【感想】生徒の名あまた呼びたるいちにちを終りて闇に妻の名を呼ぶ 大松達知
- 2016/03/02
- 11:27
生徒の名あまた呼びたるいちにちを終りて闇に妻の名を呼ぶ 大松達知
【おいしい生活】
この短歌をともだちに紹介すると、ちょっと〈いやな〉顔をするときがあるんですね。
で、それってなんだろうって時々かんがえているんです。もしかしたらなにかあからさまなセクシャルなイメージが思い浮かんだのかもしれないけれど(そしてこの歌はそれを想起させるようにつくられているところがあるけれど)、それだけでもないようにおもう。
この歌にはなにか構造的なひっかかりがあるのではないか。
で、ですね、この歌でおもしろいなと思うのが「いちにちを終りて」という箇所です。つまり、語り手と妻は「いちにち」の〈外部〉にいるわけです。「いちにち」のなかには教師である語り手とおおくの生徒たちが埋め込まれている。そのなかで語り手はたくさんの生徒の名を呼ぶ。そしてその「いちにち」の〈外部〉で語り手は「妻の名を呼ぶ」。
こうした〈時間の分別〉というか〈時間の階層〉を構造化することによって〈名を呼ぶこと〉の意味が変わっているのが読み手にはわかるわけです。
だからこの「いちにち」はなんなのかっていうと、わたしは「(教師としての)いちにち」という意味なんじゃないかと思うんです。だから語り手にとって時間が流れる生活は〈教師〉であるときなんです。そして時間が流れなくなった外部で〈教師〉をやめた語り手は妻の名前を呼んでいる。
つまりこの歌は、教師である語り手が、妻とであうことによって毎晩教師を〈やめる〉歌だとおもうんですよ。
その、教師が教師であることを毎晩(象徴的に)やめているという事実が読み手を刺激するのではないか。ひとは、教師に教師でいつづけてほしいから。「(教師としての)いちにち」の外でも。
そういうひとの象徴的恣意や象徴的暴力を浮き彫りにする歌なんじゃないかとおもうんですよ。
外部から強制される外部。
グーグルに祖父の名前も初恋の人の名前も出て来ないんだ 大松達知
ウディ・アレン『おいしい生活』()。この映画を観ていて思ったんですが、ウディ・アレンってずっと〈別れ〉をえんえんと描いているんですね。ひとは状況の変化によって〈別れ〉ざるをえない。しかも、お金や劣等感というごくつまらないものでひとは大事なひとを失っていく。それってなんだろうっていう。つまり、ウディ・アレンの映画のなかの恋人たちや夫婦にとって外部ってすごく〈せこい〉ものなんだけれど、その〈せいこい外部〉によって破局していく。でも生きていかなくちゃならない。ウディ・アレン映画ではひとはほとんど〈自殺〉しない(すごく死にたがっているけれど)。それがウディ・アレン映画のひとつのおもしろさのように、おもう。
【おいしい生活】
この短歌をともだちに紹介すると、ちょっと〈いやな〉顔をするときがあるんですね。
で、それってなんだろうって時々かんがえているんです。もしかしたらなにかあからさまなセクシャルなイメージが思い浮かんだのかもしれないけれど(そしてこの歌はそれを想起させるようにつくられているところがあるけれど)、それだけでもないようにおもう。
この歌にはなにか構造的なひっかかりがあるのではないか。
で、ですね、この歌でおもしろいなと思うのが「いちにちを終りて」という箇所です。つまり、語り手と妻は「いちにち」の〈外部〉にいるわけです。「いちにち」のなかには教師である語り手とおおくの生徒たちが埋め込まれている。そのなかで語り手はたくさんの生徒の名を呼ぶ。そしてその「いちにち」の〈外部〉で語り手は「妻の名を呼ぶ」。
こうした〈時間の分別〉というか〈時間の階層〉を構造化することによって〈名を呼ぶこと〉の意味が変わっているのが読み手にはわかるわけです。
だからこの「いちにち」はなんなのかっていうと、わたしは「(教師としての)いちにち」という意味なんじゃないかと思うんです。だから語り手にとって時間が流れる生活は〈教師〉であるときなんです。そして時間が流れなくなった外部で〈教師〉をやめた語り手は妻の名前を呼んでいる。
つまりこの歌は、教師である語り手が、妻とであうことによって毎晩教師を〈やめる〉歌だとおもうんですよ。
その、教師が教師であることを毎晩(象徴的に)やめているという事実が読み手を刺激するのではないか。ひとは、教師に教師でいつづけてほしいから。「(教師としての)いちにち」の外でも。
そういうひとの象徴的恣意や象徴的暴力を浮き彫りにする歌なんじゃないかとおもうんですよ。
外部から強制される外部。
グーグルに祖父の名前も初恋の人の名前も出て来ないんだ 大松達知
ウディ・アレン『おいしい生活』()。この映画を観ていて思ったんですが、ウディ・アレンってずっと〈別れ〉をえんえんと描いているんですね。ひとは状況の変化によって〈別れ〉ざるをえない。しかも、お金や劣等感というごくつまらないものでひとは大事なひとを失っていく。それってなんだろうっていう。つまり、ウディ・アレンの映画のなかの恋人たちや夫婦にとって外部ってすごく〈せこい〉ものなんだけれど、その〈せいこい外部〉によって破局していく。でも生きていかなくちゃならない。ウディ・アレン映画ではひとはほとんど〈自殺〉しない(すごく死にたがっているけれど)。それがウディ・アレン映画のひとつのおもしろさのように、おもう。
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