【感想】あの青い電車にもしもぶつかればはね飛ばされたりするんだろうな 永井祐
- 2016/03/21
- 23:53
あの青い電車にもしもぶつかればはね飛ばされたりするんだろうな 永井祐
【口語は存在しない】
花山周子さんが永井祐さんの〈口語〉をめぐって次の指摘をしているんですね。
話し言葉を基準に見た時、ほとんどの短歌は、不自然であり、文語的だということもできる。その点で言えば、永井祐は極めて真っ当に口語短歌を追求している稀有の存在だと言えるのではないか。 花山周子『北冬』16
で、わたし、この花山さんの指摘を読んだときに、あっそうか、ってすごくショックを受けたんです。
たとえば現代短歌では今はほとんどが〈口語化〉しているんだけれども、でもその〈口語〉っていうのは完全な口語ではなくて、短歌の韻律用に組織している〈口語〉なんですね。その意味で《口》語ではないんですよ。たぶん。ある意味でそれは口語に似せた《文》なんですね(ちょっと明治の言文一致運動みたいだけれど、言文一致運動っていうのは文を口語に近づけることではなくて、口語のような《新しい文》をつくる運動でしたよね)。
だからよく見られる口語短歌っていうのは完全な口語ではなくて、あたかも口語のように組織された《文語》ということもできる。そのようにはひとはふだん《しゃべらない》からです。短歌のようにひとがしゃべるとやっぱり違和感がでる。ミュージカルみたいなしゃべり方になる。
ところが永井祐さんの〈口語〉短歌はこの点が違って、短歌の韻律の重力や引力から解放されているようにみえる。〈文〉を組織しようとはしていない、率直に口から出たことばをそのまま短歌に接続している。その意味で〈口語〉短歌なんです。
たとえば、
あの青い電車にもしもぶつかればはね飛ばされたりするんだろうな 永井祐
なんですけれども、この語り手の考えていることは韻律でも短歌でもなくて、ほんとうに「あの青い電車にもしもぶつかればはね飛ばされたりするんだろうな」ってことだと思うんですよ。これは短歌をとおしてなにかを言うといったことやなにかを組織するといったことではなくて、「はね飛ばされたりするんだろうな」とふっとなにげなく思ったことが短歌に接続してしまっている稀有な事態が起きているんだとおもうんです。その〈なにげなさ〉は「あの青い電車」というあまりにアバウトな名詞のとらえかたにあらわれています。
ところがそうした短歌を意識しないで短歌に接続することは、ぎゃくに、短歌とはなにかを浮き彫りにしていく。
ひとは短歌のために実は〈口語〉を組織して〈文〉に近づいていってしまっているのではないかと。だとしたらほんとうに〈口語〉を短歌に接続させるにはどうしたらいいのかと。
短歌をつくるときの自動的な〈短歌思考〉のようなモードを永井祐さんの短歌は相対化するんじゃないかとおもうんですよ。その〈短歌思考〉を剥がしたところにいったいどういう歌のかたちがありうるのかを。
ぼくの人生はおもしろい 18時半から1時間のお花見 永井祐
阪本順治『顔』(2000)。ひとって思いがけないかたちで桎梏にとらわれていたりすると思うんですね。で、この映画では引きこもりのアラフォー女性が〈殺人〉をきっかけに自分の桎梏から解放されるんですよ。いろんなひとと出会ったり、いろんな仕事についたり、笑顔をおぼえたり、自転車に乗れるようになったりする。〈殺人〉をおかした女性はとつぜん内向的な殻をうちやぶり、たくましくなっていく。だからたぶんそのとき殺したのは〈じぶんじしん〉だったと思うんです。でもそのせいでどこかでずっと殺した〈じぶんじしん〉も抱えていくことになる。その〈じぶんじしん〉から逃げるためにもうひとりの〈じぶん〉はもっとたくましくなっていく。ひとがたくましくなるってそういう多面的な〈顔〉を身につけることなのかなって思うんですよ。すごくいい映画。
【口語は存在しない】
花山周子さんが永井祐さんの〈口語〉をめぐって次の指摘をしているんですね。
話し言葉を基準に見た時、ほとんどの短歌は、不自然であり、文語的だということもできる。その点で言えば、永井祐は極めて真っ当に口語短歌を追求している稀有の存在だと言えるのではないか。 花山周子『北冬』16
で、わたし、この花山さんの指摘を読んだときに、あっそうか、ってすごくショックを受けたんです。
たとえば現代短歌では今はほとんどが〈口語化〉しているんだけれども、でもその〈口語〉っていうのは完全な口語ではなくて、短歌の韻律用に組織している〈口語〉なんですね。その意味で《口》語ではないんですよ。たぶん。ある意味でそれは口語に似せた《文》なんですね(ちょっと明治の言文一致運動みたいだけれど、言文一致運動っていうのは文を口語に近づけることではなくて、口語のような《新しい文》をつくる運動でしたよね)。
だからよく見られる口語短歌っていうのは完全な口語ではなくて、あたかも口語のように組織された《文語》ということもできる。そのようにはひとはふだん《しゃべらない》からです。短歌のようにひとがしゃべるとやっぱり違和感がでる。ミュージカルみたいなしゃべり方になる。
ところが永井祐さんの〈口語〉短歌はこの点が違って、短歌の韻律の重力や引力から解放されているようにみえる。〈文〉を組織しようとはしていない、率直に口から出たことばをそのまま短歌に接続している。その意味で〈口語〉短歌なんです。
たとえば、
あの青い電車にもしもぶつかればはね飛ばされたりするんだろうな 永井祐
なんですけれども、この語り手の考えていることは韻律でも短歌でもなくて、ほんとうに「あの青い電車にもしもぶつかればはね飛ばされたりするんだろうな」ってことだと思うんですよ。これは短歌をとおしてなにかを言うといったことやなにかを組織するといったことではなくて、「はね飛ばされたりするんだろうな」とふっとなにげなく思ったことが短歌に接続してしまっている稀有な事態が起きているんだとおもうんです。その〈なにげなさ〉は「あの青い電車」というあまりにアバウトな名詞のとらえかたにあらわれています。
ところがそうした短歌を意識しないで短歌に接続することは、ぎゃくに、短歌とはなにかを浮き彫りにしていく。
ひとは短歌のために実は〈口語〉を組織して〈文〉に近づいていってしまっているのではないかと。だとしたらほんとうに〈口語〉を短歌に接続させるにはどうしたらいいのかと。
短歌をつくるときの自動的な〈短歌思考〉のようなモードを永井祐さんの短歌は相対化するんじゃないかとおもうんですよ。その〈短歌思考〉を剥がしたところにいったいどういう歌のかたちがありうるのかを。
ぼくの人生はおもしろい 18時半から1時間のお花見 永井祐
阪本順治『顔』(2000)。ひとって思いがけないかたちで桎梏にとらわれていたりすると思うんですね。で、この映画では引きこもりのアラフォー女性が〈殺人〉をきっかけに自分の桎梏から解放されるんですよ。いろんなひとと出会ったり、いろんな仕事についたり、笑顔をおぼえたり、自転車に乗れるようになったりする。〈殺人〉をおかした女性はとつぜん内向的な殻をうちやぶり、たくましくなっていく。だからたぶんそのとき殺したのは〈じぶんじしん〉だったと思うんです。でもそのせいでどこかでずっと殺した〈じぶんじしん〉も抱えていくことになる。その〈じぶんじしん〉から逃げるためにもうひとりの〈じぶん〉はもっとたくましくなっていく。ひとがたくましくなるってそういう多面的な〈顔〉を身につけることなのかなって思うんですよ。すごくいい映画。
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