【感想】長き夜の外から鍵のかかる部屋 喪字男
- 2016/02/17
- 23:23
長き夜の外から鍵のかかる部屋 喪字男
孤独は牢獄のようなものだと彼は思った。もし彼女が結婚したくないと言ったら俺はこのまま死んでしまうかもしれない。 市川準『トニー滝谷』
ときには自分が誰なのか、一瞬垣間見えることさえある。だが結局のところ何ひとつ確信できはしない。人生が進んでゆくにつれて、われわれは自分自身にとってますます不透明になってゆく。自分という存在がいかに一貫性を欠いているか、ますます痛切に思い知るのだ。 オースター『鍵のかかった部屋』
【俳句と監禁】
『しばかぶれ』第1集の喪字男さんの「昼寝用」からの一句です。
この句のポイントは内側から鍵をかけるのではなくて、「外から鍵がかかる」「部屋」にいるということだと思うんですが、ということは、閉じこめられているわけですよ。監禁、というか。だから、「夜」が「長い」んですね。
で、喪字男さんの句に、
長き夜のダース・ベイダー卿の息 喪字男
と、やはり「長き夜」という季語を使った句があるんですが、これもある意味で、〈監禁〉の句なんですね。なぜなら、ダースベイダーというひとは、自分で自分を悪に堕として〈監禁〉してしまったひとだからです。この拘束具のような黒いマスクは息子のルークでしか外せません。じぶんでは外せない。ということはこれもひとつの「外から鍵がかかる部屋」なんですね。だから、ベイダー卿も「長い夜」を生きているわけです、ダークサイドに堕ちてからずっと。
だから、喪字男さんにとって季語「長き夜」は〈監禁〉なんじゃないかと思うんですね。監禁としての季語、というか。
で、監禁といえばですね、さいきん『週刊俳句』に川合大祐さんが「檻=容器」という連作を載せられているんですが、この「檻」の感じもひとつの〈監禁〉に近い。じゃあ、大祐さんの川柳のなかではなにが〈監禁〉なのか。
「「「「「「「「「蚊」」」」」」」」」 川合大祐
これをみるとわかるんですが、大祐さんにとって〈檻〉っていうのは〈記号〉なんじゃないかと思うんですね。この「蚊」というテキストにたどりつくためには何重もの「」=記号を越えなければならない。
ただこの記号は「檻」であると同時に「容器」としても機能しているわけです、タイトルでわかるように。そうすると、それは「容器」なのだから破った場合、なにかが漏れ出してしまう。だからかんたんに破るわけにはいかないのです。守らなくてもいけない。でもそれは同時に檻だから檻にいるわけにもいかない。まさに桎梏なんですね。
それが大祐さんの川柳のなかの〈監禁的記号観〉なんじゃないかとおもう。小池正博さんが、だいすけさんの記号の使用には気のきいた小手先の感じというよりはなにか逼迫したものを感じると指摘したのはそういう理由もひとつあるんじゃないかと思うんです。記号の苦悶、というか。
でもそもそも定型と監禁は実は関係性がふかいような気もするんです。定型にのっとって記憶や瞬間をパッケージングする、というよりは、監禁してゆくわけですよね。
そうやって、ひとは、うたをうたっている。
うたをうたうひとはいつも外から鍵のかかる部屋のなかに暮らしているのかもしれない。
こうやって宇宙をひとつ閉じてゆく」 川合大祐
キャロル・リード『第三の男』(1949)。消えた親友を追い求めていくなかで背景となる戦争によって崩壊したウィーンが印象的な映画なんですが、ここで崩壊しているのはアングルそのものなんですね。映画のあいだじゅう、アングルがずっと〈斜め〉っている。最後までこれは回復できないわけです。消えた親友というのをオーソン・ウェルズが演じていて、すごくいい味を出しているんですが、主人公は親友を追いかけているうちに親友との関係が回復不能だとだんだん感じていくわけです。なにかが壊れてしまっている。でもたぶん親友もどこかでそれをわかっていて、悪辣なことやっている。「ボルジア家支配のイタリアでの30年間は戦争、テロ、殺人、流血に満ちていたが、結局はミケランジェロ、ダヴィンチ、ルネサンスを生んだ。スイスの同胞愛、そして500年の平和と民主主義はいったい何をもたらした? 鳩時計だよ」と親友はいうんだけれど、でもそういったダヴィンチや鳩時計という〈芸術と技術〉でしか歴史観を考えられないところに親友の限界と偏差がある。そういう〈崩壊した檻とアングル〉のなかで親友/元親友のゆれる関係を描くおもしろい映画です。
孤独は牢獄のようなものだと彼は思った。もし彼女が結婚したくないと言ったら俺はこのまま死んでしまうかもしれない。 市川準『トニー滝谷』
ときには自分が誰なのか、一瞬垣間見えることさえある。だが結局のところ何ひとつ確信できはしない。人生が進んでゆくにつれて、われわれは自分自身にとってますます不透明になってゆく。自分という存在がいかに一貫性を欠いているか、ますます痛切に思い知るのだ。 オースター『鍵のかかった部屋』
【俳句と監禁】
『しばかぶれ』第1集の喪字男さんの「昼寝用」からの一句です。
この句のポイントは内側から鍵をかけるのではなくて、「外から鍵がかかる」「部屋」にいるということだと思うんですが、ということは、閉じこめられているわけですよ。監禁、というか。だから、「夜」が「長い」んですね。
で、喪字男さんの句に、
長き夜のダース・ベイダー卿の息 喪字男
と、やはり「長き夜」という季語を使った句があるんですが、これもある意味で、〈監禁〉の句なんですね。なぜなら、ダースベイダーというひとは、自分で自分を悪に堕として〈監禁〉してしまったひとだからです。この拘束具のような黒いマスクは息子のルークでしか外せません。じぶんでは外せない。ということはこれもひとつの「外から鍵がかかる部屋」なんですね。だから、ベイダー卿も「長い夜」を生きているわけです、ダークサイドに堕ちてからずっと。
だから、喪字男さんにとって季語「長き夜」は〈監禁〉なんじゃないかと思うんですね。監禁としての季語、というか。
で、監禁といえばですね、さいきん『週刊俳句』に川合大祐さんが「檻=容器」という連作を載せられているんですが、この「檻」の感じもひとつの〈監禁〉に近い。じゃあ、大祐さんの川柳のなかではなにが〈監禁〉なのか。
「「「「「「「「「蚊」」」」」」」」」 川合大祐
これをみるとわかるんですが、大祐さんにとって〈檻〉っていうのは〈記号〉なんじゃないかと思うんですね。この「蚊」というテキストにたどりつくためには何重もの「」=記号を越えなければならない。
ただこの記号は「檻」であると同時に「容器」としても機能しているわけです、タイトルでわかるように。そうすると、それは「容器」なのだから破った場合、なにかが漏れ出してしまう。だからかんたんに破るわけにはいかないのです。守らなくてもいけない。でもそれは同時に檻だから檻にいるわけにもいかない。まさに桎梏なんですね。
それが大祐さんの川柳のなかの〈監禁的記号観〉なんじゃないかとおもう。小池正博さんが、だいすけさんの記号の使用には気のきいた小手先の感じというよりはなにか逼迫したものを感じると指摘したのはそういう理由もひとつあるんじゃないかと思うんです。記号の苦悶、というか。
でもそもそも定型と監禁は実は関係性がふかいような気もするんです。定型にのっとって記憶や瞬間をパッケージングする、というよりは、監禁してゆくわけですよね。
そうやって、ひとは、うたをうたっている。
うたをうたうひとはいつも外から鍵のかかる部屋のなかに暮らしているのかもしれない。
こうやって宇宙をひとつ閉じてゆく」 川合大祐
キャロル・リード『第三の男』(1949)。消えた親友を追い求めていくなかで背景となる戦争によって崩壊したウィーンが印象的な映画なんですが、ここで崩壊しているのはアングルそのものなんですね。映画のあいだじゅう、アングルがずっと〈斜め〉っている。最後までこれは回復できないわけです。消えた親友というのをオーソン・ウェルズが演じていて、すごくいい味を出しているんですが、主人公は親友を追いかけているうちに親友との関係が回復不能だとだんだん感じていくわけです。なにかが壊れてしまっている。でもたぶん親友もどこかでそれをわかっていて、悪辣なことやっている。「ボルジア家支配のイタリアでの30年間は戦争、テロ、殺人、流血に満ちていたが、結局はミケランジェロ、ダヴィンチ、ルネサンスを生んだ。スイスの同胞愛、そして500年の平和と民主主義はいったい何をもたらした? 鳩時計だよ」と親友はいうんだけれど、でもそういったダヴィンチや鳩時計という〈芸術と技術〉でしか歴史観を考えられないところに親友の限界と偏差がある。そういう〈崩壊した檻とアングル〉のなかで親友/元親友のゆれる関係を描くおもしろい映画です。
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