【感想】対岸で手をふっている人がいるこちら側には僕しかいない ながや宏高
- 2016/02/19
- 08:00
対岸で手をふっている人がいるこちら側には僕しかいない ながや宏高
【いつか本気で手を振る日】
『かばん新人特集号』2015からながやさんの一首です。
このながやさんの歌わたしはとても好きなんですが、短歌のなかの〈ためらい〉ってなんだろうって思ったんですね。
短歌って31音の定型なのでほんとうはためらっている〈ひま〉なんてないんじゃないかと思うわけですよ。31音しかないのだから、「対岸で手をふっている人がい」たら、〈ためらい〉なく、いそいで手をふりかえさなきゃいけないんじゃないかって。とりあえずは。
でも、語り手は〈ためらっ〉たんですね。「こちら側には僕しかいない」(だから僕に手をふっているんだよね。でもそんなはずないのかもしれない。どうしよう)とためらっているわけです。そしてその〈ためらい〉の緊張感のまま、定型の幕切れによって歌は〈終わる〉。
「僕しかいない」ことはわかっているのだから手をふりかえせばいいのに、「こちら側しか僕はいない」とまだためらっている。そしてそのためらいのもと、歌は終わりをむかえた。でもそのためらいによってこそ、相手に通じるコミュニケーションの根っこのような部分があるんじゃないか。
フェリーニの『甘い生活』という映画でもラストシーンに主人公のマストロヤンニに向かって女の子が対岸でなにか言っているんだけれど、さっぱり聞き取れないんですね。でも一所懸命なにか言っている。わからないんです。不発のコミュニケーションのなかで一所懸命さだけが行き交っている。
キェシロフスキの『白の愛』という映画でも刑務所の遠い檻越しに元夫と元妻が手話をかわす。ふたりがなにを交わしているかは観客にはわからないんです。でもなにかが伝わっていて夫は涙を流している。
コミュニケーションって実はこうした〈つっかえること〉の〈ためらい〉として成立しているんじゃないかなともおもうんです。ながやさんの歌で語り手が手をふりかえすのを〈ためらっ〉ているのは、手をふるときには〈ほんきで・ほんとうに手をふる〉ためにだとおもうんですよ。
ときにひとは、靴をはくにも、ほんきが要るんですよ。
玄関に靴を浮かべて沈まないように祈ってから乗りこんだ ながや宏高
緒方明『いつか読書する日』(2005)。すごく好きな映画なんですが、この映画の物語を支えているものって〈大いなるためらい〉なんですね。好きなひとがいるけれど相手も自分が好きなことはわかっているけれど、それをおもてに出さないようにお互いに〈大いなるためらい〉をもって、しかし〈近く〉で暮らしている。でもそのためらいが突然決壊してしまう。そういう映画なんです。私がとくに好きなシーンが、田中裕子が演じる主人公は読書家なんですが、ベッドで寝転がって『カラマーゾフの兄弟』を朗読している、そして「ないはずのところに自分で壁をつくって…」と声に出して読みながら泣いているシーンがあって、で、もしかしたらこの主人公にとって読書ってじぶんを〈抑圧〉する代替行為なんじゃないかって思ったんです。だから「いつか本当に読書する日」をこの主人公は待っているんじゃないかって。
【いつか本気で手を振る日】
『かばん新人特集号』2015からながやさんの一首です。
このながやさんの歌わたしはとても好きなんですが、短歌のなかの〈ためらい〉ってなんだろうって思ったんですね。
短歌って31音の定型なのでほんとうはためらっている〈ひま〉なんてないんじゃないかと思うわけですよ。31音しかないのだから、「対岸で手をふっている人がい」たら、〈ためらい〉なく、いそいで手をふりかえさなきゃいけないんじゃないかって。とりあえずは。
でも、語り手は〈ためらっ〉たんですね。「こちら側には僕しかいない」(だから僕に手をふっているんだよね。でもそんなはずないのかもしれない。どうしよう)とためらっているわけです。そしてその〈ためらい〉の緊張感のまま、定型の幕切れによって歌は〈終わる〉。
「僕しかいない」ことはわかっているのだから手をふりかえせばいいのに、「こちら側しか僕はいない」とまだためらっている。そしてそのためらいのもと、歌は終わりをむかえた。でもそのためらいによってこそ、相手に通じるコミュニケーションの根っこのような部分があるんじゃないか。
フェリーニの『甘い生活』という映画でもラストシーンに主人公のマストロヤンニに向かって女の子が対岸でなにか言っているんだけれど、さっぱり聞き取れないんですね。でも一所懸命なにか言っている。わからないんです。不発のコミュニケーションのなかで一所懸命さだけが行き交っている。
キェシロフスキの『白の愛』という映画でも刑務所の遠い檻越しに元夫と元妻が手話をかわす。ふたりがなにを交わしているかは観客にはわからないんです。でもなにかが伝わっていて夫は涙を流している。
コミュニケーションって実はこうした〈つっかえること〉の〈ためらい〉として成立しているんじゃないかなともおもうんです。ながやさんの歌で語り手が手をふりかえすのを〈ためらっ〉ているのは、手をふるときには〈ほんきで・ほんとうに手をふる〉ためにだとおもうんですよ。
ときにひとは、靴をはくにも、ほんきが要るんですよ。
玄関に靴を浮かべて沈まないように祈ってから乗りこんだ ながや宏高
緒方明『いつか読書する日』(2005)。すごく好きな映画なんですが、この映画の物語を支えているものって〈大いなるためらい〉なんですね。好きなひとがいるけれど相手も自分が好きなことはわかっているけれど、それをおもてに出さないようにお互いに〈大いなるためらい〉をもって、しかし〈近く〉で暮らしている。でもそのためらいが突然決壊してしまう。そういう映画なんです。私がとくに好きなシーンが、田中裕子が演じる主人公は読書家なんですが、ベッドで寝転がって『カラマーゾフの兄弟』を朗読している、そして「ないはずのところに自分で壁をつくって…」と声に出して読みながら泣いているシーンがあって、で、もしかしたらこの主人公にとって読書ってじぶんを〈抑圧〉する代替行為なんじゃないかって思ったんです。だから「いつか本当に読書する日」をこの主人公は待っているんじゃないかって。
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