【ふしぎな川柳 第七十七夜】相対地獄から-清水かおり-
- 2016/02/18
- 23:48
血族は可動橋からやって来る 清水かおり
目隠しをしてオルガンを弾いている 〃
【現代川柳相対性理論】
『川柳木馬』147号・2016冬から清水さんの句です。
ここにある清水さんの句のひとつのおもしろさって〈相対性の挿入〉なんじゃないかと思うんですね。
たとえばそれは「可動橋」といったあげさげできる橋や、「目隠し」という視覚遮断にあらわれている。どっちも相対的なシャットダウンです。可動橋は通行させようと思えばそうできるし、目隠しもとってしまえばいいだけの話でもある。それは〈絶対的な遮断〉ではないのです。
でもそこに〈相対的な挿入〉を差し込むことで、シーンが変わってきます。
「血族」という絶対的なつながりが「可動橋」という相対的装置によって相対化され、「血族」は「橋」が決定づける〈つながり〉になってしまう。それは「血」が決めるのではなく、地理が決めるのです。
「目隠し」によってドレミファソラシドといった西洋近代の〈楽譜〉という制度や産業革命によって生まれた鍵盤という音楽装置としての〈音階〉の階層はばらばらになり、境界線も溶解し、ちがった音律が生まれるかもしれません。そこには和音や不協和音といった階層も消えるかもしれません。
相対性が挿入されることによって、階層やつながりが溶解し、それまでとは違ったかたちの風景がみえてくる。そこに清水さんの句のひとつのおもしろさがあるように思う。
もちろん、マーボー豆腐の階層も、崩す。
ひしめいて麻婆豆腐はそこそこ無残 清水かおり
ゼメキス『ロジャー・ラビット』(1988)。この映画で問われているのって、アニメと実写の階層ってなんだろうってことだと思うんですね。アニメと実写が融合することによって、アニメも実写も問われることになる。たとえばアニメにとっては〈死ぬ〉ってなんだろうってことが問われます。アニメのキャラクターがほんとうに身体的に死ぬというのはどういうことなのか。あるいは人間の身体がアニメと実写の境界におかれた場合、身体はどうなってしまうのか。その〈相対地獄〉を描いたアニメ実写映画だとおもう。
目隠しをしてオルガンを弾いている 〃
【現代川柳相対性理論】
『川柳木馬』147号・2016冬から清水さんの句です。
ここにある清水さんの句のひとつのおもしろさって〈相対性の挿入〉なんじゃないかと思うんですね。
たとえばそれは「可動橋」といったあげさげできる橋や、「目隠し」という視覚遮断にあらわれている。どっちも相対的なシャットダウンです。可動橋は通行させようと思えばそうできるし、目隠しもとってしまえばいいだけの話でもある。それは〈絶対的な遮断〉ではないのです。
でもそこに〈相対的な挿入〉を差し込むことで、シーンが変わってきます。
「血族」という絶対的なつながりが「可動橋」という相対的装置によって相対化され、「血族」は「橋」が決定づける〈つながり〉になってしまう。それは「血」が決めるのではなく、地理が決めるのです。
「目隠し」によってドレミファソラシドといった西洋近代の〈楽譜〉という制度や産業革命によって生まれた鍵盤という音楽装置としての〈音階〉の階層はばらばらになり、境界線も溶解し、ちがった音律が生まれるかもしれません。そこには和音や不協和音といった階層も消えるかもしれません。
相対性が挿入されることによって、階層やつながりが溶解し、それまでとは違ったかたちの風景がみえてくる。そこに清水さんの句のひとつのおもしろさがあるように思う。
もちろん、マーボー豆腐の階層も、崩す。
ひしめいて麻婆豆腐はそこそこ無残 清水かおり
ゼメキス『ロジャー・ラビット』(1988)。この映画で問われているのって、アニメと実写の階層ってなんだろうってことだと思うんですね。アニメと実写が融合することによって、アニメも実写も問われることになる。たとえばアニメにとっては〈死ぬ〉ってなんだろうってことが問われます。アニメのキャラクターがほんとうに身体的に死ぬというのはどういうことなのか。あるいは人間の身体がアニメと実写の境界におかれた場合、身体はどうなってしまうのか。その〈相対地獄〉を描いたアニメ実写映画だとおもう。
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