【お知らせ】はらだ有彩「3月のヤバい女の子/秘密とヤバい女の子」『アパートメント』レビュー
- 2016/03/02
- 09:47
見るとか知るとかいうことは一度実行してしまうと二度と取り消せない。秘密を知ってしまったら、知らなかったころには二度と戻れない。それなのに──あなたのことをもっと知りたい。 はらだ有彩
ウェブマガジン『アパートメント』の毎月始めに更新されるはらだ有彩(はりー)さんの「日本のヤバい女の子」。
連載第10回目の今月のはりーさんの文章は「秘密とヤバい女の子 」という「うぐいす女房」と秘密をめぐるエッセイです。
ベッキーさんのLINE流出の事件があったけれど、あのときベッキーさんとゲスの極み乙女の川谷さんのLINEに、「せーの、おやすみ!」っておやすみを同時にふたりで言うところがあって、あれってたぶん、LINEというメディアが組織した同時性だとおもうんですね。その同時性によってふたりが〈運命的〉につながっていることがわかる。
そんなふうにメディアが恋愛を組織していることって多々あるのかなっておもいました。
「うぐいす女房」は見てはいけないといわれた男がみてしまう話なんだけれども、こういうタブーをうちやぶるのって実はうちやぶられるためにあるタブーでもあるのかなっておもうんです。でないと、「うぐいす女房」の話って成立しない。男が見るなといわれて見なかった、男は言いつけをまもった、男はしあわせにくらした、だと物語が成立しない。
タブーっていうのは実はうちやぶられるからこそ、いつもそこにタブーとしてあるわけで、たぶん誰しもすでにタブーをうちやぶって主体化している側面があるんじゃないかとおもうんです。だからこそ、他者がそれをしたときに強く非難する。蠱惑される恐怖として。
でも、タブーってどこにでもあるんですよね。ずっと、そばで鶴が機を折っていたりする。その鶴を鶴を認識としないままに、それでもどうやって〈やりくり〉して生きていくのか、あるいは、鶴でもいい、鶴のあなたをまるごと引き受けて生きていこうかと決意するのか。
文学にはそのあわいにいきるひとびとがぞろぞろ生きているきがするんです。そのためのひとつのぶんがくでもあるんだと。鶴をみながらまだそれを鶴だとみとめないひと、鶴をだきかかえて地獄にとびこんでゆくひと、タイムリープしてもういちど障子をあけて鶴を確認するひと、じぶんも鶴化しちゃうひと。まあ、いろいろ。
以下は、わたしが今回『アパートメント』のレビュー欄に書いたレビューです。
※ ※
カウンセラーは交際相手についての基本原則を与えてくれた。かんたんでおぼえやすい原則だ。先頭の文字をつなげると「safe【安全】」になる。心がけておくことは四つ。ひとつめはもっとも重要だ。
秘密【Secret】 この交際は誰に知られてもいいものなのか? 秘密にしておかなければならない関係ならば、あなたにふさわしくない。
虐待【Abusive】 この交際はあなたやあなたの子どもに害を与え、あなたの価値を下げるだろうか?
感情【Feeling】 あなたはつらい感情から逃れるために交際を続けているのだろうか? なにかをまぎらわせるための交際なのか?
空虚【Empty】 この交際は思いやりや責任をともなわない空虚なものか?
(レジーナ・ブレット『人生は、意外とすてき』)
*
今回のはりーさんのエッセイは、〈秘密〉と「うぐいす女房」(「見るな」のタブー)をめぐる話でした。
有名なのは「鶴の恩返し」ですよね。「見るな」と言われたのに男は見てしまった。
どうして「見るな」と女から言われたのに男はそれを破ってしまったか。
私は、最大の不運はお互いのことを「もっと知りたい」と思ってしまったことではないかと思います。
とはりーさんは書かれていました。実はこれって昔話のなかだけでなく、今わたしたちが日常的に使用しているネットメディアそのものをめぐる寓話でもあると思うんですね。
相手のことを好きになるとどんどん相手のことが知りたくなってしまいますよね。相手とふだん話して手をつないでいるだけじゃ満足いかなくなって、相手が書いているメールもブログもつぶやきも知りたい見たいと思い始める。LINE、ブログ、ツイッター、メールなどのメディアを通して。
でも、相手のことを好きで知りたいと思いながらも、どこまで見ていいのかというライン=境界線が必ず出てくる。つまり、じぶんで「見るな」のラインをつくらなければいけないわけです(その意味でわたしたちは誰しもが「うぐいす女房」の渦中です)。知りすぎて今の関係をこわしたくないという恐怖もどこかで出てくる。でも、知りたいし、もっと、
見たい。
でも「もっと知りたい」と思うことははりーさんが書かれていたようにしばしばお互いの〈不運〉をもたらします。それはお互いの関係を間違った方向に導く。
