【ふしぎな川柳 第七十九夜】ゆらゆら帝国で考え中-なかはられいこ-
- 2016/02/22
- 23:36
こんなときだけど鳩の脚ピンク なかはられいこ
【バック・トゥ・ザ・ピンク】
荻原裕幸さんが『現代川柳の精鋭たち』という本のアンソロジーの解説で川柳という表現形態は「日常に近似した」言葉で「読者の世界観への震度のようなものの絶対値が問われる」文芸だとおっしゃっていたんですが、この〈読者への揺さぶり〉〈読者をゆらゆらさせること〉って川柳にとってはとても大事なものだとわたしも思うんです。
荻原さんの言葉をわたしなりに言い換えてみると、《なぜみんなとおなじ日常性のなかに埋没しているのにわたしはあなたとこんなにも揺れているのか》という言葉に言い換えることもできるような気がするんです。
で、なかはらさんの句なんですが、これって〈すごくゆらゆら〉している句だとおもうんですね。
まず「こんなとき」という状況の〈特異化〉でゆれますよね。「こんなときなのにそんなことやってる場合じゃないよ」というように「こんなとき」っていう言辞がすでに揺れている(揺れ① 特異な状況)。で、そこに〈ゆれ〉ていったのに、今度は「だけど」で、また別の方向に〈ゆれ〉ていく。この「だけど」という逆接も〈ゆれ〉です(揺れ② 逆接)。その「だけど」で唐突に〈ゆれ〉て出てくるのが「鳩の脚」です(揺れ③ 唐突な鳩)。そしてさらに〈ゆれ〉るのが「鳩の脚」の〈色彩描写〉です。「ピンク」という〈色〉を語り手がさいごに持ち出したことでわかるように語り手は最終的に〈言葉の外〉へと出て行ってしまいます(揺れ④ 非言語的ピンク)。
語り手は、特異な状況下で(「こんなとき」)、別のことにふいに意識をさしむけ(「だけど」)、それをピンポイントに具体化し(「鳩の脚」)、言語の外へと抜けていった(「ピンク」)。
ただ大事なのはこの〈大いなる揺れ〉を日常のことばで言い換えてしまうのも可能だということです。つまり、「ふっとわたしは鳩をみていました」と。ただこれだと〈読者への揺さぶり〉は起こりません。読者はこれを読んで語り手が大いに揺れているんだとはちょっとわからない。でもこれがなかはらさんの川柳の言辞=構造だと〈揺さぶり〉になる。語り手も揺れるし、これを読む読み手も揺らされる。
川柳ってそういう構造としての〈意識の逸脱〉があるように思うんですね。川柳だけじゃないかもしれない。たとえば俳句は〈季語〉によって語り手の意識が逸脱し、短歌は下の句によって上の句の意識が逸れていく。そういう〈意識の逸脱〉を構造化するのが短詩なのかなとおもったりもするんですね。
そう、逸脱することで初めてたどりつく春だってあるんです。
いとこでも甘納豆でもなく桜 なかはられいこ
ゼメキス『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(1985)。ゼメキス監督作品は〈時間〉をテーマにした物語が多いけれど、現代版ロビンソン・クルーソーの『キャスト・アウェイ』もそうなんだけれど、〈時間〉をテーマにすると必ず〈逸脱〉や〈疎外〉がテーマになってきます。『時をかける少女』やアニメのタイムリープものも昔話の浦島太郎もそうなんですが、〈時間を超越〉するっていうことは、〈じぶん〉が〈じぶん〉に〈疎外〉されることにもつながっていくわけですよね。本来的にはタイムリープできない人生だったはずのじぶんという〈根っこ〉だけは動かせない。その〈動かせなさ〉によって時間跳躍の物語って動いていく。その〈動かせなさ〉をだんだん快楽的に〈忘却〉していくひとたちの物語が『バック・トゥ・ザ・フューチャー』なんじゃないかと思うんです。時間ジャンキーというか、時間が変えられたときにはそこには不可逆の麻薬的な快楽がある。もちろん、主人公たちはときどき反省はするんです。時間は変えてはいけないと。でも結局は変えてしまう。なにかやめようやめようと思いながら、その快楽にはまっていく構図がここにはあるようにも思う。快楽って基本的には〈未来に帰ろうとする〉倒錯的な行為だとおもうんです。でもあるときふっと「こんなときだけど鳩の脚ピンク」と醒めるしゅんかんもあるんだともおもう。
