも、コンビニで時間の思索にふけるひとも、コンビニにナショナリズムをみいだすひともたぶんいないとおもうんです。ゼロの空間みたいになっている。そういう堆積されたゼロの場所=コンビニでたとえば『20世紀少年』の主人公ケンヂが働く場所になっていることもなにか意味があるかもしれない。失われた時間がやってくる物語だから。
愛はコンビニでも買えるけれど もう少しさがそうよ スピッツ「運命の人」
【おでんとスーパーフラット】
ふっと気がついたら家のぐるりに朱雀門みたいにあちこちにファミマが建っていて、ファミマに包囲された場所に住んでいるので、よくコンビニに行くんですね。自分にとって《冒険》というのはいつもコンビニに行くことを意味しているんですよ。
まあそれはいいんだけれど、コンビニにいくたびにこの神野さんの句を思い出しているんですね。
で、私は以前少し書いたんだけれど、この句の語り手は「コンビニのおでん」が好きじゃないんじゃないかって思ったんです。この句の語り手にとって「コンビニのおでん」ってきれいな「星」とほとんど等価であって、だったら〈夜景〉をみさえすれば、別に「コンビニのおでん」を食べなくても語り手はそれで満足してしまう。
つまり語り手にとっては「コンビニにおでん」というのは定型化された(決まり文句的な)「星きれい」ほどのものでしかないと思っていたんです。で、そこがこの句のおもしろさだと思っていたんですよ。コンビニ的感性、というか。あ、これ好き! って思うんだけれど、コンビニを出たしゅんかん、「あ、星も好き!」って思ってしまうという。《認識のコンビニエンスストア》です。
でも、だんだん、コンビニに通いつづけるうちに、それもどうなんだろうと思い始めた。気になってきたのが、中七と下五をつないでいる「で」です。
この「で」はいったいなんなんでしょうか。
コンビニのおでんが好きだ。星がきれい。(コンビニのおでんが好きで、星がきれい)
という「好きだ」という形容動詞の連用形の「好きで」だとは思うんです。
ただここで「好きだ」から「星きれい」につなげていく以上、「コンビニのおでんが好き」と「星きれい」は関係をもっていくはずです。「君のことが好きで、星きれい」みたいに。
だから、あえてもっというと、
コンビニのおでんが好きなので、星がきれい。
もっともっというと、
コンビニのおでんが好きなわたしなので、星なんかもきれいと感じてしまう。
のように、ここには大胆に省略したために生まれてしまう《おでんと星の関係性》がでてくるはずです(と思うんですよ)。
だからこの「で」っていうのがふしぎなニュアンスをうんでいるのではないかと思うんですよ。「だ」じゃなかったことによって。
この「で」によって、「コンビニのおでんが好き」というのが〈星がきれい〉であることの根拠にもなっているんじゃないかと思うんですね。例文をあげるなら「彼女のことが好き《で》手をぱっとつないだ」みたいに。
で、《そこまで》コンビニのおでんが好きだったひとは、今までいなかったんじゃないかと思ったんです。しかもそれを俳句という形式によって《整理》した。《整理》してまで好きだった。
この「で」というのが文法的にとても込み入っている感じがするんですね。「コンビニのおでん」にも関わらず、そこには〈季語〉が〈俳句〉が〈文法〉がといういくえにもレイヤーがかかっていく。「星きれい」というシンプルな感情表現を成立させるための環境整備がとても《込み入っている》んですよ。ぜんぜん、《コンビニエンス》なんかではないんです。
それも、この句のおもしろさじゃないかと。
俳句ってコンビニ化しそうになりながらも、でも、コンビニ化を避けてしまうところがある。そのふしぎさがあるんじゃないかとおもう。
外山一機さんが「神野紗希は何も生みださない」と書かれていたときに、それでも俳句がうみだしてしまう《剰余》とはなんなんだろうと外山さんの問題提起を引き継いで問いを設定することもできるんじゃないかと思うんですね。
「星きれい」という《あえて何も生みださない》《俳句のスーパーフラット》な空間構成なのに、それでも湧いてくるなにかがある。わたしもそのひとりなのですが、だれかがそれを語ろうとする。これからもコンビニの冬がくるたびに、わたし以外のわたしがこの神野さんの句を語るだろうとおもう。だとしたら、それはなんなのか。
コンビニは《私》の細胞をつくるトポスなのかも。
細胞の全部が私さくら咲く 神野紗希
堤幸彦『20世紀少年』(2008)。コンビニってふしぎな空間で、日本っぽくないのに(和名がない)日本に《しか》ないものなんですよ(基本的には海外にない)。すごくねじれた空間です。セブン-イレブンだって、7時から23時の営業だったものが24時間営業になるっていうねじれを抱え込んでいる。そもそも24時間営業って、《永劫営業》なんですよね。24時間ならば、48時間だろうが、132時間だろうが、9999999時間営業だろうが、なんだっていいんです。でも、コンビニで時間の思索にふけるひとも、コンビニにナショナリズムをみいだすひともたぶんいないとおもうんです。ゼロの空間みたいになっている。そういう堆積されたゼロの場所=コンビニでたとえば『20世紀少年』の主人公ケンヂが働く場所になっていることもなにか意味があるかもしれない。失われた時間がやってくる物語だから。
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