【ふしぎな川柳 第八十夜】みっつめの耳-野沢省悟-
- 2016/02/23
- 01:07
みっつめの耳をさがしている吹雪 野沢省悟
【吹雪の認識】
省悟さんの吹雪の句には、
てのひらの一本道に吹雪来る 野沢省悟
という句もあるんですが、どちらも「耳」や「てのひら」という〈身体のパーツ〉が「吹雪」とめぐりあっています。興味深いのは、〈身体のパーツ〉が語り手の道しるべになっていることです。
「てのひら」は「一本道」だし、「吹雪」のなかで「耳をさがしている」ということは、その「みっつめの耳」を見つけだすことこそが語り手にとっての〈道〉であり〈道標〉になっているわけです(「吹雪」が「耳をさがしている」という解釈もできますが今回は「吹雪」のなかで語り手が耳をさがしていると解釈します)。
「みっつめの耳」っていう「みっつめ」っていうからには、語り手はもうすでに〈ふたつの耳〉を見つけているはずなので、〈余剰〉としての「耳」だとおもうんですよね。ふたつあればじゅうぶんなはずなので。
でも語り手は「みっつめの耳」をさがそうとしている。
なんで語り手はさがそうとしだしたのか。
わたしはそれは「みっつめ」という言い方の発見にあったんじゃないかとおもうんです。
ふつうひとは「耳」を集合的な一組としてとらえていますよね。〈ひとつめ〉の耳や〈ふたつめの耳〉とカウントしながらとらえてはいないはずです。おそらく耳を分離してとらえたとしても、〈右の耳/左の耳〉という位置感覚でとらえるはずです。
ところが語り手は「耳」を数量的にとらえている。〈ひとつめの耳/ふたつめの耳/みっつめの耳〉と。右の耳、左の耳というとらえかたにはそこから〈さき〉がないけれど、ひとつめの耳、ふたつめの耳ならそこから〈さき〉がある。みっつめの耳、です。でも数量的認識にはまださきはあるはずですよね。よっつめやいつつめも。
わたしはこの「吹雪」って実は〈認識の吹雪〉なのではないかと思ったんです。まだまだ耳が発見できるような世界のとらえかたをしてしまったときに「吹雪」が起こった。でもそれを〈さがす〉こと、通常とはちがった認識を深めることが語り手にとっての〈道〉でもあるんです。
そしてそれは川柳の〈道(クエスト)〉でもあるんじゃないかとおもう。いわば、ちょっとずれた認識の、でもその認識をふかめたさきの。
そのテスト・パイロットになってみることが。
うす味の冬信長を斬りに行く 野沢省悟
リーン『アラビアのロレンス』(1962)。〈さがす〉映画といえばこの映画なんじゃないかと思うんです。しかも〈色〉をさがす映画です。〈白色〉を。ポストコロニアル映画としても有名な映画なんですが、主人公のロレンスの服を観ていてすぐに気がつくのはこれが〈色〉の映画だということです。ともかくはっきりと〈白〉と〈黒〉の対比が出てくる。〈西欧白人男性〉である主人公のロレンスがアラビアの砂漠のなかで自身の〈白い〉アイデンティティと葛藤しているんだけれど、そのときは〈薄汚れた白〉の服を着ているんです。でもだんだん自信をつけて砂漠には不自然なくらい〈真っ白〉な服を着るようになる。黒が白を圧していく、そういう〈白〉に価値付けがされていく映画だともいえる。ちなみにヒッチコックの映画の地下鉄のシーンは〈白人〉の乗客ばかりで当時はそこにいたはずの〈黒人〉が周到に排除されていたりもする(ちなみにたぶん『アラビアのロレンス』は意図的に〈女性〉が排除されている、男性圏の物語)。〈白い〉シーンになっている。そういう〈色〉をめぐる映画の力学が『アラビアのロレンス』には強くでているんじゃないかと思う。
【吹雪の認識】
省悟さんの吹雪の句には、
てのひらの一本道に吹雪来る 野沢省悟
という句もあるんですが、どちらも「耳」や「てのひら」という〈身体のパーツ〉が「吹雪」とめぐりあっています。興味深いのは、〈身体のパーツ〉が語り手の道しるべになっていることです。
「てのひら」は「一本道」だし、「吹雪」のなかで「耳をさがしている」ということは、その「みっつめの耳」を見つけだすことこそが語り手にとっての〈道〉であり〈道標〉になっているわけです(「吹雪」が「耳をさがしている」という解釈もできますが今回は「吹雪」のなかで語り手が耳をさがしていると解釈します)。
「みっつめの耳」っていう「みっつめ」っていうからには、語り手はもうすでに〈ふたつの耳〉を見つけているはずなので、〈余剰〉としての「耳」だとおもうんですよね。ふたつあればじゅうぶんなはずなので。
でも語り手は「みっつめの耳」をさがそうとしている。
なんで語り手はさがそうとしだしたのか。
わたしはそれは「みっつめ」という言い方の発見にあったんじゃないかとおもうんです。
ふつうひとは「耳」を集合的な一組としてとらえていますよね。〈ひとつめ〉の耳や〈ふたつめの耳〉とカウントしながらとらえてはいないはずです。おそらく耳を分離してとらえたとしても、〈右の耳/左の耳〉という位置感覚でとらえるはずです。
ところが語り手は「耳」を数量的にとらえている。〈ひとつめの耳/ふたつめの耳/みっつめの耳〉と。右の耳、左の耳というとらえかたにはそこから〈さき〉がないけれど、ひとつめの耳、ふたつめの耳ならそこから〈さき〉がある。みっつめの耳、です。でも数量的認識にはまださきはあるはずですよね。よっつめやいつつめも。
わたしはこの「吹雪」って実は〈認識の吹雪〉なのではないかと思ったんです。まだまだ耳が発見できるような世界のとらえかたをしてしまったときに「吹雪」が起こった。でもそれを〈さがす〉こと、通常とはちがった認識を深めることが語り手にとっての〈道〉でもあるんです。
そしてそれは川柳の〈道(クエスト)〉でもあるんじゃないかとおもう。いわば、ちょっとずれた認識の、でもその認識をふかめたさきの。
そのテスト・パイロットになってみることが。
うす味の冬信長を斬りに行く 野沢省悟
リーン『アラビアのロレンス』(1962)。〈さがす〉映画といえばこの映画なんじゃないかと思うんです。しかも〈色〉をさがす映画です。〈白色〉を。ポストコロニアル映画としても有名な映画なんですが、主人公のロレンスの服を観ていてすぐに気がつくのはこれが〈色〉の映画だということです。ともかくはっきりと〈白〉と〈黒〉の対比が出てくる。〈西欧白人男性〉である主人公のロレンスがアラビアの砂漠のなかで自身の〈白い〉アイデンティティと葛藤しているんだけれど、そのときは〈薄汚れた白〉の服を着ているんです。でもだんだん自信をつけて砂漠には不自然なくらい〈真っ白〉な服を着るようになる。黒が白を圧していく、そういう〈白〉に価値付けがされていく映画だともいえる。ちなみにヒッチコックの映画の地下鉄のシーンは〈白人〉の乗客ばかりで当時はそこにいたはずの〈黒人〉が周到に排除されていたりもする(ちなみにたぶん『アラビアのロレンス』は意図的に〈女性〉が排除されている、男性圏の物語)。〈白い〉シーンになっている。そういう〈色〉をめぐる映画の力学が『アラビアのロレンス』には強くでているんじゃないかと思う。
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