なぜ、でしょうか。
それはおそらく「見るな」のタブーを破って相手の情報を〈見た〉ときにそのタブーを破ってまで見たがゆえに相手の言葉を〈過剰解釈〉するからではないかと思うんですね。つまり、《なんでもない情報》が《とっておきの情報》になってしまうわけです。「見るな」というおまじないのせいで。破るという快楽のステップアップのせいで。
しかもきちんと解釈するような情報をネットメディアは渡してくれるわけではないですよね。ツイッターやブログってあくまでささやかな断片であって、しかも的確な事実だけで書かれてるわけじゃない。それらは断片にしかすぎません。でも断片だからこそ、いろいろな物語をつくれる。ほんとうは彼女/彼は《こう》思っていたんだ、と。
そして、なおいっそう、好きな相手だと過剰解釈してしまう。好きっていうのはいつも《なぞめいている》から。
さいきん、LINEと不倫をめぐるニュースが話題になっていましたが、実は、メディアと不倫の関係って根強いんですね。なんでかっていうと、不倫っていかに相手とタイミングを合わせて待ち合わせるかが大事で、その《待ち合わせ》や《連絡》のためにメディアの力がいかんなく発揮されるからです。ですから、《不倫》っていうのはいつでも《メディア論》そのものなんです。《不倫》はドラマ作りには欠かせない物語要素ですが(映画や文学で名作と呼ばれるものはほとんど《不倫》が軸になっています。漱石もそうだし、『マディソン郡の橋』もそうです)、こんどドラマのなかで《不倫》が出てきたらどんなメディアがどのように駆使されているかをみてみると面白いと思います。
で、《不倫》ってメディアと親和性が強いためにこの「見るな」のタブーが必ず同時に出てくるものでもあるんですね。しかも「見」てしまったあとは必ず《解釈の物語》が始まります。《あなたはわたしのことがやっぱり好きだ/好きじゃない》の物語をメディアをとおしてえんえんと演じるのが《不倫》の一側面になっています。たとえば漱石の『それから』は〈不倫〉をめぐる小説だけれど、二人の関係には〈それから〉が用意されてありません。でも主人公は〈それから〉をどこかで暴力的に求めていく。その結果、電車に飛び乗って、あたまがあぶない状態になっていきます。
でもそれは《不倫》じゃなくでも、《恋愛》でも日々起こっていることです。恋愛はある意味でメディアによって構成されていますよね。日々のメールや手紙やつぶやきや電話によって。
「見るな」のタブーをめぐる物語はいまの時代でも《有効》だとおもいます。というよりも『古事記』でイザナミがイザナギに「見るな」といったのに見ちゃったように、おそらく《恋愛》の根っこにはいつもこの「見るな」のタブーがあるんだと思います。
相手のことを〈知りやすい〉メディアが発達にするにつれ、わたしたちの「見るな」をめぐる「うぐいす女房」度はどんどん高まっていくでしょう。
障子いちまい、クリックひとつへだてて、だいすきなあなたが機(はた)を折っている音がきこえる。
あけたい見たいあけられない見たくない知りたい知りたくないもっと見たいもっと見たくないもっと好きになりたいもっと嫌いになりたいもっとこわれたい。
「見ないほうがいい」ことはたくさんある。大好きな相手が「うぐいす」だということはほんとうは知らないほうがいいかもしれない。
でも、はりーさんの語る女の子たちがしばしばそうであったように、逆に、だいすきなあいてが「うぐいす」であることをまるごとひきうけて、いっしょに巻き込まれていくことも、実は、一回かぎりの人生ではありなのかもしれない。ふっとそんなふうに思ったりもするんです。ひとにはそういう強さだってあるんだから。
《あえて》障子をあけること。「うぐいす女房」の物語を書き換えてしまうこと。うぐいす《だから》別れるのではなく、うぐいす《なので》共に生きること。
ひとは時に、《このひとしかいない》と思った相手といっしょにとことん巻き込まれていく強さだってあるのです。たぶん。
*
──ねえ、私はもう、救世主願望は持たないことにしている。もし私がそういったとしたら、彼女はきっと、一瞬体の動きの全てを止めて私を見つめるだろう。それからこういうに違いなかった。──そうね、それは賢いわ。けれど人間にはどこまでも巻き込まれていこう、と意志する権利もあるのよ。
(梨木香歩『春になったら苺を摘みに』)
ウェブマガジン『アパートメント』の毎月始めに更新されるはらだ有彩(はりー)さんの「日本のヤバい女の子」。
連載第10回目の今月のはりーさんの文章は「秘密とヤバい女の子 」という「うぐいす女房」と秘密をめぐるエッセイです。
