● 近況の世界
- 2014/02/15
- 07:50
●さいきんはよくミスドの店の前を行ったり来たりしています。(2016/2/19)
●友人から手紙を貰ったのですが「おまえは文章おしゃべりだから慎まねばならない」と書いてありました。(2016/2/23)
●古畑任三郎で「ということは、ということは、ということはですよ」という古畑のセリフがあるんですが、どこにも行き着かないところがいいなあと思います。じんせいでさんかいくらい使ってみたいセリフ。(2016/2/26)
●むかしからどうにかして魔法が使えたらいいなと思っていたんですが、川柳をするとちょっと魔法が使えるようになります。ちょっと浮いたり、とか。(2016/3/4)
●風邪をひくとふだんとは違う記憶や回想のチャンネルが働くらしく、ふだん回想では出会わないひとと出会ったりすることがあります。「やあ」(2016/3/11)
●こないだ何かあるたびに「あなた実にやさしいひとだ」と眼をキラキラさせながら言われてとても困ったんですが、私は、たぶん、やさしくないほうの人間だと思うんです。『白鯨』を何年もかけて読むにんげんは、たぶん、やさしくなんてないんですよ。へん、ではあるが。Call me Ishmael.(2016/3/18)
●さいきんテレビ体操を毎日しているんですが、ほんとうにいろんな姿態を取らなければならない、いろんなところにいろんなものを突き出さなければならない、あっちゃこっちゃ手や足を飛び交わさなければならない、ひとはこんなにもたくさんの姿態を取らされて生きていくものなのでしょうかと思わず天に向かって問いかけました。まあ生きていくんだけれど。(2016/3/25)
●ともだちの家に行って「なにか飲む? ソイプロテインならあるけど」って言われて、あれなにかおかしいなって思ったんですよ。「なにか食べる?」ってきかれてソイジョイが出てきたときも、あれなにかおかしいなって思ったんですよ。ただいまだにそれがなんなのか〈理解〉できないでいるんですよ(談)(2016/4/1)
●桜の花びらを髪や肩にくっつけたまま歩いているひといるじゃないですか。わたしは、かれらのことを、《春の運び屋》って呼んでいるんですよ。とくにこの話にオチはないんですよ。ええと、(2016/4/5)
●さいきん、困ったときはこの券でわたしを呼んでくださいと「困ったときの肩たたき券」をくれたひとがいて、それがとても嬉しかったです。かたたたきけんとは、魔法のランプのようなものなのではないでしょうか。わたしもかたたたきけん、いきてるあいだにたくさんくばれるにんげんにならないとなと、おもいました。かたたたきけんとは、そのひとがとんでくる魔法陣のようなものなのです。きっと。(2016/4/12)
●むかし、口頭試問のときに「文学とパン、どっちが大切か? 文学はパンの代わりになるか?」ときかれて、そのとき私は、たぶんこころのなかで、(ならない)って思ったとおもうんです。でも時間の流れのなかで文学は、ずっと後に〈ひとびとのパン〉になる場合も、ある。そういうふうにも思うんです。でも、当面は、ならない。即座にもならない。即効として文学は役に立たない。だからいろいろ迷ったり、ためらい続けるしかない。ような気がする。ように、思うんです。いまも。(2016/4/19)
●レイモンド・カーヴァーが、表現することの秘訣は《生き延びること》だと言っていましたが、《生き延びること》っていうのは決してじぶんだけの枠組みで完結するものではなくて、どのようにひとと《共に》生きていけるか、生き《合って》いけるかも含んでいると思うんですよね。生き延びることを考えることはその延長に他者の生と《共に》にあるじぶんの生をたえず考え直しては放棄していくことなんじゃないかって思うんです。たえず《生まれ直す》ために。そういうことを私はふだん短詩から、及び短詩で出会った方々から学んでいるように思います。(2016/4/26)
●『週刊俳句』のバックナンバーを読んでいていつも思うのは、《続くこと》の凄みのようなものなんですね。ラジオ番組とかもそうなんですが、今わたしがこんなふうにうかれていても《あの場所》は続いているんだなあ、きょうも誰かが書いているんだなあ、しゃべっているんだなあっていう凄さってあると思うんですよ。なにが書かれているかと同時に、どれくらい書かれてきた上でそのたった一語が置かれたかということの凄さってあるような気がして。それを『週刊俳句』から教えてもらった気がします。続けることってそれだけで時にひとを感染させるなにかがあるし、たった一語を非常に神秘的なものにする時間の重みがあるって。続けることは神秘的だ、と。(2016/5/3)
●じぶんの名前がすこしヘンなので、よく名前について考えるんですね。で、十代の頃のことを思い出したときに、中島らもやナンシー関、いとうせいこうやドリアン助川ってヘンな名前のひとたちの考え方や書いた本が凄く好きだったなあって思い出したんですよ。ヘンな名前だと、その《ヘン》を背負っていくことの運命みたいなものが出てくる場合もあるのかなあってときどき彼らの本を読みながらかんがえます。ちなみに多分じぶんの正しい名前は、柳本本本だとは思うんですが。(2016/5/10)
●圧倒的な自然のなかにいたときに、ひとは〈なんにも語る必要がない〉という境地にふいにたどりついてしまうことがあるのかもしれないなって最近おもいました。なんにも言わなくていい。そこにある自然の表面をなでるだけでいい。それだけでじゅうぶん、豊かな語りになるって。何か大きなことがあると〈なにかしゃべらなければならない〉みたいな感じになることもある。黙ってると、おまえはなんにも感じないのか、みたいにおもわれたりすることもある。でもひとには、〈黙ってする語り〉もあるし、なにかを圧倒的に感じたからこそ、黙る以外にないんだ、ってことはあるとおもうんです。そういう〈黙る物語〉を考えてきたのって、定型詩であり、もっといえば、俳句なのかなあっておもいます。(2016/5/17)
●さいきん、川柳や俳句や短歌から〈教えてもらうこと〉が多いなって感じています。今までは取り組む感じだったんですね。取り組みながら感想を書いていた。でも今は、ああこの句や歌は言葉に対してこんなふうに考えているんだ、って教えてもらう立場で感想を書いています。今まで自分がもつこともなかった新しい〈えりくび〉をつかまえられるようにして。(2016/5/28)
●大学院にいた頃に、ずっと院棟にこもっていたんですが、院棟のすごく高いところによくいたので、よく窓から下のキャンパスをぼんやりとみていたんですね。そのときにゲームのラスボスってよく塔の最上階にいるけれど、こんなに景色のいいところにずっといて、どうして悪でいられるんだろう、って思ったんです。でも今かんがえると、ずっと自分をほろぼしに、自分だけを目的にして遠いところからやってきてくれる主人公のことをずっと待ってたんじゃないかっておもうんですよね。じぶんだけのために彼/彼女はやってくるんです。それってすごく素敵なことじゃないかとおもって。そういうことって、あるんですよね。千年くらい生きてると。(2016/5/31)
●「名前」ってふしぎだなと思うんですが、「名前」っていつもどうにもならない部分がぜったいにありますよね。もちろん、自分で勝手に名前をつけたりはできるけれど、名付けた次のしゅんかん、もう〈それからのどうにもならなさ〉を引き受けなければいけなくなる。で、たぶん、〈意味〉って〈連続するどうにもならなさ〉から生まれてくるものなんじゃないかと思うんですよね。だから、たとえば、動かない石をじっとみつめ続けると〈意味〉が出てくるんだと思うんですよ。〈どうにもならなさ〉に気づいちゃうから。〈写生〉って実はその〈世界のどうにもならなさ〉に気が付く行為なんじゃないかと思うんです。だから正岡子規はこう言っていた。「(こんなにも世界はどうにもならない。)鶏頭の十四五本もありぬべし」(2016/6/5)
●石原ユキオさんの句に「桜桃忌知らない人と手をつなぐ」っていう句があるんですが、この「知らない人と手をつなぐ」っていうねじれた開かれ方がとてもいいなって思うんですね。太宰治を読む経験って太宰が書いた小説に自己同一化していくようなところがあると思うんです。太宰治もよく「君!」って読者に語りかけてくるし。でもユキオさんのこの句が示唆するように「知らない人」にひらいていくこと、〈知らないじぶん〉にひらいていくことも太宰治の小説って示しているような気がするんですよ。自分がどうしても同一化できないような部分にであうこと。知らないじぶんがわいてくる泉を太宰の小説にみつけてしまうこと。そこから新たな生のきっかけを見いだすこと。そういう部分がむしろ太宰治を読むという行為にはあるようにおもうんです。「知らない人と手をつなぐ」ような素敵さと無敵さが。(2016/6/13)
●ときどき酩酊したコアラみたいに弱っていることがあるんですが、こないだ勇気づけだからといって電話越しに知人がとつぜん歌い始めたのでどうしようと思いながらも黙って聴いていました。歌詞の内容は、「ひとりで行こうと思えば行ける買い物、でもふたりで行くと想定外の買い物もできるから楽しい。さんにんだとそれはもう買い物ではない。ピクニックだよ」という買い物の歌で、勇気と買い物になんの関係が? と思ったのですが、でも口を挟むのはよくないので、黙って聴いていました。この買い物だけの歌、何番まで? とも思いながら。(2016/6/20)
●蜷川幸雄さんが言っていたんですが、徹夜したりとか閉じこもって本を読んだりだとか、からだやこころが疲弊してもうろうとしていくなかでふっとイメージやアイデアがわいてくることがあって、で、だんだんそのもうろうのやり方というか〈もうろうの作法〉のようなものがわかっていくんだっておっしゃってたんですね。もうろうのやり方っていうか。ああここらへんでアイデアでてくるだろうなっていう。徹夜とかすると明らかに認識のチャンネルが変わって世界が違って見えてくることがあるけれど、そういうことってあるように思うんですよ。発想のために徹夜するとか。すごく広い意味での〈ゆるやかな自傷〉というか。たとえばシャワー浴びてると急にアイデアがわいたりすることもありますよね。あれもちょっと近いものがあると思うんですよ。シャワーを〈世界でいちばんやさしい自傷〉ととらえるならば。シャワーによって、ふるいじぶんを滅ぼしていくときに、ふっとそれまで考えつかなかったようなイメージが湧いてくる。(2016/6/26)
