【ふしぎな川柳 第八十三夜】蠅と蠅-野沢省悟-
- 2016/03/05
- 09:30
家庭医学辞典に蝿が寄ってくる 野沢省悟
ああむこう側にいるのかこの蠅はこちら側なら殺せるのにな 木下龍也
ハエをたたきつぶしたところで、ハエの物自体は死にはしない。単にハエの現象をつぶしたばかり。 ショーペンハウエル
【蝿男の恐怖!!!】
蝿、ってなんだろう、ってときどき考えることがあって……、いや、そんなには考えないんです、正直いうとそんなには考えていなかった、でも木下さんの蝿の短歌ってとても印象的だったから蝿ってなんだろうというのはいつもどこかの片隅にはあった。
たしか萩原朔太郎がこのショーペンハウエルの蝿をめぐる言葉を引用しているんですよね。詩集の冒頭かなにかに。
で、蝿の川柳や短歌をみたときに、まず〈蝿〉によってこちらの座標がなんらかのかたちで問われることになるのかなって思うんですね。ショーペンハウエルなら〈わたしの存在座標〉が、木下さんの歌なら〈わたしの空間座標〉が、野沢さんの句なら〈わたしの生の座標〉が。
木下さんの歌では蝿がいることによって〈むこう〉と〈こちら〉をわかつ〈境界線〉がわかるわけですよね。それが「ああ」という出だしの感歎に集約されていると思うんです。〈境界線への気づき〉として「ああ」と呻く。しかもちょっとねじれているのが「むこう」にいる蝿なのに「この蝿」と近接している指示詞が用いられている。そうすると語り手がいくら間近に感じられても〈絶対に〉超えられない境界線をみつけちゃってるのかもしれない。いくら「この」の距離にあっても「むこう」にいるというねじれの境界線を。その座標の分水嶺に「蝿」がいる。
野沢さんの句では「蝿」が「家庭医学辞典」に寄ってくることによって木下さんの歌とは逆に〈むこう〉と〈こちら〉の境界がこわれていってると思うんですよ。「家庭医学辞典」っていわば〈死なない〉ためのものなんだけれど、〈死体〉や〈ゾンビ〉に群がる蝿が寄ってくる。そのとき〈生/死〉の境界がないまぜになる。
そんなふうに考えてみると、蝿って、境界なのかなとおもうんですね。しかも、生/死/殺に関係している。わたしたちの境界をひきずりだしたり、殺意をひっぱりだしたりする。
だから今度観察してみてください。蝿がいたら。蝿を観察するのではなくて、蝿を観察している〈あなた〉を。
蜘蛛の巣のねばりこの世にあるねばり 野沢省悟
クローネンバーグ『ザ・フライ』(1986)。蝿の映画といったらやっぱりこれだと思うんです。物質転送装置の実験中に、蝿がまぎれこんでしまい、科学者の男は、蝿男になってしまう。これも人と動物と非・人との境界を問いかけているとおもうんですよね(考えてみるとホラー映画っていうのは境界映画ですよねすべて。怪物はヒューマニズムを常に問いかけている)。この映画が教えてくれるのは蝿はどんな〈意味的な隙間〉にも入り込むということです。つまり、ソシュール的な安定した意味体系をこわすのが蝿ということになる。
ああむこう側にいるのかこの蠅はこちら側なら殺せるのにな 木下龍也
ハエをたたきつぶしたところで、ハエの物自体は死にはしない。単にハエの現象をつぶしたばかり。 ショーペンハウエル
【蝿男の恐怖!!!】
蝿、ってなんだろう、ってときどき考えることがあって……、いや、そんなには考えないんです、正直いうとそんなには考えていなかった、でも木下さんの蝿の短歌ってとても印象的だったから蝿ってなんだろうというのはいつもどこかの片隅にはあった。
たしか萩原朔太郎がこのショーペンハウエルの蝿をめぐる言葉を引用しているんですよね。詩集の冒頭かなにかに。
で、蝿の川柳や短歌をみたときに、まず〈蝿〉によってこちらの座標がなんらかのかたちで問われることになるのかなって思うんですね。ショーペンハウエルなら〈わたしの存在座標〉が、木下さんの歌なら〈わたしの空間座標〉が、野沢さんの句なら〈わたしの生の座標〉が。
木下さんの歌では蝿がいることによって〈むこう〉と〈こちら〉をわかつ〈境界線〉がわかるわけですよね。それが「ああ」という出だしの感歎に集約されていると思うんです。〈境界線への気づき〉として「ああ」と呻く。しかもちょっとねじれているのが「むこう」にいる蝿なのに「この蝿」と近接している指示詞が用いられている。そうすると語り手がいくら間近に感じられても〈絶対に〉超えられない境界線をみつけちゃってるのかもしれない。いくら「この」の距離にあっても「むこう」にいるというねじれの境界線を。その座標の分水嶺に「蝿」がいる。
野沢さんの句では「蝿」が「家庭医学辞典」に寄ってくることによって木下さんの歌とは逆に〈むこう〉と〈こちら〉の境界がこわれていってると思うんですよ。「家庭医学辞典」っていわば〈死なない〉ためのものなんだけれど、〈死体〉や〈ゾンビ〉に群がる蝿が寄ってくる。そのとき〈生/死〉の境界がないまぜになる。
そんなふうに考えてみると、蝿って、境界なのかなとおもうんですね。しかも、生/死/殺に関係している。わたしたちの境界をひきずりだしたり、殺意をひっぱりだしたりする。
だから今度観察してみてください。蝿がいたら。蝿を観察するのではなくて、蝿を観察している〈あなた〉を。
蜘蛛の巣のねばりこの世にあるねばり 野沢省悟
クローネンバーグ『ザ・フライ』(1986)。蝿の映画といったらやっぱりこれだと思うんです。物質転送装置の実験中に、蝿がまぎれこんでしまい、科学者の男は、蝿男になってしまう。これも人と動物と非・人との境界を問いかけているとおもうんですよね(考えてみるとホラー映画っていうのは境界映画ですよねすべて。怪物はヒューマニズムを常に問いかけている)。この映画が教えてくれるのは蝿はどんな〈意味的な隙間〉にも入り込むということです。つまり、ソシュール的な安定した意味体系をこわすのが蝿ということになる。
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