【感想】枕元に眼鏡と靴と携帯を置いて眠れば現実の如し 穂村弘
- 2016/03/11
- 13:20
枕元に眼鏡と靴と携帯を置いて眠れば現実の如し 穂村弘
現実なるレベル・セブンの春の昼 関悦史
【〈現実〉が少しずつ変わっていった】
〈震災〉をめぐる歌と句なんですが、穂村さんの歌も、関さんの句にも「現実」という言葉が埋め込まれています。
ただそれら〈現実の位相〉が、「現実の如し」や「現実なる」という言葉遣いのように、今までふつうに接していた〈現実〉ではなくて、これまでであったことがないような〈現実〉にであってしまっているという〈現実の質感〉が特徴的なんじゃないかと思います。
しかもそれは「枕元に眼鏡と靴と携帯を置いて眠」る行為や「レベル・セブン」という名前によってやってくる〈現実〉です。だからどこかで〈現実〉から〈現実〉が疎隔されている。
これらは〈剥き出し〉の現実そのものなのではなくて、それに付随する行為や名前からやってくる〈現実〉だから。それらは直接的な出来事の指示対象ではない。
でも、そういった〈あとから〉やってくる〈現実〉によって、〈現実〉と〈現実でないもの〉の境界がたえず書き換えられていったのも〈震災〉だったのではないかとおもうんです。そしてそのここまでは〈現実〉でここからは〈現実でないもの〉の境界のありかたも、誰が・どこで・誰として生きているかで変わってくる。ひとりひとりの〈現実〉の受け止め方が異なり、その〈現実〉が共有できない。それもひとつの〈震災〉をめぐる〈現実〉のありかただったんじゃないかとおもうんです。たとえば誰かが発話したとして、「いやおまえは現実をなにもわかっていない。その発言は現実的じゃない」と〈現実〉の〈軽重〉がつねに問われる風景が。
揺れる場所と揺れない場所の差異や境界が現実的な場所だけでなく、じぶんじしんのなかでもつねに問われるそういう言葉の現実的質感のようなものが震災後にずっと境界線を揺らしながらもあるようにおもうのです。
関揺れる揺れてない場所さがしつつ 御中虫
震災の消費は商業誌では当たり前のようになされています。では、何かがほんとうに終わったのでしょうか。自然災害でなく、人災である原発事故でさえまったく終わっていない。海外に原発の輸出をもくろみ、再稼働する機会を虎視眈々と窺っている。原発立地町村の首長選挙でも再稼働賛成派が連勝しています。むしろ、何もなかったように、平然と以前も以後もつながっていることの方を問題にすべきではないでしょうか。
しかし、翻って、学会で盛んに震災を取り上げ語るのは、よほど意識しなければ震災を研究というかたちで消費していることにはならないか。自分がやっていることが、震災の消費の一翼を担っているのではないかという自戒の念と危惧を強く持っています。こうした場で、私の語っていることばは、誰に向かっているのか。どのような回路を経て、被災の当事者たちに届くのか、もしくは届かないのか。
九十年という時間も地域も大きく隔たった二つの震災を大ざっぱに結びつけて語るのも躊躇してしまいます。
首都圏で起きた関東大震災は、破壊とともにさまざまな新しいこと・ものの胎動の契機ともなりました。帝都の再興というテーマは直ちに巻き起こり、文学の世界ではモダニズムが新たなムーブメントになりました。それらは必然の出来事でした。
これに対して、このたびの震災は東北という中心から隔てられていた空間が厄災に見舞われ、根こそぎ破壊され再興する土地さえも奪われ、被災者はばらばらになって移転せざるをえない。しかも、再興といっても、所にとっては高齢化地域、シャッター街の再興ということになってしまう。社会的・地政学的状況はおよそ異なっていると言わざるをえません。
では、どう語ったらいいのか。これは難しい問題です。少なくとも、語ることとは、多かれ少なかれ「物語」にすること。それは「忘却」の一歩手前になり得ます。われわれは、忘れないために語るのか、それとも、忘れるために語るのか。
『赤と黒』の同人たち(アナーキストたち)が、むしろ文明の崩壊、何かの終わりとして語らなかったことが、実は重要なことに思えてなりません。1970年代末にリオタールは大きな物語の終焉ということを言いましたが、巨大な出来事のあとに大きな物語はつい浮上します。
こうした物語に絡め取られない、自分なりの物の見方の模索が重要だと思います。そして、それを支えることにこそ、文学研究の存在意義があるのではないでしょうか。
高橋修「都市崩壊への眼差し-アナキズム詩をめぐって-」『社会文学』39
