【感想】たとえば火事の記憶 たとえば水仙の切り花 少し痩せたね君は 服部真里子
- 2016/03/08
- 13:30
たとえば火事の記憶 たとえば水仙の切り花 少し痩せたね君は 服部真里子
片岡くんが会いませんかと言う
会いませんか こんど
あ、あ、あい、あいませんか、あい、あ
と言うので、はいと言った
片岡くんは、くまもと県の生まれである
私はけっこんしたばかりであった
片岡くん、やせたね
と言うと
十キロ、と言った
ベストです、と言った
片岡くん、やせたね
頬、こけてるよ
私はつまらないことばかり言ってしまうので
だまってしまった
小池昌代「夕日」『永遠に来ないバス』
【関係の吃音化】
相手への「痩せたね」って発話ってあるどくとくの位相をもっているんじゃないかなとおもうんですね。
それをたった一言はっするだけで、そのひととの関係が浮き彫りになるっていう。
前から小池さんの詩のなかの「やせたね」ってひとことがとても印象的でよくこの詩のことを思い出していたんですが、今回、山田航さんの『桜前線開架宣言』のなかの服部さんの歌でとても印象的な「痩せたね」の使われ方がなされていて、あらためて「痩せたね」ってなんだろうとおもったんです。
で、ですね。まず「痩せたね」っていうのは時間幅がある言葉ですよね。〈痩せる前のあなた〉と〈痩せた後のあなた〉をわたしは知っているという時間のはばをもったことばです。その時間幅をわたしとあなたがこの「痩せたね」で共有することになる。とりあえずは、です。
ところがおもしろいのは、「痩せたね」ってことばには、そのひとが〈痩せていくプロセスをわたしは目撃できなかった〉っていう意味も含まれているんですよ。
つまり、時間幅を共有していながらも、その時間の流れを共有できなかったこともこのひとことには含まれている。つまり、共有というよりも、これは分有というような事態です。
その過去と現在のあなたとの時間の分け合い方のようなものがこの「痩せたね」には含まれているとおもう。だから、親密ではないんですよ。でも「痩せたね」と相手に率直にいえる程度には親密なんです。
そうすると、どうして小池さんの詩では、片岡くんが〈吃音〉なのか、どうして服部さんの歌では「たとえば」「たとえば」と〈率直さ〉を失ってしまってある意味で〈レトリックの吃音構造〉になっているのかがちょっとわかってくるようにもおもうんです。
つまり、あなたとわたしのあいだの〈距離感〉がまだ〈わたし〉には《つかめていない》のだと。これから親しくなるのかもしれないし、いま親しいのかもしれないし、ぜんぜん親しくないのかもしれないし、なんにもないまま別れるかもしれないし。そういう親しさをめぐる緊張感のようなものがここにはあるのではないかとおもうんですよ。
ちなみにですね、逆に「太ったね」はどうでしょうか。これは「親しさ」をめぐる発話ではなくて、「失礼」をめぐる発話になってくるとおもうんですね。ええと、
飲みほしたアキ缶をころん、と捨てると
さみしいヒトガラが棒立ちになって残る
飲みくだしてしまった片岡くんと
飲んでいない私がゆっくり向き合う
太陽はビルの背中をこがして
みしみし、西空へしずみかけている
約束してしまうのはもったいない気もちだ
私はしつもんをのみ込んでみている
(いつ?
(どこで?
(なにをして?
