【感想】どんなにか疲れただろうたましいを支えつづけてその観覧車 井上法子
- 2016/03/07
- 17:30
どんなにか疲れただろうたましいを支えつづけてその観覧車 井上法子
【世界への慰労】
井上法子さんの短歌を山田航さんが「「異なるもの」との対話を図るときの、「巫女」「シャーマン」の文体ということなのかもしれない」と解説されていて、たしかにモノや世界との会話がなんというか屈託がないんですね。すっ、と会話してしまう。ナチュラルに。
で、ですね。モノと会話しているというよりも、もっと踏み込んで、この「観覧車」の短歌によくあらわれていると思うんですが、モノを《慰労》している感じにちかいとおもうんです。
世界はあらかじめ痛み、軋んでいる。だから、慰撫し、慰労しなければならない。ひとではなく、モノを。
『風の谷のナウシカ』でみんなが瀕死のウシアブにおびえるなか、ナウシカだけが「だいじょうぶ」って《ひとに》ではなく《ウシアブに》話しかけていたけれど、その感覚に近いのかなともおもうんです。
で、「だいじょうぶ」って話しかけられるということは、ナウシカとウシアブのあいだではコミュニケーションコードが成立しているっていうことなんですよね。そのコード(やり方)は誰にもわからないんだけれど、両者にはわかる。たとえばナウシカがそうしてるのをみて、それが中世だったならばひとは「この女は魔女だ」というかもしれないし、近代だったらばひとは「彼女は昆虫学者だ」というかもしれない。それはコミュニケーションコードが隠れてるからです。
で、井上さんの短歌もそうした《隠れたコミュニケーションコード》があるようにおもう。たとえば「観覧車」とコミュニケーションするための枠組みです。でもそれは一般に流通している辞書や文法書にはないから、神話的枠組みというか《神話思考》なのかなとも思うんです。神話レベルにすればひとは風や山や火や世界に語りかけることができる。
井上さんの、
煮えたぎる鍋を見すえて だいじょうぶ これは永遠でないほうの火 井上法子
も、これは《ひとに》話しかけているよりも、《人類に》話しかけているきがするんですね。なんでかっていうと、「永遠」というレベルがでてきて、「永遠」に匹敵する対象として《個人》ではなく《人類》がでてくるようにも思うんですよ。
で、「永遠の火」があることを語り手は少なくとも知っているわけです。だから「これは永遠でないほうの火」ということもわかる。で、もしこれが「永遠の火」だった場合、「だいじょうぶ」じゃないことが起こる。たぶん、人類のこれからに関わってくるような。だから、そうじゃないよ、と安心させている。でもそうじゃないよと安心させながらも、どこかに「永遠の火」があることもわからせている。
これもある意味で、人類への慰労の歌だとおもうんです。モノとはちょっと違うけれど、大きな集合体への慰労です。
こういう《世界への慰労》という視点が、さらに特異になってくるのは、《ほんとうに》世界が傷ついたときだとおもうんです。
世界が傷ついたときに、《ひとから考える世界》ではなく、《世界から考える世界》というちがった視点をもたらしてくる。
魚たちこわくはないよひるがえす汚水をひかりだらけと云って 井上法子
宮崎駿『パンダコパンダ』(1972)。『パンダコパンダ』って今観るとちょっとこわい話で、人類が死に絶えたらどうなるんだろうっていう寓話に見えなくもないんです。家が水没したりもするし。ただ全体的に宮崎アニメを観てもたえず《人類が滅亡したらどうなるんだろう》っていう予期が喚起されてると思うんです。それって裏返しにしてみれば、パンダやトトロや王蟲や猫や蛙や炎と話ができる世界だからだとも思うんですね。それは現世とはちがったもうひとつの世界のありかたなので。でもそのときにじゃあ最後の『風立ちぬ』はそういうパンダやトトロや王蟲や猫と会話することができなくなってしまったひとりの男の物語ととらえることもできるんじゃないかともおもうんです。
【世界への慰労】
井上法子さんの短歌を山田航さんが「「異なるもの」との対話を図るときの、「巫女」「シャーマン」の文体ということなのかもしれない」と解説されていて、たしかにモノや世界との会話がなんというか屈託がないんですね。すっ、と会話してしまう。ナチュラルに。
で、ですね。モノと会話しているというよりも、もっと踏み込んで、この「観覧車」の短歌によくあらわれていると思うんですが、モノを《慰労》している感じにちかいとおもうんです。
世界はあらかじめ痛み、軋んでいる。だから、慰撫し、慰労しなければならない。ひとではなく、モノを。
『風の谷のナウシカ』でみんなが瀕死のウシアブにおびえるなか、ナウシカだけが「だいじょうぶ」って《ひとに》ではなく《ウシアブに》話しかけていたけれど、その感覚に近いのかなともおもうんです。
で、「だいじょうぶ」って話しかけられるということは、ナウシカとウシアブのあいだではコミュニケーションコードが成立しているっていうことなんですよね。そのコード(やり方)は誰にもわからないんだけれど、両者にはわかる。たとえばナウシカがそうしてるのをみて、それが中世だったならばひとは「この女は魔女だ」というかもしれないし、近代だったらばひとは「彼女は昆虫学者だ」というかもしれない。それはコミュニケーションコードが隠れてるからです。
で、井上さんの短歌もそうした《隠れたコミュニケーションコード》があるようにおもう。たとえば「観覧車」とコミュニケーションするための枠組みです。でもそれは一般に流通している辞書や文法書にはないから、神話的枠組みというか《神話思考》なのかなとも思うんです。神話レベルにすればひとは風や山や火や世界に語りかけることができる。
井上さんの、
煮えたぎる鍋を見すえて だいじょうぶ これは永遠でないほうの火 井上法子
も、これは《ひとに》話しかけているよりも、《人類に》話しかけているきがするんですね。なんでかっていうと、「永遠」というレベルがでてきて、「永遠」に匹敵する対象として《個人》ではなく《人類》がでてくるようにも思うんですよ。
で、「永遠の火」があることを語り手は少なくとも知っているわけです。だから「これは永遠でないほうの火」ということもわかる。で、もしこれが「永遠の火」だった場合、「だいじょうぶ」じゃないことが起こる。たぶん、人類のこれからに関わってくるような。だから、そうじゃないよ、と安心させている。でもそうじゃないよと安心させながらも、どこかに「永遠の火」があることもわからせている。
これもある意味で、人類への慰労の歌だとおもうんです。モノとはちょっと違うけれど、大きな集合体への慰労です。
こういう《世界への慰労》という視点が、さらに特異になってくるのは、《ほんとうに》世界が傷ついたときだとおもうんです。
世界が傷ついたときに、《ひとから考える世界》ではなく、《世界から考える世界》というちがった視点をもたらしてくる。
魚たちこわくはないよひるがえす汚水をひかりだらけと云って 井上法子
宮崎駿『パンダコパンダ』(1972)。『パンダコパンダ』って今観るとちょっとこわい話で、人類が死に絶えたらどうなるんだろうっていう寓話に見えなくもないんです。家が水没したりもするし。ただ全体的に宮崎アニメを観てもたえず《人類が滅亡したらどうなるんだろう》っていう予期が喚起されてると思うんです。それって裏返しにしてみれば、パンダやトトロや王蟲や猫や蛙や炎と話ができる世界だからだとも思うんですね。それは現世とはちがったもうひとつの世界のありかたなので。でもそのときにじゃあ最後の『風立ちぬ』はそういうパンダやトトロや王蟲や猫と会話することができなくなってしまったひとりの男の物語ととらえることもできるんじゃないかともおもうんです。
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