●さいきんある方と「続けること」について話していて、わたしも「それでも続けられること」と「にもかかわらず続けられないこと」ってたくさんあるのであんまり簡単にはいえないんですが、「続け(られ)ること」の秘密って〈神秘性〉の部分に属するのではないかと思ったんですね。自分でもよくわからないけれど、〈続けざるをえない〉という。続けざるをえない、に力点があるんじゃなくて、《よくわからないけれど》に力点がある。だから逆にいうと《わかっ》てしまうとやめてしまう。構造もわかってしまうと終わりになってしまう。好きとか恋愛とかもそういうようなことってあるとおもうんです。《わからない》が続くことにつながってゆくような。なにかを続けようと思ったときに「~のために」とするとその「~」にいつでも回収されてしまうんだけれど、でも外部からよくわからないものが次から次へとくるなかでそういう外へひらいてゆく神秘的なことが「続けること」の秘密のような気がしていて。あんまり神秘を持ち出しちゃいけないんだけれども。でも突き詰めていうとひとがなにかを続けていくのは物質性ではなく超越性じゃないかと思うわけです。超越性だとどこにも回収しようがないので続けるしかないんじゃないかと思うんですね。神秘的で圧倒的な、そういう長い時間、《長期持続》のようなものでしか、なにかを言わせられないことってあるんじゃないかと思うんです、木なんかをみてると。川なんかをみてると。風なんかを、いや、風はいいや。(2016/7/3)
●家の猫に、おまえふくろうに似ているね、って言うと、びっくりした顔をして首をからだの中に縮めながら眼をまるくしてこっちをみつめているんですね、それで私も驚いて、ほんとうにふくろうに似てきちゃったね、と言うと、もっとからだの奥に顔をひっこめていくので、ごめんごめん、といって、あとを追いかける。でもものすごく奥のほうまでひっこんじゃっているので、トンネルを走るように追いかけていかなくちゃならない。暗闇の奥の奥のほうへとどんどん猫の顔は引っ込んでいく。私はあわてて、ときどきつまずきながら、追いかけていくんですが、これ追いついたとしても家に帰れるのかな、と走っているとちゅうで、おもう。でも、ほんとうは、そんなことは思っていなかったのかもしれない。家のことなんてどうだってよかったのかもしれない。ほんとうは家の猫が猫じゃないことも知っていたのかもしれない。そのあいだにも猫の顔はどんどん遠ざかっていくし、わたしの手や足や腰もどんどんしなびていくのが、わかる。(2016/7/10)
●さいきんちょっと定型っていうのをガジェットやギミックの観点から考えられないだろうかって思ったんですよね。ひとってそういう装置とか仕組みとかモノにすごく惹かれることってありますよね。万華鏡とか回転ドアとか観覧車とかもそういうギミックへの憧憬ってあると思うんですよ。で、定型っていうのは17音だったり31音だったりするんだけれど、それをガジェット嗜好として考えられないかなってちょっと思ったんです。すごくとんだ例示をだすけれど、シルバニアファミリーとかリカちゃん人形もちょっと考えれば制限がすごく大きいじゃないですか。想像力を足さないと、愛さないと、ほとんど〈遊べない〉。でもすごく惹かれるひとたちがいた。だとしたらそういう制限があるけれどでもガジェットの魅力があってこそだったんじゃないかと思うんです。リカちゃんのパサパサした髪とかシルバニアファミリーのさわるともさもさしたてざわりとか。で、定型にもそれはないだろうか。もちろんそれは神聖な定型ではなくて、仮面ライダーシリーズのなかで考えてみるようなそういうガジェット的な定型観になってしまうんだけれど、でもそういうホビーとしての定型観のようなものはないだろうか。そんなことをさいきん少しだけ思ったんですよ。いや、すいません、打ち明けると根っこにはこんな疑問がありました。ひとは大人になってもなぜガチャガチャをするんだろう。 (2016/7/18)
●こないだ時評でながや宏高さんとお話させていただいたときに、〈絵と短歌〉をめぐる話って、〈1・5次元〉をめぐる話なんじゃないかなって思ったんです。線の文字テキストとしての1次元と、絵の平面としての2次元のあいだ、あわいにある〈1・5次元〉。さいきん、よく聞くのは2・5次元ですが、絵と短歌は1・5次元なんじゃないか。で、短歌って実は全次元展開しているような気もするんですよ。短歌の次元展開を試験的に考えてみると、1次元は線ですから、歌を文字テキストとして詠んだり/読んだりするのが1次元です。とくに一首が上から下につらぬかれていく線条性は1次元的です。2次元は平面ですから、連作としての平面性が出てきます。連作としての構成から一首を読み解いたり、また先ほどの話のように短歌から絵を描いて楽しむ行為は2次元です。またこの投稿欄は好きとかそういうのも2次元の楽しみだと思うんですよね。だからある意味では結社や同人もこの2次元に属するのかもしれない。3次元は空間です。歌会やカルチャースクールといった現実の立体的空間における歌の楽しみが3次元です。シンポジウムや朗読やトークショーなどの短歌イヴェントがこれにあたると思います。そして次元のあわいに、さきほどの1・5次元(一首と連作、歌と絵の往還を楽しむ)がある。それから2・5次元がありますが、2・5次元のわかりやすい例示はコスプレや声優、初音ミク、フィギュアなどの虚構と現実のあわいにある〈仮想〉によって成立しているものです。これを短歌においてあえていうならば、〈歌人〉というアイデンティティの次元なのではないかと思うんですよね。もしくは〈わたくし性〉も関係してくるかもしれない。現実と虚構のあわいにある、現実と虚構のあわいでゆらいでいるものです。そして最後にスピリチュアルの4次元があります。これは石川啄木が次から次が歌がでてきて自分自身が歌になってしまっているといったようなことを日記に書いていましたが、歌と一体化し自分自身が歌そのものになってしまうスピリチュアルな極致が4次元です。もしくはもう世界が歌そのものに見えてしまう、電話をとっても、車内アナウンスも、お弁当のメニューも、恋人の言葉も、上司の怒号も、鳥のさえずりも、シャワーのしぶきも、すべてが歌にしか聞こえない状態、こうしたスピリチュアルな状態、「俺が短歌だ」になってしまった状態、これが短歌の4次元ではないかと思います。短歌の全次元展開。 (2016/7/25)
●細田守監督の『バケモノの子』で最後に〈白鯨〉が出てくるけれど、メルヴィルの『白鯨』のように凶暴で、鯨の表象としてはちょっと珍しいなと思いました。鯨って通常ゆったりとした、いっさいを肯定してくれるような表象が多いと思ってたんですよね。その一切肯定の表象としての鯨が、一切否定のメルヴィル鯨になる。しかもイノシシの牙がついている〈まがいもの〉の鯨に。そこらへんにこの映画が描くひとのコンプレックスのありようがあるんじゃないかと思ったんです。一切肯定された存在が、とつぜん、一切否定のぐちゃぐちゃのバケモノ鯨的な複合意識として暴発する。一切肯定っていうのはけっきょくコンプレックスの培養にしかならないんじゃないかっていう。おなじ細田監督の『時をかける少女』って思い出してみると、〈時空の延々とした否定〉なんですよね。一回も〈時空〉を受け入れないことが「時をかける」ことだった。そこでは〈切なる告白〉もまた相対化された、複数の、否定される時空に過ぎなかった。そういう肯定と否定の〈たたかい〉があるのかなあっておもったんです。たぶん、インターネットって〈肯定=イエス=お気に入り〉をいかに(ソフトウェアではなく)ハードウェアとして備えていくかの歴史だったのかなということも含めてそんなふうに思うんです。 (2016/7/30)
●昔、ずっと一緒にいたひとからこの三冊をあなたは読みなさい、きっとためになるからってすすめられた本があって、それがヴォネガットの『猫のゆりかご』とマルケスの『族長の秋』とブローティガンの『アメリカの鱒釣り』だったんですよ。で、それら三冊を読んだときに自分がすごく救われたのは、《文学ってふざけてもいいんだな》ってことだったんです。文学というフィールドでひとは一所懸命にふざけることができる。それはひとつ、生きることの救いになるんじゃないかなって思って。これら三冊を読むとふざけることがユーモアとシリアスをいったりきたりすることなんだっていうのがわかってくる。手を休めては、うん、ふざけることってほんとうになんなんだろう、ひとは言葉を使ってふざけることができるのだろうか、まじめなすっとんきょうになれるだろうか、真剣にふざけることが生きているうちにたった一度でもできるだろうか、と思ったり、する。そういうところに自分にとっての文学があるんじゃないかと思ったんです。そしてさいきん川合大祐さんの句集『スロー・リバー』を読みながらそんなことをふっと思い出したんです。「〈フォーマ(無害な非真実)〉を生きるよすべとしなさい。それはあなたを、勇敢で、親切で、健康で、幸福な人間にする。」(2016/8/8)
●フロイトが言ってたんですけど、〈知性〉っていうのは「つぶやきつづける声」のことだって言ってたんですね。つぶやきをやめないことだと。つぶやきだからなかなかだれにも届かないんですよ。え? え? って理解もされない。そもそもよく聞き取れない。でも、やめないつぶやきだから、いつかだれかの耳に思いがけなくふっと届くことがある。それが知性だって。わたしはつづけることの秘密ってそこらへんにもあるような気がするんです。さいきん安福望さんの8年前のフリーペーパーを読んでいたらそこで「世界の構造」の話が出ていて、でもまさに今やすふくさんがされている短歌を絵にするって言葉を〈世界の構造〉として提出することなんですよね。で、たぶん、安福さんのなかでそうした一貫する〈つづいてきたもの〉があるんじゃないかと思ったんです。そしてそれはたぶんわたしもあなたもひとりひとりがもっていて、おもいがけなくちいさく、しかし根強くつづいてきているものがあるんじゃないかとおもって。どんなにひとからやめろっていわれても、つづけてきたもの。つづいてきたもの。きょだいで、ささやかなもの。あなたの声。やまなかった、あなたの。声。「絞っても絞っても声は大きい/稲垣康江」。 (2016/8/15)
●こないだある方と話をしていて、けっきょくみんなオズの魔法を持っているんだね、って結論にたどりついたんですよ。だいたい明け方だったんだけれど、夜通し話し込んでそういうところにたどりついた。それがはやいかおそいかでみんなオズの魔法はもってる。あとは待てるかどうかだと。それでわたしもじゃあ言ってもいいかな、って思って、それってイエローブリックロードのことですよね、って言ったら、そうしたら、しばらく沈黙があってから、そうですね、ってそのひとが言ったんですよね。そのようですね、って。で、ああそうか、と思って。それから、そうですか、そうですね、っていう《そう》ばかりの会話をして、別れたんです。《そう》の価値をたかまらせて。(2016/8/23)