現実なるレベル・セブンの春の昼 関悦史
【〈現実〉が少しずつ変わっていった】
〈震災〉をめぐる歌と句なんですが、穂村さんの歌も、関さんの句にも「現実」という言葉が埋め込まれています。
ただそれら〈現実の位相〉が、「現実の如し」や「現実なる」という言葉遣いのように、今までふつうに接していた〈現実〉ではなくて、これまでであったことがないような〈現実〉にであってしまっているという〈現実の質感〉が特徴的なんじゃないかと思います。
しかもそれは「枕元に眼鏡と靴と携帯を置いて眠」る行為や「レベル・セブン」という名前によってやってくる〈現実〉です。だからどこかで〈現実〉から〈現実〉が疎隔されている。
これらは〈剥き出し〉の現実そのものなのではなくて、それに付随する行為や名前からやってくる〈現実〉だから。それらは直接的な出来事の指示対象ではない。
でも、そういった〈あとから〉やってくる〈現実〉によって、〈現実〉と〈現実でないもの〉の境界がたえず書き換えられていったのも〈震災〉だったのではないかとおもうんです。そしてそのここまでは〈現実〉でここからは〈現実でないもの〉の境界のありかたも、誰が・どこで・誰として生きているかで変わってくる。ひとりひとりの〈現実〉の受け止め方が異なり、その〈現実〉が共有できない。それもひとつの〈震災〉をめぐる〈現実〉のありかただったんじゃないかとおもうんです。たとえば誰かが発話したとして、「いやおまえは現実をなにもわかっていない。その発言は現実的じゃない」と〈現実〉の〈軽重〉がつねに問われる風景が。
揺れる場所と揺れない場所の差異や境界が現実的な場所だけでなく、じぶんじしんのなかでもつねに問われるそういう言葉の現実的質感のようなものが震災後にずっと境界線を揺らしながらもあるようにおもうのです。
関揺れる揺れてない場所さがしつつ 御中虫
震災の消費は商業誌では当たり前のようになされています。では、何かがほんとうに終わったのでしょうか。自然災害でなく、人災である原発事故でさえまったく終わっていない。海外に原発の輸出をもくろみ、再稼働する機会を虎視眈々と窺っている。原発立地町村の首長選挙でも再稼働賛成派が連勝しています。むしろ、何もなかったように、平然と以前も以後もつながっていることの方を問題にすべきではないでしょうか。
しかし、翻って、学会で盛んに震災を取り上げ語るのは、よほど意識しなければ震災を研究というかたちで消費していることにはならないか。自分がやっていることが、震災の消費の一翼を担っているのではないかという自戒の念と危惧を強く持っています。こうした場で、私の語っていることばは、誰に向かっているのか。どのような回路を経て、被災の当事者たちに届くのか、もしくは届かないのか。
九十年という時間も地域も大きく隔たった二つの震災を大ざっぱに結びつけて語るのも躊躇してしまいます。
首都圏で起きた関東大震災は、破壊とともにさまざまな新しいこと・ものの胎動の契機ともなりました。帝都の再興というテーマは直ちに巻き起こり、文学の世界ではモダニズムが新たなムーブメントになりました。それらは必然の出来事でした。
これに対して、このたびの震災は東北という中心から隔てられていた空間が厄災に見舞われ、根こそぎ破壊され再興する土地さえも奪われ、被災者はばらばらになって移転せざるをえない。しかも、再興といっても、所にとっては高齢化地域、シャッター街の再興ということになってしまう。社会的・地政学的状況はおよそ異なっていると言わざるをえません。
では、どう語ったらいいのか。これは難しい問題です。少なくとも、語ることとは、多かれ少なかれ「物語」にすること。それは「忘却」の一歩手前になり得ます。われわれは、忘れないために語るのか、それとも、忘れるために語るのか。
『赤と黒』の同人たち(アナーキストたち)が、むしろ文明の崩壊、何かの終わりとして語らなかったことが、実は重要なことに思えてなりません。1970年代末にリオタールは大きな物語の終焉ということを言いましたが、巨大な出来事のあとに大きな物語はつい浮上します。
こうした物語に絡め取られない、自分なりの物の見方の模索が重要だと思います。そして、それを支えることにこそ、文学研究の存在意義があるのではないでしょうか。
高橋修「都市崩壊への眼差し-アナキズム詩をめぐって-」『社会文学』39
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