【ふしぎな川柳 第八十二夜】暗黒川柳とは、なにか-竹井紫乙-
- 2016/03/04
- 07:20
真夜中のラーメン魔界へと続く 竹井紫乙
(『句集 白百合亭日常』)
【きょうから使える黒魔法】
さいきん川合大祐さんの川柳をずっとみる機会があって、で、読んでいると大祐さんの川柳の魅力のひとつに〈暗黒面〉をいろんな方法で扱っているということがわかってくるんですね。ひとが抱えている闇や狂気のぶぶんというか、暗黒面の描き方がとてもおもしろい。
ただそれは大祐さん独自の表現方法にくわえて、もともと川柳が持っている〈気質〉みたいなものもあるように思う。よくサラリーマン川柳でも、「うちの妻はなんとかかんとか」って妻をこきおろしたものや、家族のなかで俺の位置は、みたいな自虐的なものありますよね。それもたぶん、暗黒面をあつかったものなんですね。その意味では、詩性川柳もサラリーマン川柳もおなじです。どちらも暗黒面を基盤にしている。
で、暗黒面で、ぱっと思い出したのが、しおとさんの掲句です。これもわたしは暗黒川柳だとおもうんですね。おもしろいのは、〈サラリーマン川柳〉的でもあるということです。なんていうんでしょう、〈女子会川柳〉といってもいいんですが、たとえばこの句をですね、
真夜中のラーメンぷよぷよへ続く
とするとだんだんサラリーマン川柳的になってきますよね。つまり、「魔界」という文学的修辞を外して象徴性を少なくしてあげれば、サラリーマン川柳になるんです。でも、暗黒面は変わりません。
では、この句における暗黒面とは、なにか。
それは〈自壊=自傷〉です。
真夜中にラーメンを食べるとまずい状態になるよっていうことですよね。ただしおとさんの句がおもしろいのはそれを〈魔界〉と言い換えている。そのことによって、ラーメンへの〈食欲〉やラーメンをめぐる〈自由意志〉は放擲される。なにしろ、魔界ですから、じぶんの主体の問題ではないわけです。むしろ、引力や磁力は魔界がもっている。サタンからひっぱられているわけです。これはわたしの問題じゃない、魔界の問題なんだと〈文学的言い訳〉をしているのがある意味でこの句です。でもその〈言い訳〉が「魔界」化されることによって、ラーメンよりもっと大きな問題を含んでいく。別にこれがラーメンじゃなくて、戦争でもいい。殺人でもいい。ちがったかたちで魔界にひっぱられていくひとはいるかもしれない。
これがひとつの暗黒面の構造化です。
こんなふうに川柳って暗黒面を扱えるのではないかとおもったんです。だから川柳っていうのは、黒魔法というか黒魔術にも似ているなとおもったんです。
黒魔法を使いたいひとはおすすめだとおもいます(ちなみに俳句は白魔法にちょっと似ているとおもう)。
いつまでも笑顔でひどい事をする 竹井紫乙
ニコルズ『卒業』(1967)。この映画のおもしろいのって〈枠組み〉なんですね。主人公のダスティン・ホフマンが映画のいちばん最初では飛行機やエスカレーターに乗っている。いちばん最後ではバスに乗っている。つまり、花嫁を奪うという主体的行動に出ながらも枠組みとしては〈他人のエスカレーター〉に乗りっぱなしなんです。だから、このふたりに未来がないことがわかるんですね。映画を観てると。枠組みがそうなっているから。このエスカレーターのオープニングは秀逸だとおもいます。よく観てると女のひととエスカレーターですれちがうときダスティン・ホフマンが眼で追うんですよ。つまりこの主人公はもともと女のひとなら誰でもいいという気質をもっているかもしれないことがこのオープニングでわかる。そういう暗黒面が枠組みからでている映画だとおもう。
(『句集 白百合亭日常』)
【きょうから使える黒魔法】
さいきん川合大祐さんの川柳をずっとみる機会があって、で、読んでいると大祐さんの川柳の魅力のひとつに〈暗黒面〉をいろんな方法で扱っているということがわかってくるんですね。ひとが抱えている闇や狂気のぶぶんというか、暗黒面の描き方がとてもおもしろい。
ただそれは大祐さん独自の表現方法にくわえて、もともと川柳が持っている〈気質〉みたいなものもあるように思う。よくサラリーマン川柳でも、「うちの妻はなんとかかんとか」って妻をこきおろしたものや、家族のなかで俺の位置は、みたいな自虐的なものありますよね。それもたぶん、暗黒面をあつかったものなんですね。その意味では、詩性川柳もサラリーマン川柳もおなじです。どちらも暗黒面を基盤にしている。
で、暗黒面で、ぱっと思い出したのが、しおとさんの掲句です。これもわたしは暗黒川柳だとおもうんですね。おもしろいのは、〈サラリーマン川柳〉的でもあるということです。なんていうんでしょう、〈女子会川柳〉といってもいいんですが、たとえばこの句をですね、
真夜中のラーメンぷよぷよへ続く
とするとだんだんサラリーマン川柳的になってきますよね。つまり、「魔界」という文学的修辞を外して象徴性を少なくしてあげれば、サラリーマン川柳になるんです。でも、暗黒面は変わりません。
では、この句における暗黒面とは、なにか。
それは〈自壊=自傷〉です。
真夜中にラーメンを食べるとまずい状態になるよっていうことですよね。ただしおとさんの句がおもしろいのはそれを〈魔界〉と言い換えている。そのことによって、ラーメンへの〈食欲〉やラーメンをめぐる〈自由意志〉は放擲される。なにしろ、魔界ですから、じぶんの主体の問題ではないわけです。むしろ、引力や磁力は魔界がもっている。サタンからひっぱられているわけです。これはわたしの問題じゃない、魔界の問題なんだと〈文学的言い訳〉をしているのがある意味でこの句です。でもその〈言い訳〉が「魔界」化されることによって、ラーメンよりもっと大きな問題を含んでいく。別にこれがラーメンじゃなくて、戦争でもいい。殺人でもいい。ちがったかたちで魔界にひっぱられていくひとはいるかもしれない。
これがひとつの暗黒面の構造化です。
こんなふうに川柳って暗黒面を扱えるのではないかとおもったんです。だから川柳っていうのは、黒魔法というか黒魔術にも似ているなとおもったんです。
黒魔法を使いたいひとはおすすめだとおもいます(ちなみに俳句は白魔法にちょっと似ているとおもう)。
いつまでも笑顔でひどい事をする 竹井紫乙
ニコルズ『卒業』(1967)。この映画のおもしろいのって〈枠組み〉なんですね。主人公のダスティン・ホフマンが映画のいちばん最初では飛行機やエスカレーターに乗っている。いちばん最後ではバスに乗っている。つまり、花嫁を奪うという主体的行動に出ながらも枠組みとしては〈他人のエスカレーター〉に乗りっぱなしなんです。だから、このふたりに未来がないことがわかるんですね。映画を観てると。枠組みがそうなっているから。このエスカレーターのオープニングは秀逸だとおもいます。よく観てると女のひととエスカレーターですれちがうときダスティン・ホフマンが眼で追うんですよ。つまりこの主人公はもともと女のひとなら誰でもいいという気質をもっているかもしれないことがこのオープニングでわかる。そういう暗黒面が枠組みからでている映画だとおもう。
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