●川柳では「中八」ってとても忌み嫌われているんですね。585で詠むのはだめだと言われる。でもなぜ駄目なのかって実は誰もよくわかっていないんじゃないかって問いを発したのが、兵頭全郎さんの「中八考」だと思うんです。この全郎さんの記事は検索すれば出てくるのでネットで読むことができるんですが、そこで全郎さんは、実は「中八」の方がむしろ自然なリズムなんじゃないかと指摘している。それって面白い指摘だと思うんですね。音律っていうのは、非自然な成型をなしてはじめてできあがってくるものかもしれないから。たとえば電話でとつぜん短歌や川柳をうたいはじめたら、相手が、ど、どうしたってなるじゃないですか。これって自然じゃないからだと思うんですよ。つまり、歌っていうのは舌のきもちよさとか快楽とかここちよさとかそういうものばかり重視されるんだけれど、ほんとうは歌や音律っていうのはふだんのゼロ的ななめらかさをいかに非自然として成型するかっていうまったく逆のベクトルがあるんじゃないかと思ったんです。ともかくどうもこの中八ナショナリズムみたいなものがあるかもしれない。中八の言説の系譜というか。そこらへんをさぐってみるともしかすると面白いかもしれません。その意味で、その問題構制を用意した兵頭全郎さんの「中八考」はとても大事な論考なんじゃないかと思ったんです。これからかんがえてみたいなと。いきながら。うたいながら。これは夏休みのじゆうけんきゅうとしてもとてもいいと思うんですよ。私はそうしようかなと思っていて。おや。おわりじゃないか。夏。(2016/8/28)
●吉本隆明が『最後の親鸞』で、ひとの最終的な課題は〈愚かになること〉だって述べていたんですが、少しそこから卑俗に考えてみると、たとえば風邪をひく行為って、〈懸命に愚かになる行為〉だと思うんですよ。ふだんいろんなことを考える、欲望したりする、いろんな分別をしたり、判断をしたり、選択をしたり、間違いをおかしたり、むだに背伸びしたりかしこまったりする。でも、風邪をひくと、〈ぼんやり〉してしまって、すべてがあいまいになって、〈うわごと〉的になる。そうした〈愚かになっていく〉なかで、今までじぶんが大事にしていたものが夢のように・実際夢の感覚のなかで、せりあがってくる。ずっと沈んでいた大陸みたいに。その意味で、愚かになることってちょっと大事なのかなって思うんですよ。愚かってなんとなくなることではなくて、愚かになっていく、っていう積極的な行為なのかなとも。自然と愚かになれるのではなくて、愚かになることを自分で試行錯誤しなければならないというか。なにか愚かは発見していくものなのかなとも思ったんですね。定型詩っていうのは音数律に基づいているのでよくパズルみたいだとも言われるんだけれど、実はよい意味で〈愚かになること〉が賭けられているんじゃないかとも思うんです。〈愚かな文学性〉を模索しているんじゃないかと、だからたとえばそのままをそのままに歌った〈ただごと短歌〉ってあるんだけれど、ただごとが定型をとおすと妙に神秘的になったりする。マジカルな意味性がでてくる。そもそも歌をうたうときのひとの表情は、〈吠える〉表情に近い。これもある意味、積極的に愚かになることのひとつなんじゃないかと思うんです。でもそのなかで文学性がでてくる。たぶん、バタイユがそれに気づいていたような気がするんです。ええとたとえば引用してみると、いや、今実はてもとにないので、いつか、また。ええと、愚かな本棚ってあると思うんですよ。管理できていないっていう、ええと、それでね、ええとね、(2016/9/4)
●あの、ときどき思うことなんですが、短詩って大失敗できるのがいいなとも思うんです。あんまりこういうのってないのではないかなあって思って。あ、これはいいの書けたかなと思うと、つぎのしゅんかん、とんでもない大失敗をしている。ふみはずしている。なんかちょっとこの高低差がドストエフスキー的だなあと思って、ドストエフスキー・クライミングをしているような感覚になることがあるんです。ドストエフスキー・ダイビングでもいいけれど。そういうのってあんまりないんじゃないかなって。なにかそれは定型って神学に近いんじゃないかってことも感じさせるんです。歌をよんだり、句をつくったりするひとは、どこかでみんな、神学者なんじゃないかと。あっ、いま、神様にふれたんじゃないかっておもったつぎの瞬間、圧倒的に神からつきはなされていることに、きづく。なにか大きな神様の手のなかを必死にジョギングしつづけているような。でもときどき神様の体温を感じるときがふっと、ある。ああこれが神様の常温なのかもしれないなとおもう。おもう。おもうんだけれど、次のしゅんかん、みはなされている。ドストエフスキーのサラダみたいなつめたさに、つきおとされている。ところで、定型の常温は何度だろう。(2016/9/12)
●ひとは生きていくなかでいろんな風景をみるけれど、たとえどうにもならない状況もそのひとしか体験できないことがあるので、それはそれでやってきたひとつの風景なのかなと思う。どうにもならなかったことも含めて《風景》なのだと。表現をやっていてちょっとおもしろいなと思ったのが、じぶんの身体が動きはじめたことだ。わたしは昔から〈部屋でする冒険〉が好きだったが(おい、この部屋、まだ奥があるぞ!)、けっきょく部屋の活動を突き詰めていくと〈外〉につきぬけるんだなとおもった。わたしは部屋にむかってこんなふうに言った。「わかった! 理解したよ!」 だからあなたに書いた手紙のさいごにわたしはこんなふうに書いた。「部屋の冒険は外に通じていました。」(2016/9/19)
●さいきん『真田丸』をずっと観ながら三谷幸喜性ってなんだろうって考えてたんですけど、うすうすそうなのかなとは前から思っていたんですが、たぶんそれはその役者がそれまでなにを演じてきたかの〈身体的記憶〉を資本として使うということなんじゃないかと思うんですよね。松本幸四郎がかつて大河ドラマで主演した役名とまったくおなじ名前で出てきた。しかもそこには三谷幸喜のドラマ『王様のレストラン』の伝説のソムリエ役の記憶もかけあわせられていたはずです。そういう役者の身体的記憶を資本として使うのが三谷幸喜作品なんじゃないかとちょっと思ったんです。だから三谷幸喜の歴史ものって、〈日本史〉を描くというよりは、〈役者の身体史〉=ドラマ史を描いてるんじゃないかってちょっとおもったんですよ。三谷幸喜作品は、ドラマ史的ドラマだと。そこから考えて、わたしたちは誰でも身体性をもっているはずだけれど、身体性っていうのはもしかすると身体感じゃなくて、身体的記憶なんじゃないかとおもったんです。わたしたちがどういう経路をたどって今ある身体にたどりついているか。どういう身体を〈見られて〉ここまできたかじゃないかって。(2016/9/25)
●やってくるひとはぜんいん答えをもっているんじゃないかと思うことがある。これはどういう意味かというとほんとうにそのままの意味で、「やってくるひとはぜんいん答えをもっているんじゃないかと思うことがある」という意味だ。だからこんなふうにもおもう。やってくることばはぜんぶ答えをもっているんじゃないかと。わたしにできることはやってきたひとややってきたことばのまわりをうろうろすることである。うろうろしてると、感じて想ったことがでてくる。それで感想を書く。書いてるうちに、このひとは、このことばは、こんなところがすきだな、こんなところがすごいな、こんなところがすてきだなと想うのだが、すき・すごい・すてきは使わないで、なんとかことばにしてみようと、おもう。それが、わたしにとって、焦らずにそのひとやそのことばのまわりをうろうろすることになるとおもう。こんなふうにうろうろするといいよ、というのは生きているとあんまり教えてもらわないことだ。学校でもうろうろするという科目はない。体育でも、うろうろするスポーツはなかったとおもう。うろうろすることは、じぶんでやり方をさがさなければならない。誰もおしえてくれない。でも〈うろうろすること〉をうろうろしていくなかで、すきなひとやすきなことばのうろうろのなかで、学んでいけるうろうろがある。あなたはことばをほめすぎじゃないですか、と言われることもある。あるけれど、もうすこし、うろうろしてみようと、おもう。(2016/10/3)
●わたしとそのひとのふたりが呼ばれてここで絵の話をしなさいと言われて絵をめぐる話をしていたんですが、気がつくと呪文と世界の根っこをめぐる話をしていてこういうことってあるんだなあと思いました。たとえば十歳のじぶんがのちに真剣に呪文をめぐる話し合いをすることになるなんて予想できていたかどうか。呪文や世界の根っこや蛸や木や星について話し合いました。キラキラについても。とてもまじめに、ゆっくりと、これまでのことを思いだしながら。いままで語りそこねたことをできるだけいま言葉にできるように注意深くていねいに声を使いわけながら。できるだけ相手のことばに耳をすませながら。じんせいってふしぎだなあとおもったんです。こんな大人になって、しんけんに呪文の話をすることになるなんて思わなかった。びっくりだなあとおもったんです。すべてが話し終わったあとに、こんなことになるなんて、こんなにたくさん呪文の話をおとなになってからするなんて、「あれあれ、びっくりですね」と相手のひとに言ったら、「いやぜんぜん」と言ったので、さらにびっくりしました。すいません、最後だけちょっと嘘をつきました。(2016/10/10)
●たとえば世界の片隅でなんの予備知識もないひとりのこども、男子中学生や女子高生でもいいのだけれど、が句に、ただ一句に、文脈もなく出会ったらどうなるんだろう、ということを考えることがある。それが正しいことなのかどうかはわからないけれども。でもそんなふうに考えることがある。どんなに私小説的な事柄でもことばにするときに、そこには言語構成力が入る。出来事をことばとして成立させようとする〈なにか〉がそこに入ってくる。でもその〈なにか〉があるからこそ、世界のはじっこにいるひとにも、とつぜん、〈通じて〉しまうことがある。とくに川柳や俳句や短歌は、強制的な言語構成力を差し向ける定型があるので、そういうことをなおさら考えてしまう。ほんとうはひとはことばにする時に、みえないことばのかみさまのようなものに、「言語構成しなさいよ」と言われているはずなのだが(でないと言葉はくらげやゼリーのようなぐじゅぐじゅのものになるだろう)、そしてそれをふだんはかくしてしまうのだが、ところが定型はそのかみさまを物質的に先取りし、ひっぱりだし、ひきずりおろしたモノなんじゃないかと思うことがある。定型っていうのはひとがかみさまをひきずりおろしたかたちなんじゃないかとおもうことが、ある。でもひきずりおろしたはいいけれど、そのかみさまをどうしていいかは、まだだれにもわかっていない。きまずい沈黙はつづく。かみさまもひきずりだされちゃった以上、「帰っていいですか」とも言えない。かみさまもわたしたちもおなじ部屋できまずい思いをして、同居している。なにか、きまずいので、おもしろいエピソードのひとつかふたつを話そうかと思いながら。はなしはじめるきっかけをさがしながら。ときどき眼があいながら。「あの」 (2016/10/17)
