【感想】山田航さんの『桜前線開架宣言』を持ち歩く日々のなかで-ヒア & ゼア こことよそ-
- 2016/03/09
- 00:31
今ずっと山田航さんの『桜前線開架宣言』を持ち歩いていて、それを読んでは考え、考えては読んでをしているんですが、このアンソロジーのひとつの特徴にその短歌がどういう社会的磁場のなかにあるのかを意識してみようというのがあると思うんです。
これは山田航さんが毎日歌壇賞をとられた「ペットボトル」の歌が象徴的だと思うし、このアンソロジーのなかでも山田さんはとくにそこを意識して各歌人の方を解説されたと思うんだけれども、そのひとがどういう社会的磁場のなかでどういう偏差のある記号というか言葉を使っているかということがとても大事になってきているとおもうんですよね。
たとえば《私》ひとつにしてもその《私》がどういう社会的磁場の中にいるかでぜんぜんちがう《私》になるわけです。あなたの《私》とわたしの《私》はちがう。それは内面の問題ではなくて、《わたし》を発話するときの磁場がちがうわけです。
たとえば山田さんの歌の
たぶん親の収入超せない僕たちがペットボトルを補充してゆく 山田航
っていう歌がある。この歌は、ある特定の言葉の位相のなかから発話された短歌です。普遍的な感覚ではなくて、「親の収入超せない」立場から、「ペットボトルを補充」する労働の場所のなかで言語が紡がれている。このうたを読むときに、たぶん歌がもっている社会的磁場に眼がむくとおもうんですよ。この語り手が所属している社会の場所というか階層というか位相はどんなところだろうって。
でも、それって読み手にも反射してくる問題だともおもうんですね。あなたはどこの階層からこの短歌を読んでいますか。どんなふうな偏差をもってこの短歌を読み解いていますか。どんなふうに〈誤読〉していますか。
そういう読む側も自らの立っている社会的磁場を問われる。
それがこのアンソロジーのひとつの特徴なのかなあとおもうんです。わたしは《ここ》にいます。あなたがいる《そこ》とわたしの《ここ》はどうちがいますか。それを《気にしてください》と。
いま短歌を読むってもしかしたらそういうことなんじゃないかと思うんです。見えなかった境界線を可視化すること。短歌によってみえるようにすること。
実は言葉の場所ってみんな同じ場所に立っているわけじゃなくて、ぜんぜんちがうわけですよね。使っている記号や、その使い方も。そしてその受け取り方もちがう。そしてその違いによって、クラスタというかコミュニティをつくっている。アイデンティティもたぶんそうやってそのつどつくってる。
そのわたしの《ここ》とあなたの《そこ》の決定的な違いみたいなもの、共通の地盤がもはやなくなってしまって島宇宙化している《いま(テン年代)》においてそれでも《アンソロジー》として《集約》するときにいったいなにがみえてくるのか。そういった問いかけがこのアンソロジーにはあるように思うんです。これはたぶん、《わたし》の問題でもあるとどうじに、わたしの《場》をめぐる問題でもあるんだとおもいます。
引き続き、持ち歩こうとおもいます。
ちなみに新宿紀伊國屋本店のものには紀伊國屋本店の梅崎実奈さんによる特別付録がついていて、アンソロジーの書式で山田航さん自身がアンソロジーに収録されているような体裁で解説されるというかっこいい付録がついています。すごくすてきな付録だなっておもいました。
これは山田航さんが毎日歌壇賞をとられた「ペットボトル」の歌が象徴的だと思うし、このアンソロジーのなかでも山田さんはとくにそこを意識して各歌人の方を解説されたと思うんだけれども、そのひとがどういう社会的磁場のなかでどういう偏差のある記号というか言葉を使っているかということがとても大事になってきているとおもうんですよね。
たとえば《私》ひとつにしてもその《私》がどういう社会的磁場の中にいるかでぜんぜんちがう《私》になるわけです。あなたの《私》とわたしの《私》はちがう。それは内面の問題ではなくて、《わたし》を発話するときの磁場がちがうわけです。
たとえば山田さんの歌の
たぶん親の収入超せない僕たちがペットボトルを補充してゆく 山田航
っていう歌がある。この歌は、ある特定の言葉の位相のなかから発話された短歌です。普遍的な感覚ではなくて、「親の収入超せない」立場から、「ペットボトルを補充」する労働の場所のなかで言語が紡がれている。このうたを読むときに、たぶん歌がもっている社会的磁場に眼がむくとおもうんですよ。この語り手が所属している社会の場所というか階層というか位相はどんなところだろうって。
でも、それって読み手にも反射してくる問題だともおもうんですね。あなたはどこの階層からこの短歌を読んでいますか。どんなふうな偏差をもってこの短歌を読み解いていますか。どんなふうに〈誤読〉していますか。
そういう読む側も自らの立っている社会的磁場を問われる。
それがこのアンソロジーのひとつの特徴なのかなあとおもうんです。わたしは《ここ》にいます。あなたがいる《そこ》とわたしの《ここ》はどうちがいますか。それを《気にしてください》と。
いま短歌を読むってもしかしたらそういうことなんじゃないかと思うんです。見えなかった境界線を可視化すること。短歌によってみえるようにすること。
実は言葉の場所ってみんな同じ場所に立っているわけじゃなくて、ぜんぜんちがうわけですよね。使っている記号や、その使い方も。そしてその受け取り方もちがう。そしてその違いによって、クラスタというかコミュニティをつくっている。アイデンティティもたぶんそうやってそのつどつくってる。
そのわたしの《ここ》とあなたの《そこ》の決定的な違いみたいなもの、共通の地盤がもはやなくなってしまって島宇宙化している《いま(テン年代)》においてそれでも《アンソロジー》として《集約》するときにいったいなにがみえてくるのか。そういった問いかけがこのアンソロジーにはあるように思うんです。これはたぶん、《わたし》の問題でもあるとどうじに、わたしの《場》をめぐる問題でもあるんだとおもいます。
引き続き、持ち歩こうとおもいます。
ちなみに新宿紀伊國屋本店のものには紀伊國屋本店の梅崎実奈さんによる特別付録がついていて、アンソロジーの書式で山田航さん自身がアンソロジーに収録されているような体裁で解説されるというかっこいい付録がついています。すごくすてきな付録だなっておもいました。
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