なまえのふしぎ-あなたが初めて呼ばれ振り返るとき-
- 2016/02/20
- 00:10
かつて西原天気さんが「(いままったく関係のないことを思った。俳句では「下の名前」で呼ぶのが一般的だったはずなのに、その伝統は薄らいでいる。私も「紗希さん」「秀彦さん」と書かなかった)」と書かれていてとても興味深くおもったことがあるんですが、この《苗字で呼ぶか、名前で呼ぶか》というのは短歌・俳句・川柳をめぐってはけっこう独特なのかなっておもうんですね。その境界線ってどうなっているんだろうと。
たとえば、川柳のひと同士では通常〈名前〉の方でお互いを呼び合っています。わたしなら、「もともと」と呼ばれます。わたしは川柳の場合でも相手のかたを苗字で呼ぶことがあって(たぶんそちらの方が多いので)浮いているときもあります。あのひと少し浮いているね、とおもわれます。ふしぎなところです。
西原さんが上で述べられているように、俳句でも「苗字」で呼ぶときもあれば、「名前」で呼ぶときもあるんだと思います。それはたぶん松尾芭蕉を「松尾さん」と呼ばないで「芭蕉さん」と呼ぶ感覚にも近いと思うし、でも「苗字」で呼ぶならその〈感覚的伝統〉が失われていることなのかもしれないなとも思います。
「苗字」で呼んだり「名前」で呼んだりするのはたとえばそれは《めいめいのジャンルの制度》や《おのおののジャンルに基づいたコミュニケーション》の側面が大きいと思うんですが、もしかすると《名前の虚構性》も関係しているのかなとも思ったりします(たぶん加えてジェンダーの問題もあると思います。苗字で呼ぶか、名前で呼ぶかはかなりジェンダーバイアスがかかる場合もあります)。
《名前の虚構性》というのは、たとえば私の名前を例にとれば、「やぎもと・もともと」の場合、「おい、やぎもと」でも「おい、もともと」でもどちらでも偏差がそんなにないような気もします。これは考えてみると、苗字と名前の私性的割合が均等というか、どちらの名前で呼んでも虚構的というか、私性が少ないからかもしれません。だから、私が川柳の習いでたとえば歌人の「岡野大嗣さん」を「岡野さん」ではなく「大嗣さん」とお呼びしたら岡野さんはちょっとびっくりするかもしれない。でも歌人の「法橋ひらくさん」を私は「ひらくさん」とお呼びすることもあるから、これは名前の筆名性(それが本名かどうかというよりは、表記として〈本名的〉かどうか)とちょっと関わっている気もします。
ただふしぎなのは、穂村弘さんのことを「ひろしさん」とは呼ばないのに、加藤治郎さんはよくみんなから「じろーさん」と呼ばれていることです。なぜなんだろう、とよくかんがえます。それは加藤さんとわたしたちのアクセスポイントとしての「じろーさん」なのかなとも思ったりします。加藤さんはよくいろんなひとと交流し、話し合っています。そこでは短歌の問題やまだ短歌の問題未満のことも話し合われる。さまざまな問題が交錯しています。だからそこで加藤治郎さんはまだ短歌化される前の「じろーさん」として短歌未満の問題もふくめていろんなひとと話し合っているのではないか。つまり、《じろーさん》とは、そこで短歌と短歌未満のことを話し合う〈場所=通路〉なのかなとおもったりもするのです。ただよくはわかりません。〈おもっている〉だけです。だから、謎です。
でも、短詩と名前をめぐる問題はすっとしていながらももしかしたら深いのかなとも思います。短歌にはどんな名前のひとが多いのか、俳句にはどんな名前のひとが多いのか、川柳にはどんな名前のひとが多いのか、またそれら名前の変異や変遷によってジャンルじたいはどう変化していったのか、いかなかったのか。しらべてみるとおもしろいかもしれません。
わたしはぼそぼそ話すので「やぎもと」ではなく「あぎもと」だと思われて、ずっと「あぎもと」と思われていたこともあります。相手も「あぎもとさん」と呼びながらも、すこし、ようすがおかしいなという感じはしていたようです。わたしも名前が呼ばれるたびに「はい」と返事をしながらも返事をするたびに罪悪感をかんじていました。
三年たって、いっしょに橋のうえを歩いていたときに、とつぜん、「ほんとうの名前はなんというのですか」と聞かれました。
ええと、と私は言いました。
たとえば、川柳のひと同士では通常〈名前〉の方でお互いを呼び合っています。わたしなら、「もともと」と呼ばれます。わたしは川柳の場合でも相手のかたを苗字で呼ぶことがあって(たぶんそちらの方が多いので)浮いているときもあります。あのひと少し浮いているね、とおもわれます。ふしぎなところです。
西原さんが上で述べられているように、俳句でも「苗字」で呼ぶときもあれば、「名前」で呼ぶときもあるんだと思います。それはたぶん松尾芭蕉を「松尾さん」と呼ばないで「芭蕉さん」と呼ぶ感覚にも近いと思うし、でも「苗字」で呼ぶならその〈感覚的伝統〉が失われていることなのかもしれないなとも思います。
「苗字」で呼んだり「名前」で呼んだりするのはたとえばそれは《めいめいのジャンルの制度》や《おのおののジャンルに基づいたコミュニケーション》の側面が大きいと思うんですが、もしかすると《名前の虚構性》も関係しているのかなとも思ったりします(たぶん加えてジェンダーの問題もあると思います。苗字で呼ぶか、名前で呼ぶかはかなりジェンダーバイアスがかかる場合もあります)。
《名前の虚構性》というのは、たとえば私の名前を例にとれば、「やぎもと・もともと」の場合、「おい、やぎもと」でも「おい、もともと」でもどちらでも偏差がそんなにないような気もします。これは考えてみると、苗字と名前の私性的割合が均等というか、どちらの名前で呼んでも虚構的というか、私性が少ないからかもしれません。だから、私が川柳の習いでたとえば歌人の「岡野大嗣さん」を「岡野さん」ではなく「大嗣さん」とお呼びしたら岡野さんはちょっとびっくりするかもしれない。でも歌人の「法橋ひらくさん」を私は「ひらくさん」とお呼びすることもあるから、これは名前の筆名性(それが本名かどうかというよりは、表記として〈本名的〉かどうか)とちょっと関わっている気もします。
ただふしぎなのは、穂村弘さんのことを「ひろしさん」とは呼ばないのに、加藤治郎さんはよくみんなから「じろーさん」と呼ばれていることです。なぜなんだろう、とよくかんがえます。それは加藤さんとわたしたちのアクセスポイントとしての「じろーさん」なのかなとも思ったりします。加藤さんはよくいろんなひとと交流し、話し合っています。そこでは短歌の問題やまだ短歌の問題未満のことも話し合われる。さまざまな問題が交錯しています。だからそこで加藤治郎さんはまだ短歌化される前の「じろーさん」として短歌未満の問題もふくめていろんなひとと話し合っているのではないか。つまり、《じろーさん》とは、そこで短歌と短歌未満のことを話し合う〈場所=通路〉なのかなとおもったりもするのです。ただよくはわかりません。〈おもっている〉だけです。だから、謎です。
でも、短詩と名前をめぐる問題はすっとしていながらももしかしたら深いのかなとも思います。短歌にはどんな名前のひとが多いのか、俳句にはどんな名前のひとが多いのか、川柳にはどんな名前のひとが多いのか、またそれら名前の変異や変遷によってジャンルじたいはどう変化していったのか、いかなかったのか。しらべてみるとおもしろいかもしれません。
わたしはぼそぼそ話すので「やぎもと」ではなく「あぎもと」だと思われて、ずっと「あぎもと」と思われていたこともあります。相手も「あぎもとさん」と呼びながらも、すこし、ようすがおかしいなという感じはしていたようです。わたしも名前が呼ばれるたびに「はい」と返事をしながらも返事をするたびに罪悪感をかんじていました。
三年たって、いっしょに橋のうえを歩いていたときに、とつぜん、「ほんとうの名前はなんというのですか」と聞かれました。
ええと、と私は言いました。
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