●品川も破壊されるんですが、その品川で『シン・ゴジラ』を観たんですね。で、なんか弱ったなあというか、困ったなあっていうのが、『シン・ゴジラ』をおもしろかった、って素直に言えないためらいのようなものがあるんですよ。というか、たぶん、そういうふうにつくってある。たとえばどうしても311を思い出させるようにつくってある。そのときそれに対しておまえはどうする、それでも「おもしろい」っていうのかってつくってあるようにもおもったんです。でももしかしたら311を描くって、〈311を描く〉ということではなくて、〈311をまったく描かない〉かたちで、それを想起させることなんじゃないかと思ったんです(事実、映画内のひとびとは誰も311のことを知らないんです。でもまったくそれにに似た状況に接してしまっている)。311を再現するひつようはない。だって311を描くひつようなんてないんですから。しかもそれを再現したところで再現不可能だし、それは記憶の書き換えにしかならないんだから。むしろ、《想起させる》しかできないんじゃないか。それが『シン・ゴジラ』という映画だったんじゃないかと思うんです。で、ゴジラが嘔吐するように熱線を吐瀉するシーンがあるんですが、そのときに、「Who will know」って歌が流れるんです。わたしがこの世界で死んだとしても、だれがそれを知るんだろう、って歌なんだけど、これってゴジラが発話してる〈わたし〉なんじゃないかとおもったんです。つまりはじめてゴジラが〈私性〉をもった。ゴジラの目的はだれにも理解できない。だからゴジラが死んでもそれを〈私性の死〉として、ゴジラの〈わたしの死〉として、だれもわかってあげることはできない。ただゴジラはだれでもないわたしとして死ぬんです。でもそれでもゴジラは破壊をつづける。自傷するように。歌は、こう続くんです。それでも進まなければならない。たとえ最悪の状況だとしても。吐息がつづくかぎりは。(2016/10/23)
●《「あれから、どう変わったの?」「わからない」とフリーダは答えて、Kの手を見た。フリーダの手をとっている。「何も変わっていないのかもしれない。あなたがこんなふうにすぐそばにいて、こんなふうに静かにたずねると、そんなときは何も変わっていない気がする。でも、ほんとうは、そうじゃない」(カフカ『城』)》。あるひとと話していたら、とつぜんミヒャエル・ハネケの映画『城』を思い出したんですね。カフカの『城』を脚色なく、あえて映像的貧しさのなかで撮ったものなんだけれど、そのなかでKが真夜中に部屋をまちがえてある役人の部屋のなかに入ってしまう。その部屋はベッドしかないんです。巨大なベッドに役人が寝ている。Kはねむくてしかたなくてベッドのはしっこにすわってねむりかけるんですが、そのときに役人はこんなことを教えてくれる。「ほんのちょっとのまなざしで状況はいっぺんするものです」と。《失望したからといって、たじろいではなりません。はじめてここにやってくると、障害がまったくこえられない気がします。しかし、気をつけてみてください、事態とほとんど一致しないような機会がときおり生じるものなのです。ほんのひとこと、一度の眼差し、ちょっとした信頼のしるしによって、生涯にわたり、身心をすりへらして努力してきたよりも、ずっと多くのことが実現する、そんな機会が訪れるものです。(カフカ『城』)》。カフカの『城』って未完だから、けっきょくこの映画もすぱっとなんにもラストもなく終わるんですが、カフカの『城』のコンセプトを言ってみるなら、〈さいごまでわからない〉、いや〈さいごなんてない〉じゃないかと思うんです。たとえばKは目的の城にどうやったってたどりつかないのは有名ですが、〈終わり〉がないってことはどんな行動やことばや出会いも目的論化されないということです。つまりじぶんで目的なりベクトルなりを決めなければならない。Kがインスタントで、しかし深い愛を決意したように。やっぱりカフカの『城』のことば。《「出ていくなんてできない」と、Kが言った。「ここにとどまるためにやって来た。だからここにいる」(カフカ『城』)》(2016/10/30)
●こないだちょっと仕事のことで落ち込んでいたらあるひとがこんな言葉を教えてくれたんです。「杉作J太郎さんが言っていたんですが、AVを1000回みたら一回やったことにしていいんだ、ってたしかJ太郎さんがそう言ってました」 なんでそんなことを言ってきたのかわからないんですが、はあそうなのかあ、そういうもんかあ、と思いました。それから2秒くらいして、ふたたび、でもそうかもしれないなあ、と思いました。たとえばそのことばから、1000回やったら、一回ちゃんときちんとAVをみたことになるのかもしれないな、と言うことも考えました。実際、そのひとにそういうふうに言ってみたら、それはちがうんじゃないか、と言ったので、ちょっとおどろきました。あたりにはせわしなく葉が散っていて、落ち葉せわしないな、と思いました。せわしないですね、と言ったら、またそのひとが、首をかしげました。(2016/11/9)
●たぶんなんですが、年が明けて、クリスマスや元旦のうきうきした感じも落ち着き、ああ、そうかそろそろバレンタインなのか、でもふだんからチョコレート売場によく足を運んでいるし、ポケットにいつもチョコレートを入れているから転倒するとチョコがお金みたいにあちこちに転がり出ていくくらいだ、だからおなかがすいたひとがわざと私を転ばせてチョコレートを簒奪していくことがある、それくらい私はチョコレートがすきなんだけれど、つまり、そのバレンタインも過ぎたあたりくらいに、予定なんですが、たぶん、イラストレーターの安福望さんとの共著『きょうごめん行けないんだ』が出る予定です。ちなみにこのタイトルは安福さんが決めたもので、わたしはかなり失敗したタイトルをつけたんですが、安福さんがそのタイトルは不安だということでこのタイトルに決まりました。あらかじめ「ごめん」と出だしで謝っているのがとてもいいタイトルだと思いました。よく謝っているので。そういうよく謝っているひとたちが書いた本ということになります。(2016/11/19)
●イッセー尾形のラジオドラマが好きで何回も繰り返しきいていたのだが、彼のラジオドラマをききながら眠るとすごくしあわせでさびしくてこうふくなきもちになった。ふしぎな感覚だがそうとしか言いようがなかった。出てくる人間たちはみな奇妙なこだわりをみせながらも愛の挫折に追い込まれていく。イッセー尾形の変わった名前も好きだった。名前が変わってるっていうのはそれだけで宿命的なような気もする。ナンシー関やドリアン助川がなにを考えていたのかをときどきかんがえる。そしてたとえばグレートギャツビーがグレートジョンだったらどうなっていたのかも考える。緑の光を信じなかったのではないか、ジョンなら。小津夜景さんの夜景と西原天気さんの天気という名前についてもよく考えるのだが、天気さんの句集『けむり』というタイトルと天気は響きあっているようにも思う。俳句は、天気=けむりのように奥にもあるし手前にもある。奥行きもあれば平面的でもある。それは夜景というスペクタクルにも似ている。(2016/11/21)
●今度の『かばん』2016年12月号の特集が〈描く短歌〉で、そこで特集のチーフをさせていただいたんですね。編集人のながや宏高さんからまず、やぎもとさん、やすふくさんと対談するのはどうでしょう、ってお話があって、以前、とととと展のトークショーのときにやすふくさんがけっこう話し残したことがあったって長いメールをくれたので、これはまた語り残したことを話させてもらうのにいい機会かもしれないなとおもったんです。それで、じゃあ、安福望はいかにして安福望なのか、というひとつのテーマをたててやすふくさんとお話してみました。あ、やすふくさんのすごく昔の絵なんかも載せてもらいました。今回、岡野大嗣さん、久真八志さん、少女幻想共同体さん、唐崎昭子(山中千瀬)さん、東直子さん、光森裕樹さん(五十音順です)に〈絵と短歌〉をめぐる原稿を書いて/描いていただきました。絵と短歌というひとすじなわではいかないテーマにご寄稿くださって感謝しています。今回の『かばん』は初めての試みで、電子出版もされるそうです。全国どこにいても読むことができますので、もしよろしければぜひお読みいただければうれしいです。なんでも入る『かばん』だからこそ、できちゃった企画かもしれません。企画人のながやさん、すごいなと思いました。みなさんにありがとうございました。(2016/11/28)
●さいきん時実新子さんについていろいろ考える機会をいただいたので、ずっと新子さんの本をあれこれ読み返していたんです。そのとき、新子さんの、「わたしは市役所以外で本名を使ったことがありません」という記述にであったんです。この新子というのは筆名なんですね。初めての句会でとっさに、新人であるじぶんとしてつけたのが新子だったそうなんです。ここでおもしろいなと思ったのは、新子さんにとって新子であることは、それが筆名であったように、〈仮構〉とはなにか、を考えるということでもあったのではないかということです。〈仮構〉を一句一句構造として言葉のなかで考えていくことで、相手に伝達する構造をつくりあげることができる。仮構からはじめて、仮構がふりきれるしゅんかんをかんがえる。それが新子さんの川柳だったんじゃないかなとちょっとおもったんです。新子さんは新子さんでありながら新子さんっぽくない場所もたえず志向していたのではないかとおもうんです。ユーフォーに乗ってやってくる未来の読者を。たとえばこんな句。「私ですか ユーフォーを待っている/時実新子」(2016/12/13)
●厳寒の中、欠席した女の子の家にコッペパンとジャムマーガリンとプリントを届けたことがあるのだが、ほんとうにそこまでしてコッペパンをひとは要るのかな、という気持ちも正直あったと思う。家に行くと這うように女の子が出てきて「ありがとう…」と私にチョコをくれてまた這って奥へと戻っていた。(2016/12/27)
