【感想】鮭の死を米で包んでまたさらに海苔で包んだあれが食べたい 木下龍也
- 2016/03/08
- 13:00
鮭の死を米で包んでまたさらに海苔で包んだあれが食べたい 木下龍也
木下龍也の短歌のほとんどは一貫して「死」をテーマとし続けている。それも単なる死ではなく、記号的な死、誰の記憶にも残してもらえない死、メディアに消費されるだけの死というイメージが氾濫する。 山田航『桜前線開架宣言』
【「あれ」の詩学/死学】
木下さんの学研ウェブマガジン連載の「笑ってるけどたぶん折れてる」って面白いタイトルだなあって思ってたんですが、山田さんの指摘をうけてあらためて考えてみると、ひとつの〈緩慢な死〉のようにも思えるんですよね。
じぶんの意志では〈笑う〉ことはできるんだけれど、でもその意志とは無関係にボディはダメージを受けている。じぶんがどれだけ自由意志をもっていたとしても、死ぬかもしれないっていう。
なんかそんなふうに〈死〉や〈ダメージ〉が〈状況の屈折〉として理解される状況。それが木下さんの短歌における〈死のイメージ〉なのかなともちょっとおもったんです。
で、うえのおにぎりの歌も、死が剥き出しで出てくるというよりは、さまざまな環境に包含されたうえでパッケージングされた〈死〉として出てくる。これってひとつの〈メディア論〉にもなっているんじゃないかとも思うんですよ。
いくつもの手に撫でられて少年はようやく父の死を理解する 木下龍也
わたしたちは〈死〉になかなか出会えない。〈死〉にであうまえに、まずメディアがある。新聞があり、映像があり、ニュースがあり、物語があり、網膜があり、記憶があり、意味がある。
でもその一方で剥き出しの死が、「鮭の死」という核(コア)があることもどこかで知っている。知ってはいるけれど、それを〈語る〉ときには「おにぎり」という物語を通過しなければならない。
そんなふうな歌なのかなともちょっとおもうんです。
で、そのときにこの歌の「あれ」って大きいなと思うんです。ニュースや新聞記事、報道で「あれ」って言うのは許されないですよね。正確さを求められるから。大きな事故、たくさんの人間が死亡すればするほどそこには正確さが求められる。「あれ」という言葉はタブーです。
でも、〈死〉って「あれ」としかいいがたい、言葉にしがたい〈剥き出し〉な部分がある。どんなことばをもってしてもパッケージングできないような。
そのときひとは死に対して「あれ」としかいえないんじゃないかとおもうんですよ。名前をあたえることができない。その死がつよすぎて。数も名詞も意味も与えられない。
その「あれ」を強く喚起すること。これがこの歌の強度なのかなともおもうんです。
飛び降りて死ねない鳥があの窓と決めて速度を上げてゆく午後 木下龍也
ヒッチコック『ハリーの災難』(1955)。とつぜん死体が出現して、その死体をめぐってみんなが〈自分が殺したのかもしれない〉と死体を隠したり埋めたりする、そういうちょっとブラックな〈間違いの喜劇〉のような変わったおもしろい映画なんですが、おもしろいのは〈死〉はいったい誰のものなのかっていうのがテーマとして浮かび上がってくることなんじゃないかと思うんです。『サイコ』でもそうだったけれど、たとえば誰かを殺したとしてもその犯人がもともとのとは別の人格で殺したのだったらそのひとが奪った死にはならないわけです。で、死ってそんなふうに誤配されるというか、ずっと還流していく場合がある。でもボディはかたくなにそこにある。死ってそういう言語と身体の境界線でつねに誰のものになるのかを問いかけている気がする。たぶん、玉川上水に沈んだ太宰治のボディもいまだにそういう境界線にあるうおうな気がするんです。
木下龍也の短歌のほとんどは一貫して「死」をテーマとし続けている。それも単なる死ではなく、記号的な死、誰の記憶にも残してもらえない死、メディアに消費されるだけの死というイメージが氾濫する。 山田航『桜前線開架宣言』
【「あれ」の詩学/死学】
木下さんの学研ウェブマガジン連載の「笑ってるけどたぶん折れてる」って面白いタイトルだなあって思ってたんですが、山田さんの指摘をうけてあらためて考えてみると、ひとつの〈緩慢な死〉のようにも思えるんですよね。
じぶんの意志では〈笑う〉ことはできるんだけれど、でもその意志とは無関係にボディはダメージを受けている。じぶんがどれだけ自由意志をもっていたとしても、死ぬかもしれないっていう。
なんかそんなふうに〈死〉や〈ダメージ〉が〈状況の屈折〉として理解される状況。それが木下さんの短歌における〈死のイメージ〉なのかなともちょっとおもったんです。
で、うえのおにぎりの歌も、死が剥き出しで出てくるというよりは、さまざまな環境に包含されたうえでパッケージングされた〈死〉として出てくる。これってひとつの〈メディア論〉にもなっているんじゃないかとも思うんですよ。
いくつもの手に撫でられて少年はようやく父の死を理解する 木下龍也
わたしたちは〈死〉になかなか出会えない。〈死〉にであうまえに、まずメディアがある。新聞があり、映像があり、ニュースがあり、物語があり、網膜があり、記憶があり、意味がある。
でもその一方で剥き出しの死が、「鮭の死」という核(コア)があることもどこかで知っている。知ってはいるけれど、それを〈語る〉ときには「おにぎり」という物語を通過しなければならない。
そんなふうな歌なのかなともちょっとおもうんです。
で、そのときにこの歌の「あれ」って大きいなと思うんです。ニュースや新聞記事、報道で「あれ」って言うのは許されないですよね。正確さを求められるから。大きな事故、たくさんの人間が死亡すればするほどそこには正確さが求められる。「あれ」という言葉はタブーです。
でも、〈死〉って「あれ」としかいいがたい、言葉にしがたい〈剥き出し〉な部分がある。どんなことばをもってしてもパッケージングできないような。
そのときひとは死に対して「あれ」としかいえないんじゃないかとおもうんですよ。名前をあたえることができない。その死がつよすぎて。数も名詞も意味も与えられない。
その「あれ」を強く喚起すること。これがこの歌の強度なのかなともおもうんです。
飛び降りて死ねない鳥があの窓と決めて速度を上げてゆく午後 木下龍也
ヒッチコック『ハリーの災難』(1955)。とつぜん死体が出現して、その死体をめぐってみんなが〈自分が殺したのかもしれない〉と死体を隠したり埋めたりする、そういうちょっとブラックな〈間違いの喜劇〉のような変わったおもしろい映画なんですが、おもしろいのは〈死〉はいったい誰のものなのかっていうのがテーマとして浮かび上がってくることなんじゃないかと思うんです。『サイコ』でもそうだったけれど、たとえば誰かを殺したとしてもその犯人がもともとのとは別の人格で殺したのだったらそのひとが奪った死にはならないわけです。で、死ってそんなふうに誤配されるというか、ずっと還流していく場合がある。でもボディはかたくなにそこにある。死ってそういう言語と身体の境界線でつねに誰のものになるのかを問いかけている気がする。たぶん、玉川上水に沈んだ太宰治のボディもいまだにそういう境界線にあるうおうな気がするんです。
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