【感想】葱の根の干からびたような髪をして永田和宏徘徊をせり 花山周子
- 2016/03/20
- 20:29
葱の根の干からびたような髪をして永田和宏徘徊をせり 花山周子
【歌人詠を詠む歌人詠】
この花山さんの歌をはじめてみたときかなり衝撃的だったんですよ。
なにが衝撃的だったかというと、歌人詠というか、歌人が歌人を詠む歌っていうのは、どこかでその歌人が歌人に関係していくことの関係的距離感のようなものがあるんですね。親しみ、というのでしょうか。
でもこの歌の構造には徹底的な語り手と「永田和宏」さんとの〈非関係〉がある。
たとえば上の句が「葱の根の干からびたような髪」でも、結句が「こちらに来る」とかだったら語り手と関係が出てくるとおもうんですよ。ところがこの結句でも「徘徊」とつきはなしてしまう。それがすごくインパクトがあるんです。「徘徊」というのは、この歌の「永田和宏」さんは語り手を見いだしていない。対象物・目的物がないままに文字通り、〈徘徊〉しているわけてす。ところがその「徘徊」している「永田和宏」さんを語り手はみている。しかし語り手は一方的に「永田和宏」さんをみていますが、〈関与〉はしていない。
こういうふうに、歌人詠の〈距離感〉とはなんなのかを浮き彫りにしている、〈歌人詠的歌人詠〉がこの歌なのではないかと思うんですよ。
この花山さんの歌人詠のほかにもうひとつ私がすきな歌人詠があって、
「ジロー、チェンジ、キカイダー」と命じても「ううう」と呻く加藤治郎は 穂村弘
ベルイマン『第七の封印』(1957)。この映画でひとつおもしろいのが、人間と死神の距離感だとおもうんですよね。死神が向こう側にいるんじゃなくて、きちんと人間と交渉して対話してくれる。こっち側にいるんですよ、ちゃんと。だからこの死神の系譜には落語の「死神」や水木しげるの死神や『デスノート』のリュークがいるとおもうんですよ。ぎりぎりまで向こう側を描かないことによってこの映画って成立しているようにおもうんです。そして最後に絶望的に明るい向こう側を、えがく。
【歌人詠を詠む歌人詠】
この花山さんの歌をはじめてみたときかなり衝撃的だったんですよ。
なにが衝撃的だったかというと、歌人詠というか、歌人が歌人を詠む歌っていうのは、どこかでその歌人が歌人に関係していくことの関係的距離感のようなものがあるんですね。親しみ、というのでしょうか。
でもこの歌の構造には徹底的な語り手と「永田和宏」さんとの〈非関係〉がある。
たとえば上の句が「葱の根の干からびたような髪」でも、結句が「こちらに来る」とかだったら語り手と関係が出てくるとおもうんですよ。ところがこの結句でも「徘徊」とつきはなしてしまう。それがすごくインパクトがあるんです。「徘徊」というのは、この歌の「永田和宏」さんは語り手を見いだしていない。対象物・目的物がないままに文字通り、〈徘徊〉しているわけてす。ところがその「徘徊」している「永田和宏」さんを語り手はみている。しかし語り手は一方的に「永田和宏」さんをみていますが、〈関与〉はしていない。
こういうふうに、歌人詠の〈距離感〉とはなんなのかを浮き彫りにしている、〈歌人詠的歌人詠〉がこの歌なのではないかと思うんですよ。
この花山さんの歌人詠のほかにもうひとつ私がすきな歌人詠があって、
「ジロー、チェンジ、キカイダー」と命じても「ううう」と呻く加藤治郎は 穂村弘
ベルイマン『第七の封印』(1957)。この映画でひとつおもしろいのが、人間と死神の距離感だとおもうんですよね。死神が向こう側にいるんじゃなくて、きちんと人間と交渉して対話してくれる。こっち側にいるんですよ、ちゃんと。だからこの死神の系譜には落語の「死神」や水木しげるの死神や『デスノート』のリュークがいるとおもうんですよ。ぎりぎりまで向こう側を描かないことによってこの映画って成立しているようにおもうんです。そして最後に絶望的に明るい向こう側を、えがく。
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