【ふしぎな川柳 第八十四夜】にんげんの加減-岩田多佳子-
- 2016/03/05
- 14:03
にんげんでいる力加減がわからない 岩田多佳子
【加減ではあくする世界】
現代川柳をみていると、たぶん、川柳っていうのは〈アンチヒューマニズム〉というか、反人間主義だということはわかってくるんです。
現代川柳はあんまり人間人間しているものに興味を示さない。
それよりも、くるぶしとか鹿の肉とかもなかとかコロボックルとかササキサンとか、よくわからないものに愛着をいだく。
ただこの岩田さんの句を通してあらためて考えてみると、単純に〈反人間主義〉っていってもいいのかなあともおもうんです。〈反人間主義〉っていうのはヒューマニズムの反対だから、けっきょくヒューマニズムの土壌でものを考えていることになります。その意味で、反人間主義もヒューマニズムなんです。
この岩田さんの句では「にんげん」とひらがな表記になっているけれど、それは語り手が「人間」をまだうまく把握できていないからです。だから「力加減がわからない」といっている。実際わからないので「にんげん」なんだと思います。
でもこの率直な「わからなさ」っていうのは〈人間〉に対して賛成でも反対でもないことがわかります。〈わからなさ〉っていうのは立場がとれないことだからです。これはたとえば「戦争」で考えてみるとよくわかります。「戦争」に対して督戦のひとも反戦のひとも戦争のことを〈わかっている〉からある立場をとる。でもそれがある意味では「戦争」というフィールドのなかでものを考えている。その意味で戦争という概念は保持されています。でもそこに「せんそう」というものがよく「わからない」ひとがあらわれたらどうなるのか。このとき督戦も反戦もなくなってしまう。もういちど「せんそう」について考えなければならなくなる。
この率直な「わからなさ」。これが現代川柳のダイナミズムではないかとおもうんです。概念を把持しないこと。概念をゼロワンでとらえずに「力加減」としてヴォリュームのレベルでとらえてみる。グラデーション的理解の仕方をもとめる。「にんげん」が「人間」になるしゅんかんを漸近的に求める。それが現代川柳なのではないかとおもうのです。
だから、川柳ってなにかといえば、こんなふうに言ってもいいのかもしれない。それは〈脱概念主義〉だと。あるいは岩田さんの言葉を借りれば、〈概念加減主義〉だと。
美りっ美りっ美りっ お言葉が裂けている 中西軒わ
マイケル・チミノ『ディア・ハンター』(1978)。ベトナム戦争のトラウマを描いた映画なんですが、トラウマってなんだろうって考えたときに〈加減〉がわからなくなることだと思うんです。出力の仕方が暴走してしまう。あるひとはトラウマのまわりで自殺に走るし、あるひとはトラウマのまわりで動き出せなくなってしまう。トラウマによってものごとのヴォリューム調整が変わっていくんです。タイトルは〈ディア・ハンター〉なんだけれど、でもその鹿の狩猟もライフルの意味がトラウマによって変わっちゃうから、鹿の狩猟の意味も変わっちゃうんですね。ベトナム戦争から帰ってきて「にんげんでいる力加減がわからない」ひとたちを正面きって描いたのがこの映画だとおもう。ラストシーンがとくに素晴らしいんですよ。みんなで静かにごはんを食べているんだけれど、その静かさが壊れてしまったあとのものだとわかる。どこまでも壊れたものを引きずって生きていかなければならない。でも生き続けるうちにそうしたささやかな生活のなかで救いは訪れるかもしれない。誰にもわからない。わからないけれどやわらかい音楽が最後に鳴り響いている。
【加減ではあくする世界】
現代川柳をみていると、たぶん、川柳っていうのは〈アンチヒューマニズム〉というか、反人間主義だということはわかってくるんです。
現代川柳はあんまり人間人間しているものに興味を示さない。
それよりも、くるぶしとか鹿の肉とかもなかとかコロボックルとかササキサンとか、よくわからないものに愛着をいだく。
ただこの岩田さんの句を通してあらためて考えてみると、単純に〈反人間主義〉っていってもいいのかなあともおもうんです。〈反人間主義〉っていうのはヒューマニズムの反対だから、けっきょくヒューマニズムの土壌でものを考えていることになります。その意味で、反人間主義もヒューマニズムなんです。
この岩田さんの句では「にんげん」とひらがな表記になっているけれど、それは語り手が「人間」をまだうまく把握できていないからです。だから「力加減がわからない」といっている。実際わからないので「にんげん」なんだと思います。
でもこの率直な「わからなさ」っていうのは〈人間〉に対して賛成でも反対でもないことがわかります。〈わからなさ〉っていうのは立場がとれないことだからです。これはたとえば「戦争」で考えてみるとよくわかります。「戦争」に対して督戦のひとも反戦のひとも戦争のことを〈わかっている〉からある立場をとる。でもそれがある意味では「戦争」というフィールドのなかでものを考えている。その意味で戦争という概念は保持されています。でもそこに「せんそう」というものがよく「わからない」ひとがあらわれたらどうなるのか。このとき督戦も反戦もなくなってしまう。もういちど「せんそう」について考えなければならなくなる。
この率直な「わからなさ」。これが現代川柳のダイナミズムではないかとおもうんです。概念を把持しないこと。概念をゼロワンでとらえずに「力加減」としてヴォリュームのレベルでとらえてみる。グラデーション的理解の仕方をもとめる。「にんげん」が「人間」になるしゅんかんを漸近的に求める。それが現代川柳なのではないかとおもうのです。
だから、川柳ってなにかといえば、こんなふうに言ってもいいのかもしれない。それは〈脱概念主義〉だと。あるいは岩田さんの言葉を借りれば、〈概念加減主義〉だと。
美りっ美りっ美りっ お言葉が裂けている 中西軒わ
マイケル・チミノ『ディア・ハンター』(1978)。ベトナム戦争のトラウマを描いた映画なんですが、トラウマってなんだろうって考えたときに〈加減〉がわからなくなることだと思うんです。出力の仕方が暴走してしまう。あるひとはトラウマのまわりで自殺に走るし、あるひとはトラウマのまわりで動き出せなくなってしまう。トラウマによってものごとのヴォリューム調整が変わっていくんです。タイトルは〈ディア・ハンター〉なんだけれど、でもその鹿の狩猟もライフルの意味がトラウマによって変わっちゃうから、鹿の狩猟の意味も変わっちゃうんですね。ベトナム戦争から帰ってきて「にんげんでいる力加減がわからない」ひとたちを正面きって描いたのがこの映画だとおもう。ラストシーンがとくに素晴らしいんですよ。みんなで静かにごはんを食べているんだけれど、その静かさが壊れてしまったあとのものだとわかる。どこまでも壊れたものを引きずって生きていかなければならない。でも生き続けるうちにそうしたささやかな生活のなかで救いは訪れるかもしれない。誰にもわからない。わからないけれどやわらかい音楽が最後に鳴り響いている。
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