ベッキーさんのLINE流出の事件があったけれど、あのときベッキーさんとゲスの極み乙女の川谷さんのLINEに、「せーの、おやすみ!」っておやすみを同時にふたりで言うところがあって、あれってたぶん、LINEというメディアが組織した同時性だとおもうんですね。その同時性によってふたりが〈運命的〉につながっていることがわかる。
そんなふうにメディアが恋愛を組織していることって多々あるのかなっておもいました。
「うぐいす女房」は見てはいけないといわれた男がみてしまう話なんだけれども、こういうタブーをうちやぶるのって実はうちやぶられるためにあるタブーでもあるのかなっておもうんです。でないと、「うぐいす女房」の話って成立しない。男が見るなといわれて見なかった、男は言いつけをまもった、男はしあわせにくらした、だと物語が成立しない。
タブーっていうのは実はうちやぶられるからこそ、いつもそこにタブーとしてあるわけで、たぶん誰しもすでにタブーをうちやぶって主体化している側面があるんじゃないかとおもうんです。だからこそ、他者がそれをしたときに強く非難する。蠱惑される恐怖として。
でも、タブーってどこにでもあるんですよね。ずっと、そばで鶴が機を折っていたりする。その鶴を鶴を認識としないままに、それでもどうやって〈やりくり〉して生きていくのか、あるいは、鶴でもいい、鶴のあなたをまるごと引き受けて生きていこうかと決意するのか。
文学にはそのあわいにいきるひとびとがぞろぞろ生きているきがするんです。そのためのひとつのぶんがくでもあるんだと。鶴をみながらまだそれを鶴だとみとめないひと、鶴をだきかかえて地獄にとびこんでゆくひと、タイムリープしてもういちど障子をあけて鶴を確認するひと、じぶんも鶴化しちゃうひと。まあ、いろいろ。
以下は、わたしが今回『アパートメント』のレビュー欄に書いたレビューです。
※ ※
カウンセラーは交際相手についての基本原則を与えてくれた。かんたんでおぼえやすい原則だ。先頭の文字をつなげると「safe【安全】」になる。心がけておくことは四つ。ひとつめはもっとも重要だ。
秘密【Secret】 この交際は誰に知られてもいいものなのか? 秘密にしておかなければならない関係ならば、あなたにふさわしくない。
虐待【Abusive】 この交際はあなたやあなたの子どもに害を与え、あなたの価値を下げるだろうか?
感情【Feeling】 あなたはつらい感情から逃れるために交際を続けているのだろうか? なにかをまぎらわせるための交際なのか?
空虚【Empty】 この交際は思いやりや責任をともなわない空虚なものか?
(レジーナ・ブレット『人生は、意外とすてき』)
*
今回のはりーさんのエッセイは、〈秘密〉と「うぐいす女房」(「見るな」のタブー)をめぐる話でした。
有名なのは「鶴の恩返し」ですよね。「見るな」と言われたのに男は見てしまった。
どうして「見るな」と女から言われたのに男はそれを破ってしまったか。
私は、最大の不運はお互いのことを「もっと知りたい」と思ってしまったことではないかと思います。
とはりーさんは書かれていました。実はこれって昔話のなかだけでなく、今わたしたちが日常的に使用しているネットメディアそのものをめぐる寓話でもあると思うんですね。
相手のことを好きになるとどんどん相手のことが知りたくなってしまいますよね。相手とふだん話して手をつないでいるだけじゃ満足いかなくなって、相手が書いているメールもブログもつぶやきも知りたい見たいと思い始める。LINE、ブログ、ツイッター、メールなどのメディアを通して。
でも、相手のことを好きで知りたいと思いながらも、どこまで見ていいのかというライン=境界線が必ず出てくる。つまり、じぶんで「見るな」のラインをつくらなければいけないわけです(その意味でわたしたちは誰しもが「うぐいす女房」の渦中です)。知りすぎて今の関係をこわしたくないという恐怖もどこかで出てくる。でも、知りたいし、もっと、
見たい。
でも「もっと知りたい」と思うことははりーさんが書かれていたようにしばしばお互いの〈不運〉をもたらします。それはお互いの関係を間違った方向に導く。
なぜ、でしょうか。
それはおそらく「見るな」のタブーを破って相手の情報を〈見た〉ときにそのタブーを破ってまで見たがゆえに相手の言葉を〈過剰解釈〉するからではないかと思うんですね。つまり、《なんでもない情報》が《とっておきの情報》になってしまうわけです。「見るな」というおまじないのせいで。破るという快楽のステップアップのせいで。
しかもきちんと解釈するような情報をネットメディアは渡してくれるわけではないですよね。ツイッターやブログってあくまでささやかな断片であって、しかも的確な事実だけで書かれてるわけじゃない。それらは断片にしかすぎません。でも断片だからこそ、いろいろな物語をつくれる。ほんとうは彼女/彼は《こう》思っていたんだ、と。