【バック・トゥ・ザ・ピンク】
荻原裕幸さんが『現代川柳の精鋭たち』という本のアンソロジーの解説で川柳という表現形態は「日常に近似した」言葉で「読者の世界観への震度のようなものの絶対値が問われる」文芸だとおっしゃっていたんですが、この〈読者への揺さぶり〉〈読者をゆらゆらさせること〉って川柳にとってはとても大事なものだとわたしも思うんです。
荻原さんの言葉をわたしなりに言い換えてみると、《なぜみんなとおなじ日常性のなかに埋没しているのにわたしはあなたとこんなにも揺れているのか》という言葉に言い換えることもできるような気がするんです。
で、なかはらさんの句なんですが、これって〈すごくゆらゆら〉している句だとおもうんですね。
まず「こんなとき」という状況の〈特異化〉でゆれますよね。「こんなときなのにそんなことやってる場合じゃないよ」というように「こんなとき」っていう言辞がすでに揺れている(揺れ① 特異な状況)。で、そこに〈ゆれ〉ていったのに、今度は「だけど」で、また別の方向に〈ゆれ〉ていく。この「だけど」という逆接も〈ゆれ〉です(揺れ② 逆接)。その「だけど」で唐突に〈ゆれ〉て出てくるのが「鳩の脚」です(揺れ③ 唐突な鳩)。そしてさらに〈ゆれ〉るのが「鳩の脚」の〈色彩描写〉です。「ピンク」という〈色〉を語り手がさいごに持ち出したことでわかるように語り手は最終的に〈言葉の外〉へと出て行ってしまいます(揺れ④ 非言語的ピンク)。
語り手は、特異な状況下で(「こんなとき」)、別のことにふいに意識をさしむけ(「だけど」)、それをピンポイントに具体化し(「鳩の脚」)、言語の外へと抜けていった(「ピンク」)。
ただ大事なのはこの〈大いなる揺れ〉を日常のことばで言い換えてしまうのも可能だということです。つまり、「ふっとわたしは鳩をみていました」と。ただこれだと〈読者への揺さぶり〉は起こりません。読者はこれを読んで語り手が大いに揺れているんだとはちょっとわからない。でもこれがなかはらさんの川柳の言辞=構造だと〈揺さぶり〉になる。語り手も揺れるし、これを読む読み手も揺らされる。
川柳ってそういう構造としての〈意識の逸脱〉があるように思うんですね。川柳だけじゃないかもしれない。たとえば俳句は〈季語〉によって語り手の意識が逸脱し、短歌は下の句によって上の句の意識が逸れていく。そういう〈意識の逸脱〉を構造化するのが短詩なのかなとおもったりもするんですね。
そう、逸脱することで初めてたどりつく春だってあるんです。
いとこでも甘納豆でもなく桜 なかはられいこ
ゼメキス『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(1985)。ゼメキス監督作品は〈時間〉をテーマにした物語が多いけれど、現代版ロビンソン・クルーソーの『キャスト・アウェイ』もそうなんだけれど、〈時間〉をテーマにすると必ず〈逸脱〉や〈疎外〉がテーマになってきます。『時をかける少女』やアニメのタイムリープものも昔話の浦島太郎もそうなんですが、〈時間を超越〉するっていうことは、〈じぶん〉が〈じぶん〉に〈疎外〉されることにもつながっていくわけですよね。本来的にはタイムリープできない人生だったはずのじぶんという〈根っこ〉だけは動かせない。その〈動かせなさ〉によって時間跳躍の物語って動いていく。その〈動かせなさ〉をだんだん快楽的に〈忘却〉していくひとたちの物語が『バック・トゥ・ザ・フューチャー』なんじゃないかと思うんです。時間ジャンキーというか、時間が変えられたときにはそこには不可逆の麻薬的な快楽がある。もちろん、主人公たちはときどき反省はするんです。時間は変えてはいけないと。でも結局は変えてしまう。なにかやめようやめようと思いながら、その快楽にはまっていく構図がここにはあるようにも思う。快楽って基本的には〈未来に帰ろうとする〉倒錯的な行為だとおもうんです。でもあるときふっと「こんなときだけど鳩の脚ピンク」と醒めるしゅんかんもあるんだともおもう。
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