夕日
小池昌代「夕日」『永遠に来ないバス』
ヴェンダース『ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』(2011)。ピナ・バウシュの舞踏といっていいのか躍動しつづける身体ってすごく独特だとおもうんですが、彼女の身体をみていておもうのは、《身体でコミュニケーションをいっさい取ることをやめるとどういう身体になるのか》というテーマがあるようにおもうんですよ。たとえば身体をみて、きれいだなとかつかれてるなとかたくましいなとか、そういう感慨をいっさいいだかせない。そういう身体の地平をつくる。それがピナバウシュの身体なのかなとおもうんですね。だからそのなかでは機械的なキスや抱擁がくりかえされたりするんだけれど、それはキスや抱擁でないなにかなんですよ。くちをおしあてているとかつかむとかそういう。身体言語を吃音化させるというか。
片岡くんが会いませんかと言う
会いませんか こんど
あ、あ、あい、あいませんか、あい、あ
と言うので、はいと言った
片岡くんは、くまもと県の生まれである
私はけっこんしたばかりであった
片岡くん、やせたね
と言うと
十キロ、と言った
ベストです、と言った
片岡くん、やせたね
頬、こけてるよ
私はつまらないことばかり言ってしまうので
だまってしまった
小池昌代「夕日」『永遠に来ないバス』
【関係の吃音化】
相手への「痩せたね」って発話ってあるどくとくの位相をもっているんじゃないかなとおもうんですね。
それをたった一言はっするだけで、そのひととの関係が浮き彫りになるっていう。
前から小池さんの詩のなかの「やせたね」ってひとことがとても印象的でよくこの詩のことを思い出していたんですが、今回、山田航さんの『桜前線開架宣言』のなかの服部さんの歌でとても印象的な「痩せたね」の使われ方がなされていて、あらためて「痩せたね」ってなんだろうとおもったんです。
で、ですね。まず「痩せたね」っていうのは時間幅がある言葉ですよね。〈痩せる前のあなた〉と〈痩せた後のあなた〉をわたしは知っているという時間のはばをもったことばです。その時間幅をわたしとあなたがこの「痩せたね」で共有することになる。とりあえずは、です。
ところがおもしろいのは、「痩せたね」ってことばには、そのひとが〈痩せていくプロセスをわたしは目撃できなかった〉っていう意味も含まれているんですよ。
つまり、時間幅を共有していながらも、その時間の流れを共有できなかったこともこのひとことには含まれている。つまり、共有というよりも、これは分有というような事態です。
その過去と現在のあなたとの時間の分け合い方のようなものがこの「痩せたね」には含まれているとおもう。だから、親密ではないんですよ。でも「痩せたね」と相手に率直にいえる程度には親密なんです。
そうすると、どうして小池さんの詩では、片岡くんが〈吃音〉なのか、どうして服部さんの歌では「たとえば」「たとえば」と〈率直さ〉を失ってしまってある意味で〈レトリックの吃音構造〉になっているのかがちょっとわかってくるようにもおもうんです。
つまり、あなたとわたしのあいだの〈距離感〉がまだ〈わたし〉には《つかめていない》のだと。これから親しくなるのかもしれないし、いま親しいのかもしれないし、ぜんぜん親しくないのかもしれないし、なんにもないまま別れるかもしれないし。そういう親しさをめぐる緊張感のようなものがここにはあるのではないかとおもうんですよ。
ちなみにですね、逆に「太ったね」はどうでしょうか。これは「親しさ」をめぐる発話ではなくて、「失礼」をめぐる発話になってくるとおもうんですね。ええと、
飲みほしたアキ缶をころん、と捨てると
さみしいヒトガラが棒立ちになって残る
飲みくだしてしまった片岡くんと
飲んでいない私がゆっくり向き合う
太陽はビルの背中をこがして
みしみし、西空へしずみかけている
約束してしまうのはもったいない気もちだ
私はしつもんをのみ込んでみている
(いつ?
(どこで?
(なにをして?
夕日
小池昌代「夕日」『永遠に来ないバス』
ヴェンダース『ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』(2011)。ピナ・バウシュの舞踏といっていいのか躍動しつづける身体ってすごく独特だとおもうんですが、彼女の身体をみていておもうのは、《身体でコミュニケーションをいっさい取ることをやめるとどういう身体になるのか》というテーマがあるようにおもうんですよ。たとえば身体をみて、きれいだなとかつかれてるなとかたくましいなとか、そういう感慨をいっさいいだかせない。そういう身体の地平をつくる。それがピナバウシュの身体なのかなとおもうんですね。だからそのなかでは機械的なキスや抱擁がくりかえされたりするんだけれど、それはキスや抱擁でないなにかなんですよ。くちをおしあてているとかつかむとかそういう。身体言語を吃音化させるというか。
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