そして、なおいっそう、好きな相手だと過剰解釈してしまう。好きっていうのはいつも《なぞめいている》から。
さいきん、LINEと不倫をめぐるニュースが話題になっていましたが、実は、メディアと不倫の関係って根強いんですね。なんでかっていうと、不倫っていかに相手とタイミングを合わせて待ち合わせるかが大事で、その《待ち合わせ》や《連絡》のためにメディアの力がいかんなく発揮されるからです。ですから、《不倫》っていうのはいつでも《メディア論》そのものなんです。《不倫》はドラマ作りには欠かせない物語要素ですが(映画や文学で名作と呼ばれるものはほとんど《不倫》が軸になっています。漱石もそうだし、『マディソン郡の橋』もそうです)、こんどドラマのなかで《不倫》が出てきたらどんなメディアがどのように駆使されているかをみてみると面白いと思います。
で、《不倫》ってメディアと親和性が強いためにこの「見るな」のタブーが必ず同時に出てくるものでもあるんですね。しかも「見」てしまったあとは必ず《解釈の物語》が始まります。《あなたはわたしのことがやっぱり好きだ/好きじゃない》の物語をメディアをとおしてえんえんと演じるのが《不倫》の一側面になっています。たとえば漱石の『それから』は〈不倫〉をめぐる小説だけれど、二人の関係には〈それから〉が用意されてありません。でも主人公は〈それから〉をどこかで暴力的に求めていく。その結果、電車に飛び乗って、あたまがあぶない状態になっていきます。
でもそれは《不倫》じゃなくでも、《恋愛》でも日々起こっていることです。恋愛はある意味でメディアによって構成されていますよね。日々のメールや手紙やつぶやきや電話によって。
「見るな」のタブーをめぐる物語はいまの時代でも《有効》だとおもいます。というよりも『古事記』でイザナミがイザナギに「見るな」といったのに見ちゃったように、おそらく《恋愛》の根っこにはいつもこの「見るな」のタブーがあるんだと思います。
相手のことを〈知りやすい〉メディアが発達にするにつれ、わたしたちの「見るな」をめぐる「うぐいす女房」度はどんどん高まっていくでしょう。
障子いちまい、クリックひとつへだてて、だいすきなあなたが機(はた)を折っている音がきこえる。
あけたい見たいあけられない見たくない知りたい知りたくないもっと見たいもっと見たくないもっと好きになりたいもっと嫌いになりたいもっとこわれたい。
「見ないほうがいい」ことはたくさんある。大好きな相手が「うぐいす」だということはほんとうは知らないほうがいいかもしれない。
でも、はりーさんの語る女の子たちがしばしばそうであったように、逆に、だいすきなあいてが「うぐいす」であることをまるごとひきうけて、いっしょに巻き込まれていくことも、実は、一回かぎりの人生ではありなのかもしれない。ふっとそんなふうに思ったりもするんです。ひとにはそういう強さだってあるんだから。
《あえて》障子をあけること。「うぐいす女房」の物語を書き換えてしまうこと。うぐいす《だから》別れるのではなく、うぐいす《なので》共に生きること。
ひとは時に、《このひとしかいない》と思った相手といっしょにとことん巻き込まれていく強さだってあるのです。たぶん。
*
──ねえ、私はもう、救世主願望は持たないことにしている。もし私がそういったとしたら、彼女はきっと、一瞬体の動きの全てを止めて私を見つめるだろう。それからこういうに違いなかった。──そうね、それは賢いわ。けれど人間にはどこまでも巻き込まれていこう、と意志する権利もあるのよ。
(梨木香歩『春になったら苺を摘みに』)
- 関連記事
-
-
【お知らせ】「『ユリイカ臨時増刊金原まさ子』と/を読む『ユリイカ臨時増刊悪趣味大全』 緊縛された村上春樹とジョルジュ・ポンピドゥ・センター」『週刊俳句 Haiku Weekly第399号』 2014/12/15
-
【お知らせ】あとがき「ゆらゆらの王国-あとがきは、ない。-」(竹井紫乙『白百合亭日常』あざみエージェント) 2015/10/10
-
【お知らせ】「【反復を読む】電話を取り上げてあなたに創造的な「もしもし」を言った。その二番目の「もし」のこと」『週刊俳句 第421号』 2015/05/19
-
【お知らせ】「【なんにもしない句を読む】できればそうせずにすめばありがたいのですがー筑紫磐井・宮本佳世乃・バートルビー」『週刊俳句 第426号』 2015/06/22
-
【お知らせ】『バームクーヘンでわたしは眠った もともとの川柳日記』句と文・柳本々々/絵・安福望、春陽堂書店、2019年8月28日発売 2020/03/28
-
スポンサーサイト
- テーマ:読書感想文
- ジャンル:小説・文学
- カテゴリ:々々のお知らせ