【短歌】「そうだ、京都行こう。」…(「第73回 短歌ください(お題:憧れ)」『ダ・ヴィンチ』2014年5月号掲載 穂村弘選)
- 2014/04/05
- 21:32
「そうだ、京都行こう。」をゆめみる日常に牛丼などが横でつゆだく 柳本々々
(「第73回 短歌ください(お題:憧れ)」『ダ・ヴィンチ』2014年5月号掲載 穂村弘選)
【自(分で)解(いてみる)-そうだ、松屋いこう。-】
今回、選者の穂村弘さんから「なにやら動詞っぽくも見える『つゆだく』が面白いですね」というコメントをいただきました。自分でも気づかなかったのですが、たしかに穂村さんのおっしゃるとおり、「つゆだく」とは、「行く」などのように活用できる動詞のようにもみえてきます。
穂村さんのことばを敷衍して自分なりに考えてみると、つまり、「牛丼」とは〈名詞〉というよりはいまや〈動詞〉化しているのではないかとすら、いってみたくなるのです。
なぜなら牛丼とはそもそもがみずからオーダーをさまざまにかんがえ、トッピングし、多様な動詞を盛り込んでいく食べ物だから。
だから、実は「そうだ、京都行こう」という巨大なコピーとしての名詞がありながらなかなか行けずじまいであり、そう簡単には動詞を盛り込めずにいる「行く」に対して、牛丼という名詞でありながら日常的に毎日動詞を〈大盛り〉で盛り込んでいる「つゆだく」こそが無意識の記号活動における〈ほんとうの〉「憧れ」なのではないかとさえ、おもえてくるのです。
ちなみに、斉藤斎藤さんが興味深い牛丼短歌をつくられているので、短歌のなかで「牛丼」がどのように歌われているのかを、斉藤さんの歌を例に取りながら、じぶんなりに、すこしかんがえてみたいとおもいます。
【斉藤斎藤vs.牛丼-短歌つゆだく-】
短歌のなかの「牛丼」をかんがえるうえで、ひとつ参考になるのが斉藤斎藤さんの歌集『渡辺のわたし』における牛丼短歌だとおもうんです。
たとえば次のように歌集のなかで「牛丼」が歌われています。
うつむいて並。 とつぶやいた男は激しい素顔となった
牛丼の並と玉子を注文し出てきたからには食わねばなるまい
ここでひとつわかってくるのは、「牛丼」がある〈境界線〉の役割をしているところです。
「うつむいて並」と「つぶやいた」瞬間、「男は激しい素顔となった」。これは「素」顔なので、日常の回帰だとは思うんですが「激しい素顔」なので非日常への変節といえなくもない。もしくは、超日常への埋没かもしれない。どこに男がむかったかはわからないんですが、牛丼の「並」というありふれた、しかしこのうえない〈マジックワード〉によって、男がなにかの〈境界線〉を超えたのだ、ということはいえそうです。
また下の歌も、「牛丼の並と玉子を注文し出てきたからには食わねばなるまい」とこれから越えるべき〈境界線〉がまさに「牛丼」そのものによって生産されています。
かんがえてみると、〈牛丼〉というのはあちこちにチェーン店がたけのこのように湧き出し、徹底的なデフレ状態のいま、〈日常食〉と化していると思うんですが、ところがあまりに〈日常食〉が〈日常化〉しすぎた現在、ぎゃくに〈幻想〉=イマジネーションの世界に入ってしまっているのではないか。つまり、〈非日常〉へと。
たとえば、牛丼はもはや値下がりできずに、キムチ牛丼、チーズ牛丼、ネギ山盛り牛丼など〈差異〉の世界に突入している。だから、ある意味、牛丼を食べつつも、差異の戦場のようなところで、日々、意味が回収できないような牛丼記号のマシンガンをうけつつも、しかし日常食としての〈並〉を食べているわけです。
そこにあるのは「このわたし」がどこまで許容し、どこまで進出し、どこから許さないか、という〈線引き〉=境界です。
斉藤斎藤さんの牛丼短歌はまさにその短歌がフィクションとしての食に対してどのように向き合えるかを実践的に示しているのではないかとおもいます。
消費者はもはや特殊な有用性ゆえにあるモノと関わるのではなく、全体としての意味ゆえにモノのセットと関わることになる。洗濯機、冷蔵庫、食器洗い機などは、道具としてのそれぞれの意味とは別の意味をもっている。ショーウィンドウ、広告、企業、そしてとりわけここで主役を演じる商標は、鎖のように切り離し難い全体としてのモノの一貫した集合的な姿を押しつけてくる。それらはもはや単なるひとつながりのモノではなくて、消費者をもっと多様な一連の動機へと誘う、より複雑な超モノとして互いに互いを意味づけあっているが、この限りにおいてはモノはひとつながりの意味するものなのである。