●友人から手紙を貰ったのですが「おまえは文章おしゃべりだから慎まねばならない」と書いてありました。(2016/2/23)
●古畑任三郎で「ということは、ということは、ということはですよ」という古畑のセリフがあるんですが、どこにも行き着かないところがいいなあと思います。じんせいでさんかいくらい使ってみたいセリフ。(2016/2/26)
●むかしからどうにかして魔法が使えたらいいなと思っていたんですが、川柳をするとちょっと魔法が使えるようになります。ちょっと浮いたり、とか。(2016/3/4)
●風邪をひくとふだんとは違う記憶や回想のチャンネルが働くらしく、ふだん回想では出会わないひとと出会ったりすることがあります。「やあ」(2016/3/11)
●こないだ何かあるたびに「あなた実にやさしいひとだ」と眼をキラキラさせながら言われてとても困ったんですが、私は、たぶん、やさしくないほうの人間だと思うんです。『白鯨』を何年もかけて読むにんげんは、たぶん、やさしくなんてないんですよ。へん、ではあるが。Call me Ishmael.(2016/3/18)
●さいきんテレビ体操を毎日しているんですが、ほんとうにいろんな姿態を取らなければならない、いろんなところにいろんなものを突き出さなければならない、あっちゃこっちゃ手や足を飛び交わさなければならない、ひとはこんなにもたくさんの姿態を取らされて生きていくものなのでしょうかと思わず天に向かって問いかけました。まあ生きていくんだけれど。(2016/3/25)
●ともだちの家に行って「なにか飲む? ソイプロテインならあるけど」って言われて、あれなにかおかしいなって思ったんですよ。「なにか食べる?」ってきかれてソイジョイが出てきたときも、あれなにかおかしいなって思ったんですよ。ただいまだにそれがなんなのか〈理解〉できないでいるんですよ(談)(2016/4/1)
●桜の花びらを髪や肩にくっつけたまま歩いているひといるじゃないですか。わたしは、かれらのことを、《春の運び屋》って呼んでいるんですよ。とくにこの話にオチはないんですよ。ええと、(2016/4/5)
●さいきん、困ったときはこの券でわたしを呼んでくださいと「困ったときの肩たたき券」をくれたひとがいて、それがとても嬉しかったです。かたたたきけんとは、魔法のランプのようなものなのではないでしょうか。わたしもかたたたきけん、いきてるあいだにたくさんくばれるにんげんにならないとなと、おもいました。かたたたきけんとは、そのひとがとんでくる魔法陣のようなものなのです。きっと。(2016/4/12)
●むかし、口頭試問のときに「文学とパン、どっちが大切か? 文学はパンの代わりになるか?」ときかれて、そのとき私は、たぶんこころのなかで、(ならない)って思ったとおもうんです。でも時間の流れのなかで文学は、ずっと後に〈ひとびとのパン〉になる場合も、ある。そういうふうにも思うんです。でも、当面は、ならない。即座にもならない。即効として文学は役に立たない。だからいろいろ迷ったり、ためらい続けるしかない。ような気がする。ように、思うんです。いまも。(2016/4/19)
●レイモンド・カーヴァーが、表現することの秘訣は《生き延びること》だと言っていましたが、《生き延びること》っていうのは決してじぶんだけの枠組みで完結するものではなくて、どのようにひとと《共に》生きていけるか、生き《合って》いけるかも含んでいると思うんですよね。生き延びることを考えることはその延長に他者の生と《共に》にあるじぶんの生をたえず考え直しては放棄していくことなんじゃないかって思うんです。たえず《生まれ直す》ために。そういうことを私はふだん短詩から、及び短詩で出会った方々から学んでいるように思います。(2016/4/26)
●『週刊俳句』のバックナンバーを読んでいていつも思うのは、《続くこと》の凄みのようなものなんですね。ラジオ番組とかもそうなんですが、今わたしがこんなふうにうかれていても《あの場所》は続いているんだなあ、きょうも誰かが書いているんだなあ、しゃべっているんだなあっていう凄さってあると思うんですよ。なにが書かれているかと同時に、どれくらい書かれてきた上でそのたった一語が置かれたかということの凄さってあるような気がして。それを『週刊俳句』から教えてもらった気がします。続けることってそれだけで時にひとを感染させるなにかがあるし、たった一語を非常に神秘的なものにする時間の重みがあるって。続けることは神秘的だ、と。(2016/5/3)
●じぶんの名前がすこしヘンなので、よく名前について考えるんですね。で、十代の頃のことを思い出したときに、中島らもやナンシー関、いとうせいこうやドリアン助川ってヘンな名前のひとたちの考え方や書いた本が凄く好きだったなあって思い出したんですよ。ヘンな名前だと、その《ヘン》を背負っていくことの運命みたいなものが出てくる場合もあるのかなあってときどき彼らの本を読みながらかんがえます。ちなみに多分じぶんの正しい名前は、柳本本本だとは思うんですが。(2016/5/10)
●圧倒的な自然のなかにいたときに、ひとは〈なんにも語る必要がない〉という境地にふいにたどりついてしまうことがあるのかもしれないなって最近おもいました。なんにも言わなくていい。そこにある自然の表面をなでるだけでいい。それだけでじゅうぶん、豊かな語りになるって。何か大きなことがあると〈なにかしゃべらなければならない〉みたいな感じになることもある。黙ってると、おまえはなんにも感じないのか、みたいにおもわれたりすることもある。でもひとには、〈黙ってする語り〉もあるし、なにかを圧倒的に感じたからこそ、黙る以外にないんだ、ってことはあるとおもうんです。そういう〈黙る物語〉を考えてきたのって、定型詩であり、もっといえば、俳句なのかなあっておもいます。(2016/5/17)
●さいきん、川柳や俳句や短歌から〈教えてもらうこと〉が多いなって感じています。今までは取り組む感じだったんですね。取り組みながら感想を書いていた。でも今は、ああこの句や歌は言葉に対してこんなふうに考えているんだ、って教えてもらう立場で感想を書いています。今まで自分がもつこともなかった新しい〈えりくび〉をつかまえられるようにして。(2016/5/28)
●大学院にいた頃に、ずっと院棟にこもっていたんですが、院棟のすごく高いところによくいたので、よく窓から下のキャンパスをぼんやりとみていたんですね。そのときにゲームのラスボスってよく塔の最上階にいるけれど、こんなに景色のいいところにずっといて、どうして悪でいられるんだろう、って思ったんです。でも今かんがえると、ずっと自分をほろぼしに、自分だけを目的にして遠いところからやってきてくれる主人公のことをずっと待ってたんじゃないかっておもうんですよね。じぶんだけのために彼/彼女はやってくるんです。それってすごく素敵なことじゃないかとおもって。そういうことって、あるんですよね。千年くらい生きてると。(2016/5/31)
●「名前」ってふしぎだなと思うんですが、「名前」っていつもどうにもならない部分がぜったいにありますよね。もちろん、自分で勝手に名前をつけたりはできるけれど、名付けた次のしゅんかん、もう〈それからのどうにもならなさ〉を引き受けなければいけなくなる。で、たぶん、〈意味〉って〈連続するどうにもならなさ〉から生まれてくるものなんじゃないかと思うんですよね。だから、たとえば、動かない石をじっとみつめ続けると〈意味〉が出てくるんだと思うんですよ。〈どうにもならなさ〉に気づいちゃうから。〈写生〉って実はその〈世界のどうにもならなさ〉に気が付く行為なんじゃないかと思うんです。だから正岡子規はこう言っていた。「(こんなにも世界はどうにもならない。)鶏頭の十四五本もありぬべし」(2016/6/5)
●石原ユキオさんの句に「桜桃忌知らない人と手をつなぐ」っていう句があるんですが、この「知らない人と手をつなぐ」っていうねじれた開かれ方がとてもいいなって思うんですね。太宰治を読む経験って太宰が書いた小説に自己同一化していくようなところがあると思うんです。太宰治もよく「君!」って読者に語りかけてくるし。でもユキオさんのこの句が示唆するように「知らない人」にひらいていくこと、〈知らないじぶん〉にひらいていくことも太宰治の小説って示しているような気がするんですよ。自分がどうしても同一化できないような部分にであうこと。知らないじぶんがわいてくる泉を太宰の小説にみつけてしまうこと。そこから新たな生のきっかけを見いだすこと。そういう部分がむしろ太宰治を読むという行為にはあるようにおもうんです。「知らない人と手をつなぐ」ような素敵さと無敵さが。(2016/6/13)
●ときどき酩酊したコアラみたいに弱っていることがあるんですが、こないだ勇気づけだからといって電話越しに知人がとつぜん歌い始めたのでどうしようと思いながらも黙って聴いていました。歌詞の内容は、「ひとりで行こうと思えば行ける買い物、でもふたりで行くと想定外の買い物もできるから楽しい。さんにんだとそれはもう買い物ではない。ピクニックだよ」という買い物の歌で、勇気と買い物になんの関係が? と思ったのですが、でも口を挟むのはよくないので、黙って聴いていました。この買い物だけの歌、何番まで? とも思いながら。(2016/6/20)
●蜷川幸雄さんが言っていたんですが、徹夜したりとか閉じこもって本を読んだりだとか、からだやこころが疲弊してもうろうとしていくなかでふっとイメージやアイデアがわいてくることがあって、で、だんだんそのもうろうのやり方というか〈もうろうの作法〉のようなものがわかっていくんだっておっしゃってたんですね。もうろうのやり方っていうか。ああここらへんでアイデアでてくるだろうなっていう。徹夜とかすると明らかに認識のチャンネルが変わって世界が違って見えてくることがあるけれど、そういうことってあるように思うんですよ。発想のために徹夜するとか。すごく広い意味での〈ゆるやかな自傷〉というか。たとえばシャワー浴びてると急にアイデアがわいたりすることもありますよね。あれもちょっと近いものがあると思うんですよ。シャワーを〈世界でいちばんやさしい自傷〉ととらえるならば。シャワーによって、ふるいじぶんを滅ぼしていくときに、ふっとそれまで考えつかなかったようなイメージが湧いてくる。(2016/6/26)
