【お知らせ】「【筑紫磐井一句評】欲動と断念-俳句は欲動できるのか-」『俳句新空間 No.5』2016・春
- 2016/03/12
- 08:37
紙媒体である冊子版の『俳句新空間 No.5』(2016・春)に「【筑紫磐井一句評】欲動と断念-俳句は欲動できるのか-」を載せていただきました。
問いかけても、頑なに答えようとしないこと。どれだけ欲動しても、断念させること。妻も、俳句も、〈わたし〉がどれだけ問いかけても答えようとはしない。俳句は欲動を完遂させる形式ではないから。でもそれゆえにこそ、はじめて現れる〈行く先〉がある。未来は断念としてあらわれる場合があるのだ。
ジジェクのこんな言葉から始めてみました。
解釈は主体の欲望の真実を目標とする…。これに対し、構成は欲動についての知識を表現する。 スラヴォイ・ジジェク 『幻想の感染』
このジジェクの一文は田島健一さんが引用されていたことから知って、それでジジェクの『幻想の感染』を読みながら今回書いてみたんですが(ちなみに田島さんがいつも引用されている思想家の文は〈俳句〉を〈ちがったかたち〉で考える上でとても興味深いです)、たぶん、俳句という形式は、〈解釈〉をとおして〈主体の欲望の真実〉を完遂させる形式ではなくて、〈構成〉によって〈欲動についての知識〉を表現する形式なんじゃないかと思うんですね。
だから、俳句のなかで〈~したい〉と思っても、いつもそれは〈失敗〉するんじゃないかとおもうんです。おもうんだけれども、でも〈~したい〉という欲動は〈構成〉によって表現することはできる。どこにもいかないけれど、そこにとどまりつづけるんだけれど、でもそういう踏みとどまる形式によって独特の場所がうまれる。
そういうことがあるんじゃないかと思いながら、書いてみました。
だから、私なりのタイトルに対する答えはこうです。
欲動はできる。できるんだけれど、完遂は、できない。
うるふ日をなんにもしないことにする 筑紫磐井
日にくじら永遠がいったん終わる 田島健一
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