【感想】僕とあなたの位置関係を告げなくちゃ辿り着けない夕焼けの駅 堂園昌彦
- 2016/03/15
- 22:14
僕とあなたの位置関係を告げなくちゃ辿り着けない夕焼けの駅 堂園昌彦
【あなたに固有名詞を与える】
堂園さんの短歌のなかの「あなた/君」という呼びかけってとても大切なものだと思うんです。ほかにも堂園さんの短歌から「あなた/君」をめぐる短歌をあげてみると、
町中のあらゆるドアが色づきを深めて君を待っているのだ 堂園昌彦
あなたは遠い被写体となりざわめきの王子駅へと太陽沈む 〃
地図めくる音が聞こえるあなたからあなたからただ猟銃を買う 〃
君は君のうつくしい胸にしまわれた機械で駆動する観覧車 〃
「あなた/あなた」「君/君」という二人称の〈畳掛け〉さえ出てくる。これなんかは〈二人称志向〉をこえて、なにか〈二人称〉が奇妙な言語的迷宮をなしていますよね。
つまりですね、二人称というのは、「君は」や「あなたは」など〈誰かに呼びかけているようで・誰にも呼びかけてはいない呼びかけ〉にとても適しているいわば〈透明〉な呼称なんですが、ところがその呼称に〈屈託〉のようなものが生じてきている。
しかもその〈呼びかけ〉はたえずトポスというか場所性をめぐりながら行われているのも興味深い点です。
「位置関係を告げなくちゃ」「町中の」「王子駅へと」「地図めくる」「観覧車」。
語り手は「君」や「あなた」と呼びかけるだけでは、「君」や「あなた」の位置が測位できないことをどこかで気がついているようなのです。だから〈二人称的吃音〉が起こってしまう。「あなたからあなたから」「君は君の」と二人称をくりかえしてしまう。
語り手はそこまで二人称をていねいに・仔細に測位しようとしながらも、そのことによってかえって位置づけられないんだという感覚をあからさまにしているんじゃないかとおもうんです。
もっといえば、この語り手は「あなた」は「あなた」のままに置きながらもその「あなた」に固有名詞を与えようとし、その不可能性に遭遇してしまったのではないか。場所を測位し、なんとか固有名を与えようとしながらも、それが不可能であることに気づく。でもそのことによって〈ここ〉でしか起こりえない固有の「あなた」を歌っているのではないか。
短歌でふしぎなのは「わたし」よりも「あなた」の方だったのかもしれない。
ふかしぎなことをするのはいつも「君」のほうだったから。
君がヘリコプターの真似するときの君の回転ゆるやかだった 堂園昌彦
三谷幸喜『やっぱり猫が好き』(1988)。さいきんずっと毎朝観ているんですが、この三姉妹の飼っている猫って「さちこ」っていうんですね。で、猫って、名前はもたないのに名前を与えられますよね。で、その名前で呼ばれる。呼ばれてくるときもあれば、こないときもある。なかなか名前で測位できないのが猫です。そうかんがえると猫って〈呼びかけ〉の冒険、あるいは、〈固有名〉の冒険なんじゃないかとおもうんです。たえず。猫をよぶときに、わたしたちは、名前ってなんなんだろうってかんがえている。名前が恣意的なものであることを思い知らされている。猫はきまぐれだけれど、名前だってきまぐれなんです。それが、わかってしまう。
【あなたに固有名詞を与える】
堂園さんの短歌のなかの「あなた/君」という呼びかけってとても大切なものだと思うんです。ほかにも堂園さんの短歌から「あなた/君」をめぐる短歌をあげてみると、
町中のあらゆるドアが色づきを深めて君を待っているのだ 堂園昌彦
あなたは遠い被写体となりざわめきの王子駅へと太陽沈む 〃
地図めくる音が聞こえるあなたからあなたからただ猟銃を買う 〃
君は君のうつくしい胸にしまわれた機械で駆動する観覧車 〃
「あなた/あなた」「君/君」という二人称の〈畳掛け〉さえ出てくる。これなんかは〈二人称志向〉をこえて、なにか〈二人称〉が奇妙な言語的迷宮をなしていますよね。
つまりですね、二人称というのは、「君は」や「あなたは」など〈誰かに呼びかけているようで・誰にも呼びかけてはいない呼びかけ〉にとても適しているいわば〈透明〉な呼称なんですが、ところがその呼称に〈屈託〉のようなものが生じてきている。
しかもその〈呼びかけ〉はたえずトポスというか場所性をめぐりながら行われているのも興味深い点です。
「位置関係を告げなくちゃ」「町中の」「王子駅へと」「地図めくる」「観覧車」。
語り手は「君」や「あなた」と呼びかけるだけでは、「君」や「あなた」の位置が測位できないことをどこかで気がついているようなのです。だから〈二人称的吃音〉が起こってしまう。「あなたからあなたから」「君は君の」と二人称をくりかえしてしまう。
語り手はそこまで二人称をていねいに・仔細に測位しようとしながらも、そのことによってかえって位置づけられないんだという感覚をあからさまにしているんじゃないかとおもうんです。
もっといえば、この語り手は「あなた」は「あなた」のままに置きながらもその「あなた」に固有名詞を与えようとし、その不可能性に遭遇してしまったのではないか。場所を測位し、なんとか固有名を与えようとしながらも、それが不可能であることに気づく。でもそのことによって〈ここ〉でしか起こりえない固有の「あなた」を歌っているのではないか。
短歌でふしぎなのは「わたし」よりも「あなた」の方だったのかもしれない。
ふかしぎなことをするのはいつも「君」のほうだったから。
君がヘリコプターの真似するときの君の回転ゆるやかだった 堂園昌彦
三谷幸喜『やっぱり猫が好き』(1988)。さいきんずっと毎朝観ているんですが、この三姉妹の飼っている猫って「さちこ」っていうんですね。で、猫って、名前はもたないのに名前を与えられますよね。で、その名前で呼ばれる。呼ばれてくるときもあれば、こないときもある。なかなか名前で測位できないのが猫です。そうかんがえると猫って〈呼びかけ〉の冒険、あるいは、〈固有名〉の冒険なんじゃないかとおもうんです。たえず。猫をよぶときに、わたしたちは、名前ってなんなんだろうってかんがえている。名前が恣意的なものであることを思い知らされている。猫はきまぐれだけれど、名前だってきまぐれなんです。それが、わかってしまう。
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