【感想】シャツに触れる乳首が痛く、男子として男子として泣いてしまいそうだ しんくわ
- 2016/03/08
- 12:30
シャツに触れる乳首が痛く、男子として男子として泣いてしまいそうだ しんくわ
【厭な感触の発見】
山田航さんの『桜前線開架宣言』でしんくわさんの短歌をまとまったかたちで読むことができるんですが、しんくわさんの短歌のおもしろさのひとつに〈厭な感触の発見〉というのがあるようにおもうんですよ。
うえの歌も、「シャツに触れる乳首」というどくとくの〈厭な感触〉です。わかるひとはわかるのだし、わからないひとはわからないのだし、理解しようとするひとはするだろうし、しないひとはしないだろうという、そういうあらゆる線をひっぱっていくような〈厭な感触〉。たとえば、
ぬばたまの夜のプールの水中で靴下を脱ぐ 童貞だった しんくわ
冷やされた郵便配達人の手を温めるオスセイウチの脇のぬくもり 〃
水中で脱ぐ靴下の感触。オウセイウチの脇のぬくもりの感触。
山田さんがしんくわさんの短歌を〈余韻の排除〉という視点から構造的に解説されていて興味深かったんですが、その〈余韻の排除〉ということで考えてみると、わたしはこうした〈厭な感触〉がイメージの生成を強力に誘いかけながらも、生理的に拒絶させるという〈厭な感触をめぐる反イメージの磁場〉みたいなものがあるのではないかとおもいます。
なんというんでしょうか、みたくないけれどみたい、さわりたくないけれどさわりたい、思い出したくないけれど思い出す、というそういう〈反イメージ力〉みたいなものってありますよね。牛乳をあたためるとできる膜のような。クリステヴァが述べたような、おぞましいけれど魅惑的なものが。
そういうものがどくとくのイメージの弾力をつくっているのではないかとおもうんです。いやだけれど、なぜかイメージできてしまう。手をつっこんだことはないけれど、なぜか「オスセイウチの脇のぬくもり」をわたしは知っているようなきがする。それはわたしのなかの〈厭〉なぶぶんなのかもしれない。
猫のいない日々にも慣れてこの気持ちをあの脚本家と共有したい しんくわ
アニメ『ギャグマンガ日和』(2005)。『ギャグマンガ日和』のオープニング曲の歌詞っておもしろくて、で、終わらない歌があるんですよ。「僕等の明日の光の先の瞳の奥の大空の下の夢の扉の輝きの涙の力の心のカギの永久の自由の果ての約束の手の油ギャグマンガ日和」ってずっと「の」の助詞でつないでいく。さいご「油」で終わって、ここまでたたみかけておいて「油なのか」っておもうわけですね。山田さんは助詞の「だ」が余韻を排除すると解説されていたんだけれど、助詞の「の」も偏執的に続けていくことでよくわからない次元に突入していく。むしろ、〈余韻の過剰供給〉みたいになるのかもしれません。
【厭な感触の発見】
山田航さんの『桜前線開架宣言』でしんくわさんの短歌をまとまったかたちで読むことができるんですが、しんくわさんの短歌のおもしろさのひとつに〈厭な感触の発見〉というのがあるようにおもうんですよ。
うえの歌も、「シャツに触れる乳首」というどくとくの〈厭な感触〉です。わかるひとはわかるのだし、わからないひとはわからないのだし、理解しようとするひとはするだろうし、しないひとはしないだろうという、そういうあらゆる線をひっぱっていくような〈厭な感触〉。たとえば、
ぬばたまの夜のプールの水中で靴下を脱ぐ 童貞だった しんくわ
冷やされた郵便配達人の手を温めるオスセイウチの脇のぬくもり 〃
水中で脱ぐ靴下の感触。オウセイウチの脇のぬくもりの感触。
山田さんがしんくわさんの短歌を〈余韻の排除〉という視点から構造的に解説されていて興味深かったんですが、その〈余韻の排除〉ということで考えてみると、わたしはこうした〈厭な感触〉がイメージの生成を強力に誘いかけながらも、生理的に拒絶させるという〈厭な感触をめぐる反イメージの磁場〉みたいなものがあるのではないかとおもいます。
なんというんでしょうか、みたくないけれどみたい、さわりたくないけれどさわりたい、思い出したくないけれど思い出す、というそういう〈反イメージ力〉みたいなものってありますよね。牛乳をあたためるとできる膜のような。クリステヴァが述べたような、おぞましいけれど魅惑的なものが。
そういうものがどくとくのイメージの弾力をつくっているのではないかとおもうんです。いやだけれど、なぜかイメージできてしまう。手をつっこんだことはないけれど、なぜか「オスセイウチの脇のぬくもり」をわたしは知っているようなきがする。それはわたしのなかの〈厭〉なぶぶんなのかもしれない。
猫のいない日々にも慣れてこの気持ちをあの脚本家と共有したい しんくわ
アニメ『ギャグマンガ日和』(2005)。『ギャグマンガ日和』のオープニング曲の歌詞っておもしろくて、で、終わらない歌があるんですよ。「僕等の明日の光の先の瞳の奥の大空の下の夢の扉の輝きの涙の力の心のカギの永久の自由の果ての約束の手の油ギャグマンガ日和」ってずっと「の」の助詞でつないでいく。さいご「油」で終わって、ここまでたたみかけておいて「油なのか」っておもうわけですね。山田さんは助詞の「だ」が余韻を排除すると解説されていたんだけれど、助詞の「の」も偏執的に続けていくことでよくわからない次元に突入していく。むしろ、〈余韻の過剰供給〉みたいになるのかもしれません。
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