●さいきんある方と「続けること」について話していて、わたしも「それでも続けられること」と「にもかかわらず続けられないこと」ってたくさんあるのであんまり簡単にはいえないんですが、「続け(られ)ること」の秘密って〈神秘性〉の部分に属するのではないかと思ったんですね。自分でもよくわからないけれど、〈続けざるをえない〉という。続けざるをえない、に力点があるんじゃなくて、《よくわからないけれど》に力点がある。だから逆にいうと《わかっ》てしまうとやめてしまう。構造もわかってしまうと終わりになってしまう。好きとか恋愛とかもそういうようなことってあるとおもうんです。《わからない》が続くことにつながってゆくような。なにかを続けようと思ったときに「~のために」とするとその「~」にいつでも回収されてしまうんだけれど、でも外部からよくわからないものが次から次へとくるなかでそういう外へひらいてゆく神秘的なことが「続けること」の秘密のような気がしていて。あんまり神秘を持ち出しちゃいけないんだけれども。でも突き詰めていうとひとがなにかを続けていくのは物質性ではなく超越性じゃないかと思うわけです。超越性だとどこにも回収しようがないので続けるしかないんじゃないかと思うんですね。神秘的で圧倒的な、そういう長い時間、《長期持続》のようなものでしか、なにかを言わせられないことってあるんじゃないかと思うんです、木なんかをみてると。川なんかをみてると。風なんかを、いや、風はいいや。(2016/7/3)
●家の猫に、おまえふくろうに似ているね、って言うと、びっくりした顔をして首をからだの中に縮めながら眼をまるくしてこっちをみつめているんですね、それで私も驚いて、ほんとうにふくろうに似てきちゃったね、と言うと、もっとからだの奥に顔をひっこめていくので、ごめんごめん、といって、あとを追いかける。でもものすごく奥のほうまでひっこんじゃっているので、トンネルを走るように追いかけていかなくちゃならない。暗闇の奥の奥のほうへとどんどん猫の顔は引っ込んでいく。私はあわてて、ときどきつまずきながら、追いかけていくんですが、これ追いついたとしても家に帰れるのかな、と走っているとちゅうで、おもう。でも、ほんとうは、そんなことは思っていなかったのかもしれない。家のことなんてどうだってよかったのかもしれない。ほんとうは家の猫が猫じゃないことも知っていたのかもしれない。そのあいだにも猫の顔はどんどん遠ざかっていくし、わたしの手や足や腰もどんどんしなびていくのが、わかる。(2016/7/10)
●さいきんちょっと定型っていうのをガジェットやギミックの観点から考えられないだろうかって思ったんですよね。ひとってそういう装置とか仕組みとかモノにすごく惹かれることってありますよね。万華鏡とか回転ドアとか観覧車とかもそういうギミックへの憧憬ってあると思うんですよ。で、定型っていうのは17音だったり31音だったりするんだけれど、それをガジェット嗜好として考えられないかなってちょっと思ったんです。すごくとんだ例示をだすけれど、シルバニアファミリーとかリカちゃん人形もちょっと考えれば制限がすごく大きいじゃないですか。想像力を足さないと、愛さないと、ほとんど〈遊べない〉。でもすごく惹かれるひとたちがいた。だとしたらそういう制限があるけれどでもガジェットの魅力があってこそだったんじゃないかと思うんです。リカちゃんのパサパサした髪とかシルバニアファミリーのさわるともさもさしたてざわりとか。で、定型にもそれはないだろうか。もちろんそれは神聖な定型ではなくて、仮面ライダーシリーズのなかで考えてみるようなそういうガジェット的な定型観になってしまうんだけれど、でもそういうホビーとしての定型観のようなものはないだろうか。そんなことをさいきん少しだけ思ったんですよ。いや、すいません、打ち明けると根っこにはこんな疑問がありました。ひとは大人になってもなぜガチャガチャをするんだろう。 (2016/7/18)
●こないだ時評でながや宏高さんとお話させていただいたときに、〈絵と短歌〉をめぐる話って、〈1・5次元〉をめぐる話なんじゃないかなって思ったんです。線の文字テキストとしての1次元と、絵の平面としての2次元のあいだ、あわいにある〈1・5次元〉。さいきん、よく聞くのは2・5次元ですが、絵と短歌は1・5次元なんじゃないか。で、短歌って実は全次元展開しているような気もするんですよ。短歌の次元展開を試験的に考えてみると、1次元は線ですから、歌を文字テキストとして詠んだり/読んだりするのが1次元です。とくに一首が上から下につらぬかれていく線条性は1次元的です。2次元は平面ですから、連作としての平面性が出てきます。連作としての構成から一首を読み解いたり、また先ほどの話のように短歌から絵を描いて楽しむ行為は2次元です。またこの投稿欄は好きとかそういうのも2次元の楽しみだと思うんですよね。だからある意味では結社や同人もこの2次元に属するのかもしれない。3次元は空間です。歌会やカルチャースクールといった現実の立体的空間における歌の楽しみが3次元です。シンポジウムや朗読やトークショーなどの短歌イヴェントがこれにあたると思います。そして次元のあわいに、さきほどの1・5次元(一首と連作、歌と絵の往還を楽しむ)がある。それから2・5次元がありますが、2・5次元のわかりやすい例示はコスプレや声優、初音ミク、フィギュアなどの虚構と現実のあわいにある〈仮想〉によって成立しているものです。これを短歌においてあえていうならば、〈歌人〉というアイデンティティの次元なのではないかと思うんですよね。もしくは〈わたくし性〉も関係してくるかもしれない。現実と虚構のあわいにある、現実と虚構のあわいでゆらいでいるものです。そして最後にスピリチュアルの4次元があります。これは石川啄木が次から次が歌がでてきて自分自身が歌になってしまっているといったようなことを日記に書いていましたが、歌と一体化し自分自身が歌そのものになってしまうスピリチュアルな極致が4次元です。もしくはもう世界が歌そのものに見えてしまう、電話をとっても、車内アナウンスも、お弁当のメニューも、恋人の言葉も、上司の怒号も、鳥のさえずりも、シャワーのしぶきも、すべてが歌にしか聞こえない状態、こうしたスピリチュアルな状態、「俺が短歌だ」になってしまった状態、これが短歌の4次元ではないかと思います。短歌の全次元展開。 (2016/7/25)
●細田守監督の『バケモノの子』で最後に〈白鯨〉が出てくるけれど、メルヴィルの『白鯨』のように凶暴で、鯨の表象としてはちょっと珍しいなと思いました。鯨って通常ゆったりとした、いっさいを肯定してくれるような表象が多いと思ってたんですよね。その一切肯定の表象としての鯨が、一切否定のメルヴィル鯨になる。しかもイノシシの牙がついている〈まがいもの〉の鯨に。そこらへんにこの映画が描くひとのコンプレックスのありようがあるんじゃないかと思ったんです。一切肯定された存在が、とつぜん、一切否定のぐちゃぐちゃのバケモノ鯨的な複合意識として暴発する。一切肯定っていうのはけっきょくコンプレックスの培養にしかならないんじゃないかっていう。おなじ細田監督の『時をかける少女』って思い出してみると、〈時空の延々とした否定〉なんですよね。一回も〈時空〉を受け入れないことが「時をかける」ことだった。そこでは〈切なる告白〉もまた相対化された、複数の、否定される時空に過ぎなかった。そういう肯定と否定の〈たたかい〉があるのかなあっておもったんです。たぶん、インターネットって〈肯定=イエス=お気に入り〉をいかに(ソフトウェアではなく)ハードウェアとして備えていくかの歴史だったのかなということも含めてそんなふうに思うんです。 (2016/7/30)
●昔、ずっと一緒にいたひとからこの三冊をあなたは読みなさい、きっとためになるからってすすめられた本があって、それがヴォネガットの『猫のゆりかご』とマルケスの『族長の秋』とブローティガンの『アメリカの鱒釣り』だったんですよ。で、それら三冊を読んだときに自分がすごく救われたのは、《文学ってふざけてもいいんだな》ってことだったんです。文学というフィールドでひとは一所懸命にふざけることができる。それはひとつ、生きることの救いになるんじゃないかなって思って。これら三冊を読むとふざけることがユーモアとシリアスをいったりきたりすることなんだっていうのがわかってくる。手を休めては、うん、ふざけることってほんとうになんなんだろう、ひとは言葉を使ってふざけることができるのだろうか、まじめなすっとんきょうになれるだろうか、真剣にふざけることが生きているうちにたった一度でもできるだろうか、と思ったり、する。そういうところに自分にとっての文学があるんじゃないかと思ったんです。そしてさいきん川合大祐さんの句集『スロー・リバー』を読みながらそんなことをふっと思い出したんです。「〈フォーマ(無害な非真実)〉を生きるよすべとしなさい。それはあなたを、勇敢で、親切で、健康で、幸福な人間にする。」(2016/8/8)
●フロイトが言ってたんですけど、〈知性〉っていうのは「つぶやきつづける声」のことだって言ってたんですね。つぶやきをやめないことだと。つぶやきだからなかなかだれにも届かないんですよ。え? え? って理解もされない。そもそもよく聞き取れない。でも、やめないつぶやきだから、いつかだれかの耳に思いがけなくふっと届くことがある。それが知性だって。わたしはつづけることの秘密ってそこらへんにもあるような気がするんです。さいきん安福望さんの8年前のフリーペーパーを読んでいたらそこで「世界の構造」の話が出ていて、でもまさに今やすふくさんがされている短歌を絵にするって言葉を〈世界の構造〉として提出することなんですよね。で、たぶん、安福さんのなかでそうした一貫する〈つづいてきたもの〉があるんじゃないかと思ったんです。そしてそれはたぶんわたしもあなたもひとりひとりがもっていて、おもいがけなくちいさく、しかし根強くつづいてきているものがあるんじゃないかとおもって。どんなにひとからやめろっていわれても、つづけてきたもの。つづいてきたもの。きょだいで、ささやかなもの。あなたの声。やまなかった、あなたの。声。「絞っても絞っても声は大きい/稲垣康江」。 (2016/8/15)
●こないだある方と話をしていて、けっきょくみんなオズの魔法を持っているんだね、って結論にたどりついたんですよ。だいたい明け方だったんだけれど、夜通し話し込んでそういうところにたどりついた。それがはやいかおそいかでみんなオズの魔法はもってる。あとは待てるかどうかだと。それでわたしもじゃあ言ってもいいかな、って思って、それってイエローブリックロードのことですよね、って言ったら、そうしたら、しばらく沈黙があってから、そうですね、ってそのひとが言ったんですよね。そのようですね、って。で、ああそうか、と思って。それから、そうですか、そうですね、っていう《そう》ばかりの会話をして、別れたんです。《そう》の価値をたかまらせて。(2016/8/23)
