【感想】月を見つけて月いいよねと君が言う ぼくはこっちだからじゃあまたね 永井祐
- 2014/07/13
- 23:14
月を見つけて月いいよねと君が言う ぼくはこっちだからじゃあまたね 永井祐
【月へ/からの闘争/逃走】
満月の夜にこのうたについてずっとかんがえてて、ひとつふしぎに思ったのが「月がきれいだね」と口に出して言うことはあっても「月いいよね」と口に出して言うことはほとんどないんじゃないかってことです。
たとえば、ネットで広まっている話で夏目漱石が「I love you」を「月が綺麗ですね」と訳せばいいんだ、と言ったという話がありますが、その話の真偽はともかく、その場合の「月が綺麗」の「月」とは「あなた」の隠喩として成り立っているからこそのアイラヴユーだとおもうんですね。それと同時に、もし「月」が換喩としても成り立っているならば、「月」が綺麗であるということによって「月をみているわたしたちのいまここの場所」が「綺麗」にふさわしい情景である、という隣接的比喩としても機能しているのかもしれません。
ただ「月いいよね」というのはふしぎな言表だとおもいます。綺麗かどうかが問われているのではなく、いいかどうかが問われているからです。
で、ここでわたしはこんなふうにかんがえてみたいとおもいます。この「月いいよね」は「月がきれいだね」が〈回避〉されたかたちで言表されたのではないかと。
ここで「月がきれいだね」ということは、「君」と「ぼく」との間のなにかしらのロマンティックなコードを起動させることになるかもしれません。ですが、「月がきれいだね」は漱石がいみじくも「I love you」の訳語としたように(という話がある一定のパワーをもった言説としてネットで一気に拡散したように)、〈普遍的〉な言説です。「月がきれいだね」ということは、一般的に流通しているロマンティックなコードに回収されてしまうことを意味しています。そのとき、そのコードに回収されないようにするためには、「いいよね」というしかなかったのではないか。
ところがその一般的なロマンティック・コードを回避してまで発話した「君」の一回的な「月いいよね」をさらに二字空きののちの距離感をともなった下の句において「ぼくはこっちだからじゃあまたね」とさらに回避してしまったのが「ぼく」だったのではないか。つまり、「じゃあまたね」という「いいよね」を一般的な「さよなら」の言説に回収してしまったのが「ぼく」だったのではないかとおもうのです。
だからこの歌には二重の回避がみられるのではないかとおもいます。ひとつめは、一般的なロマンティックからの「君」の回避、ふたつめは、個別的な君の発話に応答なかった「ぼく」の回避。
しかし、短歌という定型詩においてもはや「じゃあまたね」に対する「君」の応答をうかがう余地はありません。短歌とは、たとえ一回的な出来事であっても、それを暴力的に収束させるところに〈詩性〉があります。
しかしその暴力的収束性に抵抗しているのが定型のなかの上の句と下の句の〈あいだ〉の二字空きです。おそらくこの二字はずっと、どの意味にも回収されない〈沈黙〉のブラックホールとして機能しつづけるはずです。あなたとわたしの関係において、なにを回避して、なにを回避してはいけないのか。そんなことを決める審級はこの世界のいったいどこにあるのか。
「君」や「ぼく」や〈定型〉や〈語り手〉や〈読み手〉を、そうかんたんに交錯することをさせはしない終わらないひとつの〈問い〉として、この二字空きは機能しつづけていくようにおもうのです。
君は君の僕には僕の考えのようなもの チェックの服で寝る 永井祐
【月へ/からの闘争/逃走】
満月の夜にこのうたについてずっとかんがえてて、ひとつふしぎに思ったのが「月がきれいだね」と口に出して言うことはあっても「月いいよね」と口に出して言うことはほとんどないんじゃないかってことです。
たとえば、ネットで広まっている話で夏目漱石が「I love you」を「月が綺麗ですね」と訳せばいいんだ、と言ったという話がありますが、その話の真偽はともかく、その場合の「月が綺麗」の「月」とは「あなた」の隠喩として成り立っているからこそのアイラヴユーだとおもうんですね。それと同時に、もし「月」が換喩としても成り立っているならば、「月」が綺麗であるということによって「月をみているわたしたちのいまここの場所」が「綺麗」にふさわしい情景である、という隣接的比喩としても機能しているのかもしれません。
ただ「月いいよね」というのはふしぎな言表だとおもいます。綺麗かどうかが問われているのではなく、いいかどうかが問われているからです。
で、ここでわたしはこんなふうにかんがえてみたいとおもいます。この「月いいよね」は「月がきれいだね」が〈回避〉されたかたちで言表されたのではないかと。
ここで「月がきれいだね」ということは、「君」と「ぼく」との間のなにかしらのロマンティックなコードを起動させることになるかもしれません。ですが、「月がきれいだね」は漱石がいみじくも「I love you」の訳語としたように(という話がある一定のパワーをもった言説としてネットで一気に拡散したように)、〈普遍的〉な言説です。「月がきれいだね」ということは、一般的に流通しているロマンティックなコードに回収されてしまうことを意味しています。そのとき、そのコードに回収されないようにするためには、「いいよね」というしかなかったのではないか。
ところがその一般的なロマンティック・コードを回避してまで発話した「君」の一回的な「月いいよね」をさらに二字空きののちの距離感をともなった下の句において「ぼくはこっちだからじゃあまたね」とさらに回避してしまったのが「ぼく」だったのではないか。つまり、「じゃあまたね」という「いいよね」を一般的な「さよなら」の言説に回収してしまったのが「ぼく」だったのではないかとおもうのです。
だからこの歌には二重の回避がみられるのではないかとおもいます。ひとつめは、一般的なロマンティックからの「君」の回避、ふたつめは、個別的な君の発話に応答なかった「ぼく」の回避。
しかし、短歌という定型詩においてもはや「じゃあまたね」に対する「君」の応答をうかがう余地はありません。短歌とは、たとえ一回的な出来事であっても、それを暴力的に収束させるところに〈詩性〉があります。
しかしその暴力的収束性に抵抗しているのが定型のなかの上の句と下の句の〈あいだ〉の二字空きです。おそらくこの二字はずっと、どの意味にも回収されない〈沈黙〉のブラックホールとして機能しつづけるはずです。あなたとわたしの関係において、なにを回避して、なにを回避してはいけないのか。そんなことを決める審級はこの世界のいったいどこにあるのか。
「君」や「ぼく」や〈定型〉や〈語り手〉や〈読み手〉を、そうかんたんに交錯することをさせはしない終わらないひとつの〈問い〉として、この二字空きは機能しつづけていくようにおもうのです。
君は君の僕には僕の考えのようなもの チェックの服で寝る 永井祐
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