【感想】日本はアニメ、ゲームとパソコンと、あとの少しが平山郁夫 黒瀬珂瀾
- 2016/03/16
- 01:00
日本はアニメ、ゲームとパソコンと、あとの少しが平山郁夫 黒瀬珂瀾
【差異のニッポン】
この短歌はもうひとつパラフレーズしたかたちがあって、
ニッポンはアニメ、ゲームとパソコンと、あとの少しが太陽の塔 黒瀬珂瀾
なんですね。ふたつの短歌の違いは「日本/ニッポン」「平山郁夫/太陽の塔」です。
で、ちょっと注目したいのが「はアニメ、ゲームとパソコンと、あとの少しが」は同一の構造をもっているということです。ここは、揺るがない。
一見、日本的でもニッポン的でもないものが、「日本」と「ニッポン」の構造の幹を支えている。そして、揺るぎない。
ところがこの主語である日本は、揺らぐ。ときどき「日本」であるし「ニッポン」にもなる。これはどうして揺らぐのかというと、このふたつの短歌の構造から析出すれば、「あとの少しのX」のXによって関数的に揺らぐことがわかる。
Xに「平山郁夫」と代入すれば、「日本」になるし、Xに「太陽の塔」と代入すれば「ニッポン」になる。
主語の〈日本〉というのはそれくらいのものでしかない。
つまり、日本を述部から支えているのは「アニメ、ゲーム、パソコン」なんです。
で、ですね。さいきんたまたま、メディア・アート国際化推進委員会編『ニッポンのマンガ*アニメ*ゲーム from 1989』という展示の図録を読んでいたんですよ。これは国立新美術館で2015年に展示があったものなんだけれど、これを観るともしかしたら日本文化史はマンガ・アニメ・ゲームで語った方が1989年以降は〈わかりやすい〉んじゃないかという気がしないでもないんですね。身体に根ざした部分から語ることができるんじゃないかと。それは政治でもなく、文学でもなく、美術でもなく。
で、もうひとつは、やっとマンガ・アニメ・ゲームを基本的な根っこから語る枠組みから用意されてきたんだなということです。
もちろんこれまでたくさんの立派な研究の成果があったんだけれど、マンガ・アニメ・ゲームを共時的に配合させながら〈通史〉の〈展示〉というかたちできちんと提示されたのはこれがはじめてなんじゃないかと思うんですよ。
しかも冠に「ニッポンの~」とついているように、これはニッポンが、これまで日本と海外のコンテクストのなかの〈ニッポン〉の文化と時間軸のなかで生まれて・ニッポンという記号へとフィードバックしてきた文化物だとおもうんです。それが『寄生獣』だったり、『3月のライオン』だったり、『らき☆すた』だったり、『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』だったり、『ストリートファイターⅡ』だったり、『艦隊これくしょん』だったりする。
黒瀬さんの短歌でいえば今までは「あとの少しのX」の部分をマジョリティとして日本の記号のなかに還元させてきたんだけれど、黒瀬さんの短歌の根幹部分がやっと〈サブカル〉として〈圧縮〉される語りでなくて、メジャーをそのままメジャーとして迎えうてるようになってきたのではないかとおもったんです。
でもみんなどこで死んだの真夜中のゲームの穴に落す百円 黒瀬珂瀾
樋口真嗣『巨神兵東京に現わる』(2012)。この映画が上映された展覧会「館長 庵野秀明特撮博物館 ミニチュアで見る昭和平成の技」に行ったんですが、ウルトラマンとか怪獣の着ぐるみをみて思ったのは、アクタースーツって〈裸の露開/隠蔽〉っていう両義性だとおもったんです。ウルトラマンをみているとわかるんだけれど、ある意味でそれは〈すっぱだか〉なんです。あばら感やお尻感があるから。でもそれは裸ではないんですね。くちびるがひらかなかったり、まぶたがなかったりする。裸をなんとなく露開させながら、裸を隠蔽している。怪獣映画ってそういう〈裸の臨界〉の記号学なんじゃないかとちょっとおもったんです。その微妙な〈裸の臨界〉ってたぶんアクタースーツならではのもので、CGではだせないとおもうんですよ。人体は入らないので。
