【感想】空席の目立つ車内の隅っこでひとり何かを呟いている青年が背負っているものは手作りのナップサックでそれはわたしの母が作った 岡野大嗣
- 2016/03/06
- 07:29
空席の目立つ車内の隅っこでひとり何かを呟いている青年が背負っているものは手作りのナップサックでそれはわたしの母が作った 岡野大嗣
しかし、古い過去から、人々が死に、さまざまな物が崩壊したあとに、存続するものが何もなくても、ただ匂と味だけは、かよわくはあるが、もっと根強く、もっと形なく、もっと消えずに、もっと忠実に、魂のように、ずっと長いあいだ残っていて、他のすべてのものの廃墟の上に、思いうかべ、待ちうけ、希望し、匂と味のほとんど感知されないほどのわずかなしずくの上に、たわむことなくささえるのだ、回想の巨大な建築を。 プルースト『失われた時を求めて』
【回想の巨大な建築】
この長歌というか短歌のふしぎなところってこれだけ長いにも関わらず骨格となるような主語と述語がうまく抜き出せない、どこにも見つけられないところにあるんじゃないかとおもうんです。
さいしょ、この短歌の主語と述語は、「母が作った」だと思ったんですよ。それがこの歌の骨格だと。あとはすべて飾りというか修飾としてくっついてるだけだと。
でも「母が作った」っていう要約をしてみてもどうも違和感がある。どうもこの歌の主述はそれではないということがわかる。この「母が作った」もなにかの修飾になっているらしい。「ナップサックでそれは」って「ナップサック」の説明としての「母が作った」なので、この「母が作った」も飾りのようなところがあるんですよ。「(母が作った)ナップサック」みたいに。こういう前にあった修飾を思い出したように後ろからくっつけて語っているようにもおもう。
なにか思い出しながら後ろからどんどんくっつけていくかたちで説明して語っているようにおもうんです。
そうするとこの短歌って《骨格がない》のが特徴のような気がするんです。骨抜きされている。骨になる主語と述語を抜き出そうとすると、それがけっきょく〈修飾〉というか〈飾り〉にすぎないことに気がつく。どこにも主語述語がないんです。果て、がないんですよ。いっけん、ありそうなんだけれど。でも取り組むと、消えてしまう。
で、なんでそんなことになっているかというと、さっきも言ったけれど、たぶんこの語り口が〈後説法〉というか、後から後からどんどん思い出しているようにくっつけていく語りだからだとも思うんですよ。
つまり語り始めていくうちにどんどん思い出してしまっている。そしてその思い出していく過程のなかで、《もっと》思いだし始めてしまっている。マドレーヌを口にいれたしゅんかん長い長い回想に入っていったプルーストの『失われた時を求めて』のように。どこまでもだらだらと語りを続けられる構造を語り手は手にいれてしまっている。
ふつう短歌では、誰が《どうした》っていう《述語》が問題になるとおもうんです。そこに焦点がおかれるし、そこが短歌のヤマになるというか、オチにもなるようにおもう。《述語》によって短歌の構造は明確になる。
ところがこの短歌だと「呟いている青年が」とか「それはわたしの母が作った」のように主語と述語が倒錯的になっていて、いつまでも《ほんとうの述語》にたどりつけない。《ほんとうの述語》にたどりつけないことによって《ほんとうの主語》のありかもよくわからない。そういう構造になっているんじゃないかとおもうんです。だからこの短歌には《ヤマ》とか《クライマックス》がないんです、まだ先がある構造なので。
でもそれこそまさに《回想の構造》なんじゃないかとおもうんですよ。どんどんどんどん記憶があふれていくと、なにが述語か主語かもわからなくなるじゃないですか。彼があのときああしたんだけどでもそのとき彼のわきで鹿がわたしをみつめていてでもその鹿にたいしてわたしの父がねらいをさだめていて、みたいなかんじで。
でもそういうどこまでも続けることができる回想の構造でも「母が作った」で終わってしまったことも興味深いとおもうんですよ。そこから先も語ろうと思えば語れるはずだけれど語り手は「母が作った」でやめてしまった。「母」という語が出てきたときに回想構造は打ち止めになる。「父」という権威や意味を与えてくれる象徴記号ではなく、「母」というもっとさまざまな意味をあふれさせる象徴記号がどういうわけか語り手に《終わり》を求めた。
「母」は語りの終わりとして機能している。
ここには〈すべての終わり〉をもたらす類型化されない〈母〉のイメージがあるようにも、おもう。〈母〉と〈終わり〉。そこからたとえば次のような岡野さんの歌も見直すことができるんじゃないだろうか。
母と目が初めて合ったそのときの心でみんな死ねますように 岡野大嗣
宮崎駿『風の谷のナウシカ』(1984)。宮崎アニメーションの〈母親〉ってとても独特で、〈母親〉っぽくない〈母親〉なんですよ。まず、印象が薄い。ナウシカでは母親がほとんど出てこない。母親的なひともいない。でも、印象が薄いのにトラウマ的なんです。ナウシカの回想のなかで母親はすごく冷たい顔をしている。こっちさえみていない。母親が母親として機能していない。むしろ〈死〉や〈終わり〉の領域をたずさえている。たぶん『となりのトトロ』でも母親が病床に臥しているのってその〈母〉のイメージの系譜でもあると思うんです。宮崎アニメーションでは主人公になれば女性はたくましいんだけれど、母親の位置におかれるとむしろ途端に病んでしまう。なぜなんだろう。
しかし、古い過去から、人々が死に、さまざまな物が崩壊したあとに、存続するものが何もなくても、ただ匂と味だけは、かよわくはあるが、もっと根強く、もっと形なく、もっと消えずに、もっと忠実に、魂のように、ずっと長いあいだ残っていて、他のすべてのものの廃墟の上に、思いうかべ、待ちうけ、希望し、匂と味のほとんど感知されないほどのわずかなしずくの上に、たわむことなくささえるのだ、回想の巨大な建築を。 プルースト『失われた時を求めて』
【回想の巨大な建築】
この長歌というか短歌のふしぎなところってこれだけ長いにも関わらず骨格となるような主語と述語がうまく抜き出せない、どこにも見つけられないところにあるんじゃないかとおもうんです。
さいしょ、この短歌の主語と述語は、「母が作った」だと思ったんですよ。それがこの歌の骨格だと。あとはすべて飾りというか修飾としてくっついてるだけだと。
でも「母が作った」っていう要約をしてみてもどうも違和感がある。どうもこの歌の主述はそれではないということがわかる。この「母が作った」もなにかの修飾になっているらしい。「ナップサックでそれは」って「ナップサック」の説明としての「母が作った」なので、この「母が作った」も飾りのようなところがあるんですよ。「(母が作った)ナップサック」みたいに。こういう前にあった修飾を思い出したように後ろからくっつけて語っているようにもおもう。
なにか思い出しながら後ろからどんどんくっつけていくかたちで説明して語っているようにおもうんです。
そうするとこの短歌って《骨格がない》のが特徴のような気がするんです。骨抜きされている。骨になる主語と述語を抜き出そうとすると、それがけっきょく〈修飾〉というか〈飾り〉にすぎないことに気がつく。どこにも主語述語がないんです。果て、がないんですよ。いっけん、ありそうなんだけれど。でも取り組むと、消えてしまう。
で、なんでそんなことになっているかというと、さっきも言ったけれど、たぶんこの語り口が〈後説法〉というか、後から後からどんどん思い出しているようにくっつけていく語りだからだとも思うんですよ。
つまり語り始めていくうちにどんどん思い出してしまっている。そしてその思い出していく過程のなかで、《もっと》思いだし始めてしまっている。マドレーヌを口にいれたしゅんかん長い長い回想に入っていったプルーストの『失われた時を求めて』のように。どこまでもだらだらと語りを続けられる構造を語り手は手にいれてしまっている。
ふつう短歌では、誰が《どうした》っていう《述語》が問題になるとおもうんです。そこに焦点がおかれるし、そこが短歌のヤマになるというか、オチにもなるようにおもう。《述語》によって短歌の構造は明確になる。
ところがこの短歌だと「呟いている青年が」とか「それはわたしの母が作った」のように主語と述語が倒錯的になっていて、いつまでも《ほんとうの述語》にたどりつけない。《ほんとうの述語》にたどりつけないことによって《ほんとうの主語》のありかもよくわからない。そういう構造になっているんじゃないかとおもうんです。だからこの短歌には《ヤマ》とか《クライマックス》がないんです、まだ先がある構造なので。
でもそれこそまさに《回想の構造》なんじゃないかとおもうんですよ。どんどんどんどん記憶があふれていくと、なにが述語か主語かもわからなくなるじゃないですか。彼があのときああしたんだけどでもそのとき彼のわきで鹿がわたしをみつめていてでもその鹿にたいしてわたしの父がねらいをさだめていて、みたいなかんじで。
でもそういうどこまでも続けることができる回想の構造でも「母が作った」で終わってしまったことも興味深いとおもうんですよ。そこから先も語ろうと思えば語れるはずだけれど語り手は「母が作った」でやめてしまった。「母」という語が出てきたときに回想構造は打ち止めになる。「父」という権威や意味を与えてくれる象徴記号ではなく、「母」というもっとさまざまな意味をあふれさせる象徴記号がどういうわけか語り手に《終わり》を求めた。
「母」は語りの終わりとして機能している。
ここには〈すべての終わり〉をもたらす類型化されない〈母〉のイメージがあるようにも、おもう。〈母〉と〈終わり〉。そこからたとえば次のような岡野さんの歌も見直すことができるんじゃないだろうか。
母と目が初めて合ったそのときの心でみんな死ねますように 岡野大嗣
宮崎駿『風の谷のナウシカ』(1984)。宮崎アニメーションの〈母親〉ってとても独特で、〈母親〉っぽくない〈母親〉なんですよ。まず、印象が薄い。ナウシカでは母親がほとんど出てこない。母親的なひともいない。でも、印象が薄いのにトラウマ的なんです。ナウシカの回想のなかで母親はすごく冷たい顔をしている。こっちさえみていない。母親が母親として機能していない。むしろ〈死〉や〈終わり〉の領域をたずさえている。たぶん『となりのトトロ』でも母親が病床に臥しているのってその〈母〉のイメージの系譜でもあると思うんです。宮崎アニメーションでは主人公になれば女性はたくましいんだけれど、母親の位置におかれるとむしろ途端に病んでしまう。なぜなんだろう。
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