●川柳では「中八」ってとても忌み嫌われているんですね。585で詠むのはだめだと言われる。でもなぜ駄目なのかって実は誰もよくわかっていないんじゃないかって問いを発したのが、兵頭全郎さんの「中八考」だと思うんです。この全郎さんの記事は検索すれば出てくるのでネットで読むことができるんですが、そこで全郎さんは、実は「中八」の方がむしろ自然なリズムなんじゃないかと指摘している。それって面白い指摘だと思うんですね。音律っていうのは、非自然な成型をなしてはじめてできあがってくるものかもしれないから。たとえば電話でとつぜん短歌や川柳をうたいはじめたら、相手が、ど、どうしたってなるじゃないですか。これって自然じゃないからだと思うんですよ。つまり、歌っていうのは舌のきもちよさとか快楽とかここちよさとかそういうものばかり重視されるんだけれど、ほんとうは歌や音律っていうのはふだんのゼロ的ななめらかさをいかに非自然として成型するかっていうまったく逆のベクトルがあるんじゃないかと思ったんです。ともかくどうもこの中八ナショナリズムみたいなものがあるかもしれない。中八の言説の系譜というか。そこらへんをさぐってみるともしかすると面白いかもしれません。その意味で、その問題構制を用意した兵頭全郎さんの「中八考」はとても大事な論考なんじゃないかと思ったんです。これからかんがえてみたいなと。いきながら。うたいながら。これは夏休みのじゆうけんきゅうとしてもとてもいいと思うんですよ。私はそうしようかなと思っていて。おや。おわりじゃないか。夏。(2016/8/28)
●吉本隆明が『最後の親鸞』で、ひとの最終的な課題は〈愚かになること〉だって述べていたんですが、少しそこから卑俗に考えてみると、たとえば風邪をひく行為って、〈懸命に愚かになる行為〉だと思うんですよ。ふだんいろんなことを考える、欲望したりする、いろんな分別をしたり、判断をしたり、選択をしたり、間違いをおかしたり、むだに背伸びしたりかしこまったりする。でも、風邪をひくと、〈ぼんやり〉してしまって、すべてがあいまいになって、〈うわごと〉的になる。そうした〈愚かになっていく〉なかで、今までじぶんが大事にしていたものが夢のように・実際夢の感覚のなかで、せりあがってくる。ずっと沈んでいた大陸みたいに。その意味で、愚かになることってちょっと大事なのかなって思うんですよ。愚かってなんとなくなることではなくて、愚かになっていく、っていう積極的な行為なのかなとも。自然と愚かになれるのではなくて、愚かになることを自分で試行錯誤しなければならないというか。なにか愚かは発見していくものなのかなとも思ったんですね。定型詩っていうのは音数律に基づいているのでよくパズルみたいだとも言われるんだけれど、実はよい意味で〈愚かになること〉が賭けられているんじゃないかとも思うんです。〈愚かな文学性〉を模索しているんじゃないかと、だからたとえばそのままをそのままに歌った〈ただごと短歌〉ってあるんだけれど、ただごとが定型をとおすと妙に神秘的になったりする。マジカルな意味性がでてくる。そもそも歌をうたうときのひとの表情は、〈吠える〉表情に近い。これもある意味、積極的に愚かになることのひとつなんじゃないかと思うんです。でもそのなかで文学性がでてくる。たぶん、バタイユがそれに気づいていたような気がするんです。ええとたとえば引用してみると、いや、今実はてもとにないので、いつか、また。ええと、愚かな本棚ってあると思うんですよ。管理できていないっていう、ええと、それでね、ええとね、(2016/9/4)
●あの、ときどき思うことなんですが、短詩って大失敗できるのがいいなとも思うんです。あんまりこういうのってないのではないかなあって思って。あ、これはいいの書けたかなと思うと、つぎのしゅんかん、とんでもない大失敗をしている。ふみはずしている。なんかちょっとこの高低差がドストエフスキー的だなあと思って、ドストエフスキー・クライミングをしているような感覚になることがあるんです。ドストエフスキー・ダイビングでもいいけれど。そういうのってあんまりないんじゃないかなって。なにかそれは定型って神学に近いんじゃないかってことも感じさせるんです。歌をよんだり、句をつくったりするひとは、どこかでみんな、神学者なんじゃないかと。あっ、いま、神様にふれたんじゃないかっておもったつぎの瞬間、圧倒的に神からつきはなされていることに、きづく。なにか大きな神様の手のなかを必死にジョギングしつづけているような。でもときどき神様の体温を感じるときがふっと、ある。ああこれが神様の常温なのかもしれないなとおもう。おもう。おもうんだけれど、次のしゅんかん、みはなされている。ドストエフスキーのサラダみたいなつめたさに、つきおとされている。ところで、定型の常温は何度だろう。(2016/9/12)
●ひとは生きていくなかでいろんな風景をみるけれど、たとえどうにもならない状況もそのひとしか体験できないことがあるので、それはそれでやってきたひとつの風景なのかなと思う。どうにもならなかったことも含めて《風景》なのだと。表現をやっていてちょっとおもしろいなと思ったのが、じぶんの身体が動きはじめたことだ。わたしは昔から〈部屋でする冒険〉が好きだったが(おい、この部屋、まだ奥があるぞ!)、けっきょく部屋の活動を突き詰めていくと〈外〉につきぬけるんだなとおもった。わたしは部屋にむかってこんなふうに言った。「わかった! 理解したよ!」 だからあなたに書いた手紙のさいごにわたしはこんなふうに書いた。「部屋の冒険は外に通じていました。」(2016/9/19)
●さいきん『真田丸』をずっと観ながら三谷幸喜性ってなんだろうって考えてたんですけど、うすうすそうなのかなとは前から思っていたんですが、たぶんそれはその役者がそれまでなにを演じてきたかの〈身体的記憶〉を資本として使うということなんじゃないかと思うんですよね。松本幸四郎がかつて大河ドラマで主演した役名とまったくおなじ名前で出てきた。しかもそこには三谷幸喜のドラマ『王様のレストラン』の伝説のソムリエ役の記憶もかけあわせられていたはずです。そういう役者の身体的記憶を資本として使うのが三谷幸喜作品なんじゃないかとちょっと思ったんです。だから三谷幸喜の歴史ものって、〈日本史〉を描くというよりは、〈役者の身体史〉=ドラマ史を描いてるんじゃないかってちょっとおもったんですよ。三谷幸喜作品は、ドラマ史的ドラマだと。そこから考えて、わたしたちは誰でも身体性をもっているはずだけれど、身体性っていうのはもしかすると身体感じゃなくて、身体的記憶なんじゃないかとおもったんです。わたしたちがどういう経路をたどって今ある身体にたどりついているか。どういう身体を〈見られて〉ここまできたかじゃないかって。(2016/9/25)
●やってくるひとはぜんいん答えをもっているんじゃないかと思うことがある。これはどういう意味かというとほんとうにそのままの意味で、「やってくるひとはぜんいん答えをもっているんじゃないかと思うことがある」という意味だ。だからこんなふうにもおもう。やってくることばはぜんぶ答えをもっているんじゃないかと。わたしにできることはやってきたひとややってきたことばのまわりをうろうろすることである。うろうろしてると、感じて想ったことがでてくる。それで感想を書く。書いてるうちに、このひとは、このことばは、こんなところがすきだな、こんなところがすごいな、こんなところがすてきだなと想うのだが、すき・すごい・すてきは使わないで、なんとかことばにしてみようと、おもう。それが、わたしにとって、焦らずにそのひとやそのことばのまわりをうろうろすることになるとおもう。こんなふうにうろうろするといいよ、というのは生きているとあんまり教えてもらわないことだ。学校でもうろうろするという科目はない。体育でも、うろうろするスポーツはなかったとおもう。うろうろすることは、じぶんでやり方をさがさなければならない。誰もおしえてくれない。でも〈うろうろすること〉をうろうろしていくなかで、すきなひとやすきなことばのうろうろのなかで、学んでいけるうろうろがある。あなたはことばをほめすぎじゃないですか、と言われることもある。あるけれど、もうすこし、うろうろしてみようと、おもう。(2016/10/3)
●わたしとそのひとのふたりが呼ばれてここで絵の話をしなさいと言われて絵をめぐる話をしていたんですが、気がつくと呪文と世界の根っこをめぐる話をしていてこういうことってあるんだなあと思いました。たとえば十歳のじぶんがのちに真剣に呪文をめぐる話し合いをすることになるなんて予想できていたかどうか。呪文や世界の根っこや蛸や木や星について話し合いました。キラキラについても。とてもまじめに、ゆっくりと、これまでのことを思いだしながら。いままで語りそこねたことをできるだけいま言葉にできるように注意深くていねいに声を使いわけながら。できるだけ相手のことばに耳をすませながら。じんせいってふしぎだなあとおもったんです。こんな大人になって、しんけんに呪文の話をすることになるなんて思わなかった。びっくりだなあとおもったんです。すべてが話し終わったあとに、こんなことになるなんて、こんなにたくさん呪文の話をおとなになってからするなんて、「あれあれ、びっくりですね」と相手のひとに言ったら、「いやぜんぜん」と言ったので、さらにびっくりしました。すいません、最後だけちょっと嘘をつきました。(2016/10/10)
●たとえば世界の片隅でなんの予備知識もないひとりのこども、男子中学生や女子高生でもいいのだけれど、が句に、ただ一句に、文脈もなく出会ったらどうなるんだろう、ということを考えることがある。それが正しいことなのかどうかはわからないけれども。でもそんなふうに考えることがある。どんなに私小説的な事柄でもことばにするときに、そこには言語構成力が入る。出来事をことばとして成立させようとする〈なにか〉がそこに入ってくる。でもその〈なにか〉があるからこそ、世界のはじっこにいるひとにも、とつぜん、〈通じて〉しまうことがある。とくに川柳や俳句や短歌は、強制的な言語構成力を差し向ける定型があるので、そういうことをなおさら考えてしまう。ほんとうはひとはことばにする時に、みえないことばのかみさまのようなものに、「言語構成しなさいよ」と言われているはずなのだが(でないと言葉はくらげやゼリーのようなぐじゅぐじゅのものになるだろう)、そしてそれをふだんはかくしてしまうのだが、ところが定型はそのかみさまを物質的に先取りし、ひっぱりだし、ひきずりおろしたモノなんじゃないかと思うことがある。定型っていうのはひとがかみさまをひきずりおろしたかたちなんじゃないかとおもうことが、ある。でもひきずりおろしたはいいけれど、そのかみさまをどうしていいかは、まだだれにもわかっていない。きまずい沈黙はつづく。かみさまもひきずりだされちゃった以上、「帰っていいですか」とも言えない。かみさまもわたしたちもおなじ部屋できまずい思いをして、同居している。なにか、きまずいので、おもしろいエピソードのひとつかふたつを話そうかと思いながら。はなしはじめるきっかけをさがしながら。ときどき眼があいながら。「あの」 (2016/10/17)
