【感想】男ではなくて大人の返事する君にチョコレート革命起こす 俵万智
- 2014/07/18
- 06:33
男ではなくて大人の返事する君にチョコレート革命起こす 俵万智
【食べやすさとしての不倫チョコレートサラダ】
この歌をぱっとみたときにすぐに気がつくのは、「男ではなくて大人の返事する君」という「男」と「大人」の対比です。
この歌集『チョコレート革命』は、『失楽園』ブームなどの〈不倫ブーム〉の1997年に出された歌集ですが、もし〈不倫〉コードでこの歌を読むとするならば、語り手と〈不倫〉している「男」は、語り手をいさぎよく引き受ける「返事」をしなければいけなかったはずです。
ところが「男」は、「男」「女」という社会の枠組みを超越するような恋愛コードではなくて、あくまで大人の恋愛としての不倫コードを適用する「大人の返事」しかしない。〈不倫〉がひっくりかえるには社会の〈法〉を超えるような超越的な男女関係(『失楽園』の最後のシーンにあるようなお互い素っ裸で局部を結合させたままの心中、つまり「男・女」としてはあまりにも〈正しい・まっとう〉なセクシュアリティのままの終焉、そう考えると〈不倫〉とは〈正しい〉男女規範をいかに成就させるかにあるようにも思えます)にならなければならないと思うんですが、「大人の返事」する「君」では、「大人」対「大人」の構図しかもてないため〈不倫〉の枠組みも超越できません。
つまり、語り手の「チョコレート革命」とは、おそらく「大人対大人」の図式を「男対女」の構図に転覆させるような「革命」なのではないかと思います。ただここで面白いのはそうした「革命」に「チョコレート」という日常的に誰もが口にできるような〈お菓子〉の記号がつくことによって、〈不倫の超越〉の主題が日常的な口にしやすいかたちのレベル、だれもが享受しやすいレベルにおとされていることです。つまり、日常的に口にしやすいものを社会的規範を超越する〈革命〉に接合することによって、〈不倫〉による〈超越〉〈審判〉も誰もが口にしやすい〈お菓子〉にしたというところが俵万智さんの〈受け入れやすさ〉=〈普遍性〉だったのではないかとおもうのです。
俵万智さんの有名なうたで、
焼肉とグラタンが好きという少女よ私はあなたのお父さんが好き 俵万智
といううたがありますが、やはり誰もがくちにしている〈食べ物〉をもってくることによって〈不倫〉のうたでありつつも、読み手に〈不倫〉の力点だけをもたせない〈食べ物〉のレベルにもおとすうたになっています。〈不倫〉をだれもがするわけではないし理解できるわけではないけれど、「焼き肉とグラタン」ならばだれもが食べるし、理解できるからです。
こんなふうに日常的なありふれた食べ物が、規範の逸脱という大きな越境とセットにされることによって読み手がうけいれやすい〈文化記号〉にしてしまう。それが俵万智短歌の〈革命〉だったのではないでしょうか。
たとえば、俵万智さんの有名な、あの、あえて〈七夕〉をずらしつつも、〈サラダ〉から〈記念日〉を特権化し普遍化したこんな歌にもわたしは〈不倫の食べやすさ〉の歌をみるのもありなのかなとおもいます。なぜなら〈七夕〉という家族に特権的な〈記念日〉には語り手は「君」に会うことはできないはずだからです。七夕には会えない君との「七月六日」だからこそ語り手はみずから「記念日」をつくらなければいけない。しかしじぶんだけの記念日であってはいけない。それはだれもが共感し、理解し、サラダのように享受できる、しつこくない、ライトな感覚の記念日でなければいけない。普遍化すればするほど、おそらく、〈わたしとあなた〉の〈記念日〉は同じ「食べること」と「うたうこと」を主題化する〈くちびる〉にのこっていくだろうから。それが「男と女のチョコレート革命」になるはずなのだから。すなわち、
「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日 俵万智
【食べやすさとしての不倫チョコレートサラダ】
この歌をぱっとみたときにすぐに気がつくのは、「男ではなくて大人の返事する君」という「男」と「大人」の対比です。
この歌集『チョコレート革命』は、『失楽園』ブームなどの〈不倫ブーム〉の1997年に出された歌集ですが、もし〈不倫〉コードでこの歌を読むとするならば、語り手と〈不倫〉している「男」は、語り手をいさぎよく引き受ける「返事」をしなければいけなかったはずです。
ところが「男」は、「男」「女」という社会の枠組みを超越するような恋愛コードではなくて、あくまで大人の恋愛としての不倫コードを適用する「大人の返事」しかしない。〈不倫〉がひっくりかえるには社会の〈法〉を超えるような超越的な男女関係(『失楽園』の最後のシーンにあるようなお互い素っ裸で局部を結合させたままの心中、つまり「男・女」としてはあまりにも〈正しい・まっとう〉なセクシュアリティのままの終焉、そう考えると〈不倫〉とは〈正しい〉男女規範をいかに成就させるかにあるようにも思えます)にならなければならないと思うんですが、「大人の返事」する「君」では、「大人」対「大人」の構図しかもてないため〈不倫〉の枠組みも超越できません。
つまり、語り手の「チョコレート革命」とは、おそらく「大人対大人」の図式を「男対女」の構図に転覆させるような「革命」なのではないかと思います。ただここで面白いのはそうした「革命」に「チョコレート」という日常的に誰もが口にできるような〈お菓子〉の記号がつくことによって、〈不倫の超越〉の主題が日常的な口にしやすいかたちのレベル、だれもが享受しやすいレベルにおとされていることです。つまり、日常的に口にしやすいものを社会的規範を超越する〈革命〉に接合することによって、〈不倫〉による〈超越〉〈審判〉も誰もが口にしやすい〈お菓子〉にしたというところが俵万智さんの〈受け入れやすさ〉=〈普遍性〉だったのではないかとおもうのです。
俵万智さんの有名なうたで、
焼肉とグラタンが好きという少女よ私はあなたのお父さんが好き 俵万智
といううたがありますが、やはり誰もがくちにしている〈食べ物〉をもってくることによって〈不倫〉のうたでありつつも、読み手に〈不倫〉の力点だけをもたせない〈食べ物〉のレベルにもおとすうたになっています。〈不倫〉をだれもがするわけではないし理解できるわけではないけれど、「焼き肉とグラタン」ならばだれもが食べるし、理解できるからです。
こんなふうに日常的なありふれた食べ物が、規範の逸脱という大きな越境とセットにされることによって読み手がうけいれやすい〈文化記号〉にしてしまう。それが俵万智短歌の〈革命〉だったのではないでしょうか。
たとえば、俵万智さんの有名な、あの、あえて〈七夕〉をずらしつつも、〈サラダ〉から〈記念日〉を特権化し普遍化したこんな歌にもわたしは〈不倫の食べやすさ〉の歌をみるのもありなのかなとおもいます。なