【感想】比喩があるからあなたにあえる/ない-比喩と外傷-
- 2016/03/15
- 18:44
ほんとうをひかりでつつむ比喩でしかあなたにちかづくことはできない 兵庫ユカ
病む父と母が疲れて眠る家雨の中なににも喩へたくなし 米川千嘉子
比喩、花か 花尻万博
【比喩と非・比喩】
短詩のなかの比喩の質感というものに以前から興味があったんですが、どうも短詩のなかでは比喩というのはそれそのものがマテリアルな〈距離感〉のようにも思えるんですね。
たとえば一般的には短詩のなかでどれだけなめらかに比喩を使えるかがテクニックになってくるとおもうんですね。比喩を使ったとしてもむしろこれは比喩なんだと感じさせないほうがいい。
ところが上にあげた短歌と俳句はむしろ事態は逆で〈比喩〉が〈比喩であること〉をあからさまにします。むしろ、比喩を上品な場所からひきずりおろすわけです。と同時にそのことによって語り手は比喩から疎外されているようにすらおもうんですね。
わたしはこんなふうにおもうんです。短詩のなかで比喩から疎外されるという事態によってマテリアルな比喩があらわれてしまうことが、〈てざわりのある比喩〉をうみだす場合がある。そういうかたちでしか近づくことのできない比喩がある。
比喩についてあらためて考えてみると、比喩ってなにかというと〈同一化〉なわけです。「りんごのようなほっぺ」は「りんご」と「ほっぺ」を同一化させようとしている。それはひとつの隠蔽された欲望ともいえる。
兵庫さんの歌はその〈同一化への欲望〉を可視化して、比喩であなたと同一化してしまえることもできたはずなのに、そのこと事態を《あえて》言語化して、その「比喩」によって《しか》あなたに近づけない事態をあらわしている。「ほんとうをひかりでつつむ比喩」は〈ない〉かもしれないから、ちかづくことはできないかもしれない。そのちかづきがたさと、それでも歌をうたいつづけてゆく先にある〈比喩〉へのいちるの望みがあるようにおもう。
米川さんの歌は、事態は、まったく逆です。みずからをめぐる状況がどんな比喩もうけつけない。なにかの比喩に還元したらそれは〈うそ〉になってしまう。どんな変換や同一化もうけつけることのない状況のなかに語り手はいる。変換や同一化できないということは、〈圧縮〉できないということです。状況の圧縮ができない、言語がだらだら続くしかない状況。その〈言語的けだるさ〉が疲労感や絶望感として語り手に重くのしかかっている。
花尻さんの俳句は、「比喩」っていうのはひとつのシステムを作動させる装置でもあると思うんだけれど、そのシステムが駆動するまえに「花か」で終わってしまう。そういうシステム不全の比喩がここにはあるんじゃないかとおもうんです。
で、比喩そのものを駆使するんじゃなくて、比喩《へ》の距離感によってなにかをあらわそうとする短詩がある。
もしかすると、比喩って暴力装置そのものなのかもしれないなとすら、おもうんです。
たとえば、「きみのようなひとは他にもいる」と発話するときに、わたしたちは比喩を暴力として行使することもできる。
比喩って、なんだろう。
まよなかのメロンは苦い さみしさをことばにすれば暴力となる 兵庫ユカ
幾原邦彦『劇場版 少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録』(1999)。この映画がまず「あっ」と思うのは、寺山修司の劇団「天井桟敷」で音楽を担当していたシーザーの楽曲が使われていて、アニメのなかにおびただしいメタファーとして散りばめられている薔薇がただの〈美〉のメタファーではなく、寺山修司的な〈血〉や〈自慰的ナルシシズム〉になっていくところだとおもうんですね。〈少女マンガアニメーション〉では使われないような楽曲をあわせることによってアニメのなかのメタファーの質感が変わっていく。それがとてもおもしろいアニメだと思います。アニメ史においても必見のアニメだとおもいます。
病む父と母が疲れて眠る家雨の中なににも喩へたくなし 米川千嘉子
比喩、花か 花尻万博
【比喩と非・比喩】
短詩のなかの比喩の質感というものに以前から興味があったんですが、どうも短詩のなかでは比喩というのはそれそのものがマテリアルな〈距離感〉のようにも思えるんですね。
たとえば一般的には短詩のなかでどれだけなめらかに比喩を使えるかがテクニックになってくるとおもうんですね。比喩を使ったとしてもむしろこれは比喩なんだと感じさせないほうがいい。
ところが上にあげた短歌と俳句はむしろ事態は逆で〈比喩〉が〈比喩であること〉をあからさまにします。むしろ、比喩を上品な場所からひきずりおろすわけです。と同時にそのことによって語り手は比喩から疎外されているようにすらおもうんですね。
わたしはこんなふうにおもうんです。短詩のなかで比喩から疎外されるという事態によってマテリアルな比喩があらわれてしまうことが、〈てざわりのある比喩〉をうみだす場合がある。そういうかたちでしか近づくことのできない比喩がある。
比喩についてあらためて考えてみると、比喩ってなにかというと〈同一化〉なわけです。「りんごのようなほっぺ」は「りんご」と「ほっぺ」を同一化させようとしている。それはひとつの隠蔽された欲望ともいえる。
兵庫さんの歌はその〈同一化への欲望〉を可視化して、比喩であなたと同一化してしまえることもできたはずなのに、そのこと事態を《あえて》言語化して、その「比喩」によって《しか》あなたに近づけない事態をあらわしている。「ほんとうをひかりでつつむ比喩」は〈ない〉かもしれないから、ちかづくことはできないかもしれない。そのちかづきがたさと、それでも歌をうたいつづけてゆく先にある〈比喩〉へのいちるの望みがあるようにおもう。
米川さんの歌は、事態は、まったく逆です。みずからをめぐる状況がどんな比喩もうけつけない。なにかの比喩に還元したらそれは〈うそ〉になってしまう。どんな変換や同一化もうけつけることのない状況のなかに語り手はいる。変換や同一化できないということは、〈圧縮〉できないということです。状況の圧縮ができない、言語がだらだら続くしかない状況。その〈言語的けだるさ〉が疲労感や絶望感として語り手に重くのしかかっている。
花尻さんの俳句は、「比喩」っていうのはひとつのシステムを作動させる装置でもあると思うんだけれど、そのシステムが駆動するまえに「花か」で終わってしまう。そういうシステム不全の比喩がここにはあるんじゃないかとおもうんです。
で、比喩そのものを駆使するんじゃなくて、比喩《へ》の距離感によってなにかをあらわそうとする短詩がある。
もしかすると、比喩って暴力装置そのものなのかもしれないなとすら、おもうんです。
たとえば、「きみのようなひとは他にもいる」と発話するときに、わたしたちは比喩を暴力として行使することもできる。
比喩って、なんだろう。
まよなかのメロンは苦い さみしさをことばにすれば暴力となる 兵庫ユカ
幾原邦彦『劇場版 少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録』(1999)。この映画がまず「あっ」と思うのは、寺山修司の劇団「天井桟敷」で音楽を担当していたシーザーの楽曲が使われていて、アニメのなかにおびただしいメタファーとして散りばめられている薔薇がただの〈美〉のメタファーではなく、寺山修司的な〈血〉や〈自慰的ナルシシズム〉になっていくところだとおもうんですね。〈少女マンガアニメーション〉では使われないような楽曲をあわせることによってアニメのなかのメタファーの質感が変わっていく。それがとてもおもしろいアニメだと思います。アニメ史においても必見のアニメだとおもいます。
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