【差異のニッポン】
この短歌はもうひとつパラフレーズしたかたちがあって、
ニッポンはアニメ、ゲームとパソコンと、あとの少しが太陽の塔 黒瀬珂瀾
なんですね。ふたつの短歌の違いは「日本/ニッポン」「平山郁夫/太陽の塔」です。
で、ちょっと注目したいのが「はアニメ、ゲームとパソコンと、あとの少しが」は同一の構造をもっているということです。ここは、揺るがない。
一見、日本的でもニッポン的でもないものが、「日本」と「ニッポン」の構造の幹を支えている。そして、揺るぎない。
ところがこの主語である日本は、揺らぐ。ときどき「日本」であるし「ニッポン」にもなる。これはどうして揺らぐのかというと、このふたつの短歌の構造から析出すれば、「あとの少しのX」のXによって関数的に揺らぐことがわかる。
Xに「平山郁夫」と代入すれば、「日本」になるし、Xに「太陽の塔」と代入すれば「ニッポン」になる。
主語の〈日本〉というのはそれくらいのものでしかない。
つまり、日本を述部から支えているのは「アニメ、ゲーム、パソコン」なんです。
で、ですね。さいきんたまたま、メディア・アート国際化推進委員会編『ニッポンのマンガ*アニメ*ゲーム from 1989』という展示の図録を読んでいたんですよ。これは国立新美術館で2015年に展示があったものなんだけれど、これを観るともしかしたら日本文化史はマンガ・アニメ・ゲームで語った方が1989年以降は〈わかりやすい〉んじゃないかという気がしないでもないんですね。身体に根ざした部分から語ることができるんじゃないかと。それは政治でもなく、文学でもなく、美術でもなく。
で、もうひとつは、やっとマンガ・アニメ・ゲームを基本的な根っこから語る枠組みから用意されてきたんだなということです。
もちろんこれまでたくさんの立派な研究の成果があったんだけれど、マンガ・アニメ・ゲームを共時的に配合させながら〈通史〉の〈展示〉というかたちできちんと提示されたのはこれがはじめてなんじゃないかと思うんですよ。
しかも冠に「ニッポンの~」とついているように、これはニッポンが、これまで日本と海外のコンテクストのなかの〈ニッポン〉の文化と時間軸のなかで生まれて・ニッポンという記号へとフィードバックしてきた文化物だとおもうんです。それが『寄生獣』だったり、『3月のライオン』だったり、『らき☆すた』だったり、『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』だったり、『ストリートファイターⅡ』だったり、『艦隊これくしょん』だったりする。
黒瀬さんの短歌でいえば今までは「あとの少しのX」の部分をマジョリティとして日本の記号のなかに還元させてきたんだけれど、黒瀬さんの短歌の根幹部分がやっと〈サブカル〉として〈圧縮〉される語りでなくて、メジャーをそのままメジャーとして迎えうてるようになってきたのではないかとおもったんです。
でもみんなどこで死んだの真夜中のゲームの穴に落す百円 黒瀬珂瀾
樋口真嗣『巨神兵東京に現わる』(2012)。この映画が上映された展覧会「館長 庵野秀明特撮博物館 ミニチュアで見る昭和平成の技」に行ったんですが、ウルトラマンとか怪獣の着ぐるみをみて思ったのは、アクタースーツって〈裸の露開/隠蔽〉っていう両義性だとおもったんです。ウルトラマンをみているとわかるんだけれど、ある意味でそれは〈すっぱだか〉なんです。あばら感やお尻感があるから。でもそれは裸ではないんですね。くちびるがひらかなかったり、まぶたがなかったりする。裸をなんとなく露開させながら、裸を隠蔽している。怪獣映画ってそういう〈裸の臨界〉の記号学なんじゃないかとちょっとおもったんです。その微妙な〈裸の臨界〉ってたぶんアクタースーツならではのもので、CGではだせないとおもうんですよ。人体は入らないので。
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