●品川も破壊されるんですが、その品川で『シン・ゴジラ』を観たんですね。で、なんか弱ったなあというか、困ったなあっていうのが、『シン・ゴジラ』をおもしろかった、って素直に言えないためらいのようなものがあるんですよ。というか、たぶん、そういうふうにつくってある。たとえばどうしても311を思い出させるようにつくってある。そのときそれに対しておまえはどうする、それでも「おもしろい」っていうのかってつくってあるようにもおもったんです。でももしかしたら311を描くって、〈311を描く〉ということではなくて、〈311をまったく描かない〉かたちで、それを想起させることなんじゃないかと思ったんです(事実、映画内のひとびとは誰も311のことを知らないんです。でもまったくそれにに似た状況に接してしまっている)。311を再現するひつようはない。だって311を描くひつようなんてないんですから。しかもそれを再現したところで再現不可能だし、それは記憶の書き換えにしかならないんだから。むしろ、《想起させる》しかできないんじゃないか。それが『シン・ゴジラ』という映画だったんじゃないかと思うんです。で、ゴジラが嘔吐するように熱線を吐瀉するシーンがあるんですが、そのときに、「Who will know」って歌が流れるんです。わたしがこの世界で死んだとしても、だれがそれを知るんだろう、って歌なんだけど、これってゴジラが発話してる〈わたし〉なんじゃないかとおもったんです。つまりはじめてゴジラが〈私性〉をもった。ゴジラの目的はだれにも理解できない。だからゴジラが死んでもそれを〈私性の死〉として、ゴジラの〈わたしの死〉として、だれもわかってあげることはできない。ただゴジラはだれでもないわたしとして死ぬんです。でもそれでもゴジラは破壊をつづける。自傷するように。歌は、こう続くんです。それでも進まなければならない。たとえ最悪の状況だとしても。吐息がつづくかぎりは。(2016/10/23)
●《「あれから、どう変わったの?」「わからない」とフリーダは答えて、Kの手を見た。フリーダの手をとっている。「何も変わっていないのかもしれない。あなたがこんなふうにすぐそばにいて、こんなふうに静かにたずねると、そんなときは何も変わっていない気がする。でも、ほんとうは、そうじゃない」(カフカ『城』)》。あるひとと話していたら、とつぜんミヒャエル・ハネケの映画『城』を思い出したんですね。カフカの『城』を脚色なく、あえて映像的貧しさのなかで撮ったものなんだけれど、そのなかでKが真夜中に部屋をまちがえてある役人の部屋のなかに入ってしまう。その部屋はベッドしかないんです。巨大なベッドに役人が寝ている。Kはねむくてしかたなくてベッドのはしっこにすわってねむりかけるんですが、そのときに役人はこんなことを教えてくれる。「ほんのちょっとのまなざしで状況はいっぺんするものです」と。《失望したからといって、たじろいではなりません。はじめてここにやってくると、障害がまったくこえられない気がします。しかし、気をつけてみてください、事態とほとんど一致しないような機会がときおり生じるものなのです。ほんのひとこと、一度の眼差し、ちょっとした信頼のしるしによって、生涯にわたり、身心をすりへらして努力してきたよりも、ずっと多くのことが実現する、そんな機会が訪れるものです。(カフカ『城』)》。カフカの『城』って未完だから、けっきょくこの映画もすぱっとなんにもラストもなく終わるんですが、カフカの『城』のコンセプトを言ってみるなら、〈さいごまでわからない〉、いや〈さいごなんてない〉じゃないかと思うんです。たとえばKは目的の城にどうやったってたどりつかないのは有名ですが、〈終わり〉がないってことはどんな行動やことばや出会いも目的論化されないということです。つまりじぶんで目的なりベクトルなりを決めなければならない。Kがインスタントで、しかし深い愛を決意したように。やっぱりカフカの『城』のことば。《「出ていくなんてできない」と、Kが言った。「ここにとどまるためにやって来た。だからここにいる」(カフカ『城』)》(2016/10/30)
●こないだちょっと仕事のことで落ち込んでいたらあるひとがこんな言葉を教えてくれたんです。「杉作J太郎さんが言っていたんですが、AVを1000回みたら一回やったことにしていいんだ、ってたしかJ太郎さんがそう言ってました」 なんでそんなことを言ってきたのかわからないんですが、はあそうなのかあ、そういうもんかあ、と思いました。それから2秒くらいして、ふたたび、でもそうかもしれないなあ、と思いました。たとえばそのことばから、1000回やったら、一回ちゃんときちんとAVをみたことになるのかもしれないな、と言うことも考えました。実際、そのひとにそういうふうに言ってみたら、それはちがうんじゃないか、と言ったので、ちょっとおどろきました。あたりにはせわしなく葉が散っていて、落ち葉せわしないな、と思いました。せわしないですね、と言ったら、またそのひとが、首をかしげました。(2016/11/9)
●たぶんなんですが、年が明けて、クリスマスや元旦のうきうきした感じも落ち着き、ああ、そうかそろそろバレンタインなのか、でもふだんからチョコレート売場によく足を運んでいるし、ポケットにいつもチョコレートを入れているから転倒するとチョコがお金みたいにあちこちに転がり出ていくくらいだ、だからおなかがすいたひとがわざと私を転ばせてチョコレートを簒奪していくことがある、それくらい私はチョコレートがすきなんだけれど、つまり、そのバレンタインも過ぎたあたりくらいに、予定なんですが、たぶん、イラストレーターの安福望さんとの共著『きょうごめん行けないんだ』が出る予定です。ちなみにこのタイトルは安福さんが決めたもので、わたしはかなり失敗したタイトルをつけたんですが、安福さんがそのタイトルは不安だということでこのタイトルに決まりました。あらかじめ「ごめん」と出だしで謝っているのがとてもいいタイトルだと思いました。よく謝っているので。そういうよく謝っているひとたちが書いた本ということになります。(2016/11/19)
●イッセー尾形のラジオドラマが好きで何回も繰り返しきいていたのだが、彼のラジオドラマをききながら眠るとすごくしあわせでさびしくてこうふくなきもちになった。ふしぎな感覚だがそうとしか言いようがなかった。出てくる人間たちはみな奇妙なこだわりをみせながらも愛の挫折に追い込まれていく。イッセー尾形の変わった名前も好きだった。名前が変わってるっていうのはそれだけで宿命的なような気もする。ナンシー関やドリアン助川がなにを考えていたのかをときどきかんがえる。そしてたとえばグレートギャツビーがグレートジョンだったらどうなっていたのかも考える。緑の光を信じなかったのではないか、ジョンなら。小津夜景さんの夜景と西原天気さんの天気という名前についてもよく考えるのだが、天気さんの句集『けむり』というタイトルと天気は響きあっているようにも思う。俳句は、天気=けむりのように奥にもあるし手前にもある。奥行きもあれば平面的でもある。それは夜景というスペクタクルにも似ている。(2016/11/21)
●今度の『かばん』2016年12月号の特集が〈描く短歌〉で、そこで特集のチーフをさせていただいたんですね。編集人のながや宏高さんからまず、やぎもとさん、やすふくさんと対談するのはどうでしょう、ってお話があって、以前、とととと展のトークショーのときにやすふくさんがけっこう話し残したことがあったって長いメールをくれたので、これはまた語り残したことを話させてもらうのにいい機会かもしれないなとおもったんです。それで、じゃあ、安福望はいかにして安福望なのか、というひとつのテーマをたててやすふくさんとお話してみました。あ、やすふくさんのすごく昔の絵なんかも載せてもらいました。今回、岡野大嗣さん、久真八志さん、少女幻想共同体さん、唐崎昭子(山中千瀬)さん、東直子さん、光森裕樹さん(五十音順です)に〈絵と短歌〉をめぐる原稿を書いて/描いていただきました。絵と短歌というひとすじなわではいかないテーマにご寄稿くださって感謝しています。今回の『かばん』は初めての試みで、電子出版もされるそうです。全国どこにいても読むことができますので、もしよろしければぜひお読みいただければうれしいです。なんでも入る『かばん』だからこそ、できちゃった企画かもしれません。企画人のながやさん、すごいなと思いました。みなさんにありがとうございました。(2016/11/28)
●さいきん時実新子さんについていろいろ考える機会をいただいたので、ずっと新子さんの本をあれこれ読み返していたんです。そのとき、新子さんの、「わたしは市役所以外で本名を使ったことがありません」という記述にであったんです。この新子というのは筆名なんですね。初めての句会でとっさに、新人であるじぶんとしてつけたのが新子だったそうなんです。ここでおもしろいなと思ったのは、新子さんにとって新子であることは、それが筆名であったように、〈仮構〉とはなにか、を考えるということでもあったのではないかということです。〈仮構〉を一句一句構造として言葉のなかで考えていくことで、相手に伝達する構造をつくりあげることができる。仮構からはじめて、仮構がふりきれるしゅんかんをかんがえる。それが新子さんの川柳だったんじゃないかなとちょっとおもったんです。新子さんは新子さんでありながら新子さんっぽくない場所もたえず志向していたのではないかとおもうんです。ユーフォーに乗ってやってくる未来の読者を。たとえばこんな句。「私ですか ユーフォーを待っている/時実新子」(2016/12/13)
●厳寒の中、欠席した女の子の家にコッペパンとジャムマーガリンとプリントを届けたことがあるのだが、ほんとうにそこまでしてコッペパンをひとは要るのかな、という気持ちも正直あったと思う。家に行くと這うように女の子が出てきて「ありがとう…」と私にチョコをくれてまた這って奥へと戻っていた。(2016/12/27)
- 関連記事
スポンサーサイト
- テーマ:詩・ことば
- ジャンル:小説・文学
- カテゴリ:いままでのこと。