【感想】堂園昌彦さんと小タイトル、あるいは村上春樹と温かい泥の中からやってきたもの
- 2016/03/16
- 00:20
山田航さんが『桜前線開架宣言』で「堂園昌彦の魅力の一つとして、連作に付く小題(サブタイトル)のセンスが抜群にいいことが挙げられる」と指摘されていて、それで「あっ」と思い出したんですが、わたしも堂園さんの歌集をはじめて読んだときに短歌だけでなく小タイトルもひとつひとつがとても印象的だったんですよね。
たとえば、
「すべての信号を花束と間違える」。
これはもう短歌にした方がいいような、小タイトルにするのがすこし惜しいような言語レベルのタイトルだとおもうんですよ。
で、もうひとつ、いま、ふっと思い出したのが、わたし、以前、〈村上春樹読まず嫌い〉のひとに村上春樹は実は小タイトルを読むだけでもじゅうぶんひとつの〈村上春樹の読書〉になるんじゃないかと提案したことがあったんですが、村上春樹もタイトルが自律的というか、独特なんですよ。たとえば『ねじまき鳥クロニクル』なら、
「火曜日のねじまき鳥、六本の指と四つの乳房について」
「満月と日蝕、納屋の中で死んでいく馬たちについて」
「加納マルタの帽子、シャーベット・トーンとアレン・ギンズバーグと十字軍」
「高い塔と深い井戸、あるいはノモンハンを遠く離れて」
「レモンドロップ中毒、飛べない鳥と涸れた井戸」
「岡田久美子はどのようにして生まれ、綿谷ノボルはどのようにして生まれたか」
という感じですね。
で、ですね、堂園さんの歌集も村上春樹の小説も小タイトル自身がすでに自立した詩的空間を営んでいるわけですよ。なんていえばいいのかな、〈詩的自活〉といえばいいのでしょうか、タイトル自身がすでに詩を〈自活〉しているわけですよね。
じゃあ、こういうことでどういう効果が生まれるのかを私なりに考えてみるとそれって読者を〈立ち止まらせること〉にあるのかなっておもうんです。
これだけタイトル自身に自立=自律した詩的空間があるならば、読み手はそこで一回たちどまって想像したりこれからのいろんな言語表現を予期したりして〈遊ぶ〉ことができる。そもそもがたとえば堂園さんの歌集は装幀もとても凝っていていっかいいっかい立ち止まらせるような歌集になっているんですね。そういうこれは〈立ち止まる歌集〉だったのではないかとおもうんです(この歌集は一頁に一首なんですが、ほんとうに真剣に読み手を立ち止まらせていることのあらわれだと思うんですよ。それだけ語り手は真剣になっているんだと)。
あ、そうだ、この小タイトルもだいすきなんです。
「暴力的な世界における春の煮豆」。
キューブリック『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』(1966)。映画で長いタイトルといえばこれですよね。ですが、この映画では世界が核ミサイルでいっしゅんで消滅してしまう。これだけタイトルは長いのに、世界がきえるのはいっしゅんなんですよ。世界の消滅はそういう時間の皮肉があるようにおもうんです。おなじく長いタイトルで有名なのが以前もここで紹介したウディ・アレンの『ウディ・アレンの誰でも知りたがっているくせにちょっと聞きにくいsexのすべてについて教えましょう』ですが、セックスも考えてみれば時間論なわけです。
たとえば、
「すべての信号を花束と間違える」。
これはもう短歌にした方がいいような、小タイトルにするのがすこし惜しいような言語レベルのタイトルだとおもうんですよ。
で、もうひとつ、いま、ふっと思い出したのが、わたし、以前、〈村上春樹読まず嫌い〉のひとに村上春樹は実は小タイトルを読むだけでもじゅうぶんひとつの〈村上春樹の読書〉になるんじゃないかと提案したことがあったんですが、村上春樹もタイトルが自律的というか、独特なんですよ。たとえば『ねじまき鳥クロニクル』なら、
「火曜日のねじまき鳥、六本の指と四つの乳房について」
「満月と日蝕、納屋の中で死んでいく馬たちについて」
「加納マルタの帽子、シャーベット・トーンとアレン・ギンズバーグと十字軍」
「高い塔と深い井戸、あるいはノモンハンを遠く離れて」
「レモンドロップ中毒、飛べない鳥と涸れた井戸」
「岡田久美子はどのようにして生まれ、綿谷ノボルはどのようにして生まれたか」
という感じですね。
で、ですね、堂園さんの歌集も村上春樹の小説も小タイトル自身がすでに自立した詩的空間を営んでいるわけですよ。なんていえばいいのかな、〈詩的自活〉といえばいいのでしょうか、タイトル自身がすでに詩を〈自活〉しているわけですよね。
じゃあ、こういうことでどういう効果が生まれるのかを私なりに考えてみるとそれって読者を〈立ち止まらせること〉にあるのかなっておもうんです。
これだけタイトル自身に自立=自律した詩的空間があるならば、読み手はそこで一回たちどまって想像したりこれからのいろんな言語表現を予期したりして〈遊ぶ〉ことができる。そもそもがたとえば堂園さんの歌集は装幀もとても凝っていていっかいいっかい立ち止まらせるような歌集になっているんですね。そういうこれは〈立ち止まる歌集〉だったのではないかとおもうんです(この歌集は一頁に一首なんですが、ほんとうに真剣に読み手を立ち止まらせていることのあらわれだと思うんですよ。それだけ語り手は真剣になっているんだと)。
あ、そうだ、この小タイトルもだいすきなんです。
「暴力的な世界における春の煮豆」。
キューブリック『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』(1966)。映画で長いタイトルといえばこれですよね。ですが、この映画では世界が核ミサイルでいっしゅんで消滅してしまう。これだけタイトルは長いのに、世界がきえるのはいっしゅんなんですよ。世界の消滅はそういう時間の皮肉があるようにおもうんです。おなじく長いタイトルで有名なのが以前もここで紹介したウディ・アレンの『ウディ・アレンの誰でも知りたがっているくせにちょっと聞きにくいsexのすべてについて教えましょう』ですが、セックスも考えてみれば時間論なわけです。
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