ジャン・ボードリヤール『消費社会の神話と構造』
(「第73回 短歌ください(お題:憧れ)」『ダ・ヴィンチ』2014年5月号掲載 穂村弘選)
【自(分で)解(いてみる)-そうだ、松屋いこう。-】
今回、選者の穂村弘さんから「なにやら動詞っぽくも見える『つゆだく』が面白いですね」というコメントをいただきました。自分でも気づかなかったのですが、たしかに穂村さんのおっしゃるとおり、「つゆだく」とは、「行く」などのように活用できる動詞のようにもみえてきます。
穂村さんのことばを敷衍して自分なりに考えてみると、つまり、「牛丼」とは〈名詞〉というよりはいまや〈動詞〉化しているのではないかとすら、いってみたくなるのです。
なぜなら牛丼とはそもそもがみずからオーダーをさまざまにかんがえ、トッピングし、多様な動詞を盛り込んでいく食べ物だから。
だから、実は「そうだ、京都行こう」という巨大なコピーとしての名詞がありながらなかなか行けずじまいであり、そう簡単には動詞を盛り込めずにいる「行く」に対して、牛丼という名詞でありながら日常的に毎日動詞を〈大盛り〉で盛り込んでいる「つゆだく」こそが無意識の記号活動における〈ほんとうの〉「憧れ」なのではないかとさえ、おもえてくるのです。
ちなみに、斉藤斎藤さんが興味深い牛丼短歌をつくられているので、短歌のなかで「牛丼」がどのように歌われているのかを、斉藤さんの歌を例に取りながら、じぶんなりに、すこしかんがえてみたいとおもいます。
【斉藤斎藤vs.牛丼-短歌つゆだく-】
短歌のなかの「牛丼」をかんがえるうえで、ひとつ参考になるのが斉藤斎藤さんの歌集『渡辺のわたし』における牛丼短歌だとおもうんです。
たとえば次のように歌集のなかで「牛丼」が歌われています。
うつむいて並。 とつぶやいた男は激しい素顔となった
牛丼の並と玉子を注文し出てきたからには食わねばなるまい
ここでひとつわかってくるのは、「牛丼」がある〈境界線〉の役割をしているところです。
「うつむいて並」と「つぶやいた」瞬間、「男は激しい素顔となった」。これは「素」顔なので、日常の回帰だとは思うんですが「激しい素顔」なので非日常への変節といえなくもない。もしくは、超日常への埋没かもしれない。どこに男がむかったかはわからないんですが、牛丼の「並」というありふれた、しかしこのうえない〈マジックワード〉によって、男がなにかの〈境界線〉を超えたのだ、ということはいえそうです。
また下の歌も、「牛丼の並と玉子を注文し出てきたからには食わねばなるまい」とこれから越えるべき〈境界線〉がまさに「牛丼」そのものによって生産されています。
かんがえてみると、〈牛丼〉というのはあちこちにチェーン店がたけのこのように湧き出し、徹底的なデフレ状態のいま、〈日常食〉と化していると思うんですが、ところがあまりに〈日常食〉が〈日常化〉しすぎた現在、ぎゃくに〈幻想〉=イマジネーションの世界に入ってしまっているのではないか。つまり、〈非日常〉へと。
たとえば、牛丼はもはや値下がりできずに、キムチ牛丼、チーズ牛丼、ネギ山盛り牛丼など〈差異〉の世界に突入している。だから、ある意味、牛丼を食べつつも、差異の戦場のようなところで、日々、意味が回収できないような牛丼記号のマシンガンをうけつつも、しかし日常食としての〈並〉を食べているわけです。
そこにあるのは「このわたし」がどこまで許容し、どこまで進出し、どこから許さないか、という〈線引き〉=境界です。
斉藤斎藤さんの牛丼短歌はまさにその短歌がフィクションとしての食に対してどのように向き合えるかを実践的に示しているのではないかとおもいます。
消費者はもはや特殊な有用性ゆえにあるモノと関わるのではなく、全体としての意味ゆえにモノのセットと関わることになる。洗濯機、冷蔵庫、食器洗い機などは、道具としてのそれぞれの意味とは別の意味をもっている。ショーウィンドウ、広告、企業、そしてとりわけここで主役を演じる商標は、鎖のように切り離し難い全体としてのモノの一貫した集合的な姿を押しつけてくる。それらはもはや単なるひとつながりのモノではなくて、消費者をもっと多様な一連の動機へと誘う、より複雑な超モノとして互いに互いを意味づけあっているが、この限りにおいてはモノはひとつながりの意味するものなのである。
ジャン・ボードリヤール『消費社会の神話と構造』
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