【感想】オナニーと俳句をめぐって-喪字男さんの俳句作品「昼寝用」の詞書から-
- 2016/02/18
- 00:18
一日ひとこすりで一年くらいかけてオナニーしてみたい。 喪字男(俳句作品「昼寝用」の詞書)
オナニーは自己の生理調節だけではなく、増殖し収集不能になりつつある記憶、思い出などを「管理」するための、きわめて人工的な摩擦運動である。 寺山修司「幸福論」
【記憶の管理者たち】
『しばかぶれ』の中の喪字男さんの俳句作品「昼寝用」には上記の詞書が添えてあるんですね。
で、俳句っていうのは季語があることからもわかるように〈時間〉と関わりが深い表現形式なんですが、オナニーも喪字男さんが「一年くらいかけて」と記したり、寺山修司が〈思い出の管理〉と指摘しているように〈時間〉と関わりが深い行為なんじゃないかと思うんです。
もっというと、寺山はオナニーを〈記憶〉や〈思い出〉を〈整理〉する行為なんだといっていますが、俳句も季語によって季分ごとに整理されていく。でもその季語のインデックスによって、あとから引っ張り出してもさっとこの時間のここにあった出来事だとわかるわけですよね。
で、そういう〈時間の整理〉という点ではオナニーと俳句は少し似ている。だからもしかしてオナニーを長い長い時間のなかにあえておいた喪字男さんはこう言っていたんじゃないかともおもうんです。
《一日一句で一年くらいかけて俳句してみたい。》
一年かけてオナニーするとそこには春夏秋冬のすべての季語が内包されていくわけです。一日一句季節ととともに詠んでいくのとおなじように。そのとき、オナニーは季感を内包していく。季節のなかで、循環=サイクルするものになる。でも春の、夏の、秋の、冬のなかで差異もでてくるでしょう。
あの日たしかに虫籠に入れたのに 喪字男
という喪字男さんの句は収集も整理も管理もできなかった《時間》そのものをあわらしているようにも、おもうんです。「あの日」としかいえないような時間です。そして季節を内包することもないオナニーもたぶん「あの日」が反復されるだけの行為なはずです、ふつうは。
でも、俳句の視座によって、すこし、それが変わってくる。俳句から、思い出や時間の管理の仕方、整理のしかたが変わってくる。
そのしゅんかんを「昼寝用」はあらわしているような気がする。
色彩や汗をかかなくなる手術 喪字男
タヴィアーニ兄弟『父/パードレ・パドローネ』(1977)。タヴィアーニ兄弟の映画はよく少年たちの自慰行為が出てくるんですが、たとえばそれは戦争の過酷な状況下で〈のどか〉なかたちで出てきたりするんですね。周囲の状況とは無関係に突発的な欲動として出てくる。物語に構造化されない性として出てくる。それがとてもおもしろいなって思うんです。性っていうのはドラマや物語に奉仕しない。ひとは戦争のさなか、〈ただ単に〉オナニーをする。そういう率直な性をすごく上手におかしく描いていると思います。
オナニーは自己の生理調節だけではなく、増殖し収集不能になりつつある記憶、思い出などを「管理」するための、きわめて人工的な摩擦運動である。 寺山修司「幸福論」
【記憶の管理者たち】
『しばかぶれ』の中の喪字男さんの俳句作品「昼寝用」には上記の詞書が添えてあるんですね。
で、俳句っていうのは季語があることからもわかるように〈時間〉と関わりが深い表現形式なんですが、オナニーも喪字男さんが「一年くらいかけて」と記したり、寺山修司が〈思い出の管理〉と指摘しているように〈時間〉と関わりが深い行為なんじゃないかと思うんです。
もっというと、寺山はオナニーを〈記憶〉や〈思い出〉を〈整理〉する行為なんだといっていますが、俳句も季語によって季分ごとに整理されていく。でもその季語のインデックスによって、あとから引っ張り出してもさっとこの時間のここにあった出来事だとわかるわけですよね。
で、そういう〈時間の整理〉という点ではオナニーと俳句は少し似ている。だからもしかしてオナニーを長い長い時間のなかにあえておいた喪字男さんはこう言っていたんじゃないかともおもうんです。
《一日一句で一年くらいかけて俳句してみたい。》
一年かけてオナニーするとそこには春夏秋冬のすべての季語が内包されていくわけです。一日一句季節ととともに詠んでいくのとおなじように。そのとき、オナニーは季感を内包していく。季節のなかで、循環=サイクルするものになる。でも春の、夏の、秋の、冬のなかで差異もでてくるでしょう。
あの日たしかに虫籠に入れたのに 喪字男
という喪字男さんの句は収集も整理も管理もできなかった《時間》そのものをあわらしているようにも、おもうんです。「あの日」としかいえないような時間です。そして季節を内包することもないオナニーもたぶん「あの日」が反復されるだけの行為なはずです、ふつうは。
でも、俳句の視座によって、すこし、それが変わってくる。俳句から、思い出や時間の管理の仕方、整理のしかたが変わってくる。
そのしゅんかんを「昼寝用」はあらわしているような気がする。
色彩や汗をかかなくなる手術 喪字男
タヴィアーニ兄弟『父/パードレ・パドローネ』(1977)。タヴィアーニ兄弟の映画はよく少年たちの自慰行為が出てくるんですが、たとえばそれは戦争の過酷な状況下で〈のどか〉なかたちで出てきたりするんですね。周囲の状況とは無関係に突発的な欲動として出てくる。物語に構造化されない性として出てくる。それがとてもおもしろいなって思うんです。性っていうのはドラマや物語に奉仕しない。ひとは戦争のさなか、〈ただ単に〉オナニーをする。そういう率直な性をすごく上手におかしく描いていると思います。
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