【ふしぎな川柳 第八十五夜】ラスト・オブ・ニッポン-川合大祐-
- 2016/03/06
- 13:02
兄弟よわたしは한が読めません 川合大祐
【一歩手前でたちずさんで】
この「한(ハン)」っていう字は《長い時間のなかで堆積された気持ち》をあらわす韓国語らしいんですが、「読めません」という時にそういう《長い時間における感情》がいったんシャットダウンされるのかなとも思うんですよね。時間が無化されて、言語的共有もできないなかで、それでも「兄弟よ」と呼びかける《連帯しようのない連帯》がここにはある。
それって《非理解》や《無理解》から始まる連帯だともおもうんです。《空(くう)の連帯》というか。今までの歴史的コンテクストをあえて捨てるみぶりをすることで、《つながったふり》をやめてしまう。やめながらそれでも「兄弟よ」と呼びかけるときにどういう《連帯》のしかたが残されているのか。
これって偶然だけれどもさきほどの記事の池田澄子さんの《他人性》からのつながりともちょっと似ているように思うんです。いったん関係性をゼロにしてちゃらにしてからそれでもあなたとどうつながることができるのかをさぐりあうという。
この川合さんの句でふしぎなのが、「한が読めません」と言いながら、「한」を発話してしまっている点です。これはどういうことなんでしょうか。
これって《意味の連帯》をあなたと組まないってことなんじゃないかと思うんです。もしこの字を読むことができたらそこには《意味の共同体》が生まれる。でもこの字を発話しつつも「読めません」と発話することによって意味になる一歩手前であなたと向き合うことができる。さっきの池田さんの句なら、「夫」を「夫」としないで「他人」という〈夫一歩手前〉で考えてみるということです。
そういう意味をからぶりさせるためには「한」でなければたぶんだめなんだと思います。★や●の記号であってはならない。それは読むためのものではないから。でも、 grief などの英語であってもいけない。読めてしまうから。「한」は見て韓国語だということはわかる。でも読めるひとは少ない。この一歩手前の感覚であいてとどうつながるかを考えることが大事なのかなっておもうんです。
どうやってふだん使い慣れすぎてしまっている言葉をからからに無化してからぶりさせるかということが大事なきがするんです。新しいつながりへのきっかけとして。
石器より不便なものとして言葉 川合大祐
デレク・ジャーマン『ラスト・オブ・イングランド』(1987)。ジャーマンは『ウィトゲンシュタイン』という言語哲学者のウィトゲンシュタインを映画化したものもあるけれど、それを考えてもわかるように〈言語がからぶりする身振り〉を考えていた映画監督のようにも思うんです。言葉が読めません、という状態から始めてみる。この『ラスト・オブ・イングランド』は過激な映像が氾濫してともかく言語化できずに映画ってなんだろうって思わせる映画なんだけれども、そういう「読めません」「観られません」という言葉にふさわしい映画のように思うんです。そういう「한」みたいな映画があるということ。
【一歩手前でたちずさんで】
この「한(ハン)」っていう字は《長い時間のなかで堆積された気持ち》をあらわす韓国語らしいんですが、「読めません」という時にそういう《長い時間における感情》がいったんシャットダウンされるのかなとも思うんですよね。時間が無化されて、言語的共有もできないなかで、それでも「兄弟よ」と呼びかける《連帯しようのない連帯》がここにはある。
それって《非理解》や《無理解》から始まる連帯だともおもうんです。《空(くう)の連帯》というか。今までの歴史的コンテクストをあえて捨てるみぶりをすることで、《つながったふり》をやめてしまう。やめながらそれでも「兄弟よ」と呼びかけるときにどういう《連帯》のしかたが残されているのか。
これって偶然だけれどもさきほどの記事の池田澄子さんの《他人性》からのつながりともちょっと似ているように思うんです。いったん関係性をゼロにしてちゃらにしてからそれでもあなたとどうつながることができるのかをさぐりあうという。
この川合さんの句でふしぎなのが、「한が読めません」と言いながら、「한」を発話してしまっている点です。これはどういうことなんでしょうか。
これって《意味の連帯》をあなたと組まないってことなんじゃないかと思うんです。もしこの字を読むことができたらそこには《意味の共同体》が生まれる。でもこの字を発話しつつも「読めません」と発話することによって意味になる一歩手前であなたと向き合うことができる。さっきの池田さんの句なら、「夫」を「夫」としないで「他人」という〈夫一歩手前〉で考えてみるということです。
そういう意味をからぶりさせるためには「한」でなければたぶんだめなんだと思います。★や●の記号であってはならない。それは読むためのものではないから。でも、 grief などの英語であってもいけない。読めてしまうから。「한」は見て韓国語だということはわかる。でも読めるひとは少ない。この一歩手前の感覚であいてとどうつながるかを考えることが大事なのかなっておもうんです。
どうやってふだん使い慣れすぎてしまっている言葉をからからに無化してからぶりさせるかということが大事なきがするんです。新しいつながりへのきっかけとして。
石器より不便なものとして言葉 川合大祐
デレク・ジャーマン『ラスト・オブ・イングランド』(1987)。ジャーマンは『ウィトゲンシュタイン』という言語哲学者のウィトゲンシュタインを映画化したものもあるけれど、それを考えてもわかるように〈言語がからぶりする身振り〉を考えていた映画監督のようにも思うんです。言葉が読めません、という状態から始めてみる。この『ラスト・オブ・イングランド』は過激な映像が氾濫してともかく言語化できずに映画ってなんだろうって思わせる映画なんだけれども、そういう「読めません」「観られません」という言葉にふさわしい映画のように思うんです。そういう「한」みたいな映画があるということ。
- 関連記事
スポンサーサイト
- テーマ:読書感想文
- ジャンル:小説・文学
- カテゴリ:ふしぎな川柳-川柳百物語拾遺-