【感想】ゆきはうごいとる病院はうごいとらんもうわしだけになってしもうた 吉岡太朗
- 2016/03/14
- 20:31
ゆきはうごいとる病院はうごいとらんもうわしだけになってしもうた 吉岡太朗
【饒舌な意識】
吉岡さんの短歌を読み返すたびに、じぶんが死ぬときにふっとなんの理由もなく思い出す短歌があるとしたらそれは吉岡さんの短歌なんじゃないかってちょっとおもったりもするんです。
で、それはなんでかっていうといくつか理由があるんですが、基本的には〈意識の饒舌〉というものと関係があるようにおもうんです。
たとえば上の短歌なのですが、意識の焦点がゆっくり推移していくせいでひじょうに饒舌なんですね。ただその饒舌が速度をもっておらず、スローなかたちでおこなわれる。
まず「ゆき」に焦点がうつり、「ゆきはうごいとる」ことを意識し、その次に「病院」に焦点がうつり、「病院はうごいとらん」ことを確認し、そしてさいごに「わし」に焦点がうつり、「もうわしだけになってしもうた」と「わし」の状況を意識する。
こうした、ひとつ・ひとつの状況確認による意識が〈饒舌な意識〉をうんでいる。
さらに饒舌度を高めるのが、〈ローカル〉な語り口です。これは読み手へのスローな認識の饒舌ももたらします。
「ゆきはうごいてる」ではなく「ゆきはうごいとる」のときに、読み手はその発話の偏差によって、いっかい、じぶんじしんで意味を翻訳する。そのときに〈認識の饒舌〉がおこっているのではないかとおもうのです。
そういう〈認識や感覚の饒舌〉というのは、実は、ひとが死んでいくときのスローな状態にちかいんじゃないかとおもったんです。たとえば風邪をひくと、ひじょうにゆったりとした意識になりますよね、ぼんやりしたというか。それにちかいんじゃないかとおもう。
この川は記憶を甘やかす川と雪柳もうすこしだけ見てる 吉岡太朗
ヘルツォーク『キンスキー、我が最愛の敵』(1999)。ヘルツォーク映画にかかせない怪優・キンスキーなんですが この映画をみると誰もキンスキーをコントロールすることができなかったことがわかります。逆にいえば、理解不能な他者を映画というコントロールされた媒体にひきこむことで認識を饒舌化していくのがヘルツォーク映画だったようにもおもいます。つまり、ヘルツォーク映画では、アマゾンやジャングルがコントロール不能だったのではなく、むしろ、キンスキーがジャングル化していたことそのものが〈映画〉だったようにおもうんです。
【饒舌な意識】
吉岡さんの短歌を読み返すたびに、じぶんが死ぬときにふっとなんの理由もなく思い出す短歌があるとしたらそれは吉岡さんの短歌なんじゃないかってちょっとおもったりもするんです。
で、それはなんでかっていうといくつか理由があるんですが、基本的には〈意識の饒舌〉というものと関係があるようにおもうんです。
たとえば上の短歌なのですが、意識の焦点がゆっくり推移していくせいでひじょうに饒舌なんですね。ただその饒舌が速度をもっておらず、スローなかたちでおこなわれる。
まず「ゆき」に焦点がうつり、「ゆきはうごいとる」ことを意識し、その次に「病院」に焦点がうつり、「病院はうごいとらん」ことを確認し、そしてさいごに「わし」に焦点がうつり、「もうわしだけになってしもうた」と「わし」の状況を意識する。
こうした、ひとつ・ひとつの状況確認による意識が〈饒舌な意識〉をうんでいる。
さらに饒舌度を高めるのが、〈ローカル〉な語り口です。これは読み手へのスローな認識の饒舌ももたらします。
「ゆきはうごいてる」ではなく「ゆきはうごいとる」のときに、読み手はその発話の偏差によって、いっかい、じぶんじしんで意味を翻訳する。そのときに〈認識の饒舌〉がおこっているのではないかとおもうのです。
そういう〈認識や感覚の饒舌〉というのは、実は、ひとが死んでいくときのスローな状態にちかいんじゃないかとおもったんです。たとえば風邪をひくと、ひじょうにゆったりとした意識になりますよね、ぼんやりしたというか。それにちかいんじゃないかとおもう。
この川は記憶を甘やかす川と雪柳もうすこしだけ見てる 吉岡太朗
ヘルツォーク『キンスキー、我が最愛の敵』(1999)。ヘルツォーク映画にかかせない怪優・キンスキーなんですが この映画をみると誰もキンスキーをコントロールすることができなかったことがわかります。逆にいえば、理解不能な他者を映画というコントロールされた媒体にひきこむことで認識を饒舌化していくのがヘルツォーク映画だったようにもおもいます。つまり、ヘルツォーク映画では、アマゾンやジャングルがコントロール不能だったのではなく、むしろ、キンスキーがジャングル化していたことそのものが〈映画〉だったようにおもうんです。
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