【ふしぎな川柳 第七十八夜】ゆめのりんかく-月波与生-
- 2016/02/21
- 08:37
この先の夢はむかしもみたような 月波与生
【夢をみている私は私をみている夢にみられる】
夢ってたぶん誰もが毎日行っているひとつの〈表現〉だとはおもうんですね。この「表現」って言葉はいま、《理屈がいまいちわからない表出》という意味でつかってみたんですが、夢ってこれだけ毎日みているのにぜんぜん理屈や構造がつかめない。形式的〈りんかく〉がよくわからない。だからおなじ夢をリピートしようとしてもなかなかむずかしいですよね。というかたぶんリピートできたらだいたいみんなの夢はすごく現実的で欲動的で似通ってくるんだともおもいます。
で、川柳もいまいち理屈がわからない不思議な表現形式なので、〈夢〉と親和性が高いとおもうんです。だから夢のことがけっこう現代川柳には出てくるんですが、大事なことは決して〈夢の内容〉を川柳にしているわけではないことです。中島らもがひとの夢のなかみをきくほどつまらないことはないと言っていましたがわたしもそう思います。なんでもありの世界なので。大事なことは夢のなかみではなくて、夢の〈りんかく〉や〈形式〉のほうだとおもうんです。そして川柳はよくこの〈夢のりんかく〉や〈形式〉を問題にしている。
月波さんのこの夢の句がまさにそうだと思うんですね。夢のなかみではなく、今夢をみていることについて、そしてかつてこの夢をみた記憶をもちながら今夢をみていることについて語っている。でもそれら夢のなかにいるわたしを今夢のそとから眠ったままみているわたしもいるわけですよね。夢をみているわたしと、そのわたしによって夢のなかでみられているわたし。
夢のりんかくっていったいどこからどこまでなんだろう、そしてその夢のりんかくにたずさわるわたしのりんかくはどこからどこまでなんだろうというのが川柳によって語られている句なんだとおもう。
しかも「みたような」でとつぜんシャットダウンしてしまうのもおもしろいですよね。定型によって終わってしまったわけだけれど、夢のコントロールできない暴力性のようなものもあらわれていると思います。わたしたちがなにかを語ろうとしても、夢や定型は待ってはくれない。どんどん進行していきます。そしてわたしが記憶の主導権をにぎろうとしても、夢や定型がわたしの記憶を預かってしまう。
わたしはどれだけわたしの記憶にたずさわれるのかという〈記憶のりんかく〉の問題。
記憶とは違う白さの雪の街 月波与生
黒澤明『夢』(1990)。この映画って〈おもしろくない〉んですね。映像はすさまじくきれいなんだけれど、黒澤明のかつてのスピード感のようなものや泥をかぶるような濁った感じがなくて、きれいすぎてだんだんつまらなくなってしまったりする。クッキー食べようかなとかおもったりもする。でもそこがこの映画のおもしろさのような気がするんです。〈他人の夢〉ってそういうことなんじゃないかなっておもうんですね。そのひとにとっては切実なんです。でもそのひと以外のわたしにとっては〈夢〉って実はエキサイティングなものではない。でもその退屈さのなかで夢のリアリズムがゆっくりとにじみでてくる。そのときこの映画がすごくおもしろくなるきがするんですよ。そうゆうえいがなんじゃないか。
【夢をみている私は私をみている夢にみられる】
夢ってたぶん誰もが毎日行っているひとつの〈表現〉だとはおもうんですね。この「表現」って言葉はいま、《理屈がいまいちわからない表出》という意味でつかってみたんですが、夢ってこれだけ毎日みているのにぜんぜん理屈や構造がつかめない。形式的〈りんかく〉がよくわからない。だからおなじ夢をリピートしようとしてもなかなかむずかしいですよね。というかたぶんリピートできたらだいたいみんなの夢はすごく現実的で欲動的で似通ってくるんだともおもいます。
で、川柳もいまいち理屈がわからない不思議な表現形式なので、〈夢〉と親和性が高いとおもうんです。だから夢のことがけっこう現代川柳には出てくるんですが、大事なことは決して〈夢の内容〉を川柳にしているわけではないことです。中島らもがひとの夢のなかみをきくほどつまらないことはないと言っていましたがわたしもそう思います。なんでもありの世界なので。大事なことは夢のなかみではなくて、夢の〈りんかく〉や〈形式〉のほうだとおもうんです。そして川柳はよくこの〈夢のりんかく〉や〈形式〉を問題にしている。
月波さんのこの夢の句がまさにそうだと思うんですね。夢のなかみではなく、今夢をみていることについて、そしてかつてこの夢をみた記憶をもちながら今夢をみていることについて語っている。でもそれら夢のなかにいるわたしを今夢のそとから眠ったままみているわたしもいるわけですよね。夢をみているわたしと、そのわたしによって夢のなかでみられているわたし。
夢のりんかくっていったいどこからどこまでなんだろう、そしてその夢のりんかくにたずさわるわたしのりんかくはどこからどこまでなんだろうというのが川柳によって語られている句なんだとおもう。
しかも「みたような」でとつぜんシャットダウンしてしまうのもおもしろいですよね。定型によって終わってしまったわけだけれど、夢のコントロールできない暴力性のようなものもあらわれていると思います。わたしたちがなにかを語ろうとしても、夢や定型は待ってはくれない。どんどん進行していきます。そしてわたしが記憶の主導権をにぎろうとしても、夢や定型がわたしの記憶を預かってしまう。
わたしはどれだけわたしの記憶にたずさわれるのかという〈記憶のりんかく〉の問題。
記憶とは違う白さの雪の街 月波与生
黒澤明『夢』(1990)。この映画って〈おもしろくない〉んですね。映像はすさまじくきれいなんだけれど、黒澤明のかつてのスピード感のようなものや泥をかぶるような濁った感じがなくて、きれいすぎてだんだんつまらなくなってしまったりする。クッキー食べようかなとかおもったりもする。でもそこがこの映画のおもしろさのような気がするんです。〈他人の夢〉ってそういうことなんじゃないかなっておもうんですね。そのひとにとっては切実なんです。でもそのひと以外のわたしにとっては〈夢〉って実はエキサイティングなものではない。でもその退屈さのなかで夢のリアリズムがゆっくりとにじみでてくる。そのときこの映画がすごくおもしろくなるきがするんですよ。そうゆうえいがなんじゃないか。
- 関連記事
スポンサーサイト
- テーマ:読書感想文
- ジャンル:小説・文学
- カテゴリ:ふしぎな川柳-川柳百物語拾遺-