【感想】やれそうと思われたのは悔しいが事実やったんだからまあいい 佐藤真由美
- 2016/03/07
- 13:00
やれそうと思われたのは悔しいが事実やったんだからまあいい 佐藤真由美
【裏切りの連鎖】
この短歌を加藤治郎さんが解説で「棒で殴られたような感じがする」と書かれていたんですが(加藤治郎「現代の恋歌-仮想題詠によるアンソロジー」『國文學』2006・8)、この「棒で殴られたような感じ」ってこの歌の語り手がもっている「まあいい」という〈ひらきなおり〉のようなものだけでなくて、この歌がもっている〈前後する時間構造〉にもあるような気がするんです。
「やれそうと思われたのは悔しい」でまず読者は〈やる前〉の時間を手渡されるわけです。どうして語り手が「悔し」がっているかというとそんなかんたんに「やれそう」な人間に見えた・思われたのがしゃくにさわったわけですよね。そんなかんたんに「やれ」る人間ではないんだと。
ここに流れている時間って〈やる前〉の時間だとおもうんですね。〈やる前〉の時間のなかで「悔し」がっている。「悔しい」んだから、「やらないはずだろう」と読者は無意識に思う。そんな〈やる前〉の時間をセットアップしているとおもうんです、語り手が。相手は「やる」段階に入ってるけれど、わたしの時間として「やる/やらない」以前の時間のなかにいるんだと。
ところがこれが下の句に入るととつぜんそのセットアップされた時間に投げ飛ばされるというか、この語りが実は「やった」後のものだとわかるんですよ。
「やれそうと思われたのは悔しい」で読者はこの語りの時間が「やる前」のものだと思っているんだけれど、ところが下の句でこれが「やった後」から語られたものだとわかる。「やったんだから」で。
だからこれって読者が〈時間を裏切られる歌〉なんじゃないかと思うんですよ。語り手は「やれそう」と思われたことによって相手から裏切られている(「やれそうなにんげんじゃないんだ!」)。で、読者は「やってなさそう」と思ったことによって語り手から裏切られている(「やってたのか!」)。
そういう裏切りの連鎖のようなものがこの歌のおもしろさにあるように、おもう。
恋愛をめぐるシーンって〈時間〉の感覚がおどろくほどにSF的になるんではないでしょうか。きづけばもうはじまっている、というかんじで。
こわくってためらっておりもうすでにはじまっている夏の木蔭で 干場しおり
今敏『千年女優』(2002)。時空を駆け巡っていろんな場所でいろんなかたちで恋を繰り返す女のひとの物語なんですが、〈恋愛〉ってそんなふうに脱歴史的というか、時空を歪ませる行為なんじゃないかっていうのがアニメーションで幻想的に描かれている映画なんじゃないかと思うんです。誰かひとりのひとを好きになってしまったときに縦としての時間の流れや横としての同時代の時間軸が意味をなさなくなってしまう。でもこの映画がおもしろいのはタイトルにあるようにあくまでそれは〈女優的な身振り〉かもしれないという、恋愛におけるフィクションというか、仮構性の視点も用意しているところです。どれだけ長いあいだ恋愛をしてもどれはフィクショナルな身振りで歴史の厚みをもてないかもしれない。歴史と恋愛はどう折り合いをつけるのか。
【裏切りの連鎖】
この短歌を加藤治郎さんが解説で「棒で殴られたような感じがする」と書かれていたんですが(加藤治郎「現代の恋歌-仮想題詠によるアンソロジー」『國文學』2006・8)、この「棒で殴られたような感じ」ってこの歌の語り手がもっている「まあいい」という〈ひらきなおり〉のようなものだけでなくて、この歌がもっている〈前後する時間構造〉にもあるような気がするんです。
「やれそうと思われたのは悔しい」でまず読者は〈やる前〉の時間を手渡されるわけです。どうして語り手が「悔し」がっているかというとそんなかんたんに「やれそう」な人間に見えた・思われたのがしゃくにさわったわけですよね。そんなかんたんに「やれ」る人間ではないんだと。
ここに流れている時間って〈やる前〉の時間だとおもうんですね。〈やる前〉の時間のなかで「悔し」がっている。「悔しい」んだから、「やらないはずだろう」と読者は無意識に思う。そんな〈やる前〉の時間をセットアップしているとおもうんです、語り手が。相手は「やる」段階に入ってるけれど、わたしの時間として「やる/やらない」以前の時間のなかにいるんだと。
ところがこれが下の句に入るととつぜんそのセットアップされた時間に投げ飛ばされるというか、この語りが実は「やった」後のものだとわかるんですよ。
「やれそうと思われたのは悔しい」で読者はこの語りの時間が「やる前」のものだと思っているんだけれど、ところが下の句でこれが「やった後」から語られたものだとわかる。「やったんだから」で。
だからこれって読者が〈時間を裏切られる歌〉なんじゃないかと思うんですよ。語り手は「やれそう」と思われたことによって相手から裏切られている(「やれそうなにんげんじゃないんだ!」)。で、読者は「やってなさそう」と思ったことによって語り手から裏切られている(「やってたのか!」)。
そういう裏切りの連鎖のようなものがこの歌のおもしろさにあるように、おもう。
恋愛をめぐるシーンって〈時間〉の感覚がおどろくほどにSF的になるんではないでしょうか。きづけばもうはじまっている、というかんじで。
こわくってためらっておりもうすでにはじまっている夏の木蔭で 干場しおり
今敏『千年女優』(2002)。時空を駆け巡っていろんな場所でいろんなかたちで恋を繰り返す女のひとの物語なんですが、〈恋愛〉ってそんなふうに脱歴史的というか、時空を歪ませる行為なんじゃないかっていうのがアニメーションで幻想的に描かれている映画なんじゃないかと思うんです。誰かひとりのひとを好きになってしまったときに縦としての時間の流れや横としての同時代の時間軸が意味をなさなくなってしまう。でもこの映画がおもしろいのはタイトルにあるようにあくまでそれは〈女優的な身振り〉かもしれないという、恋愛におけるフィクションというか、仮構性の視点も用意しているところです。どれだけ長いあいだ恋愛をしてもどれはフィクショナルな身振りで歴史の厚みをもてないかもしれない。歴史と恋愛はどう折り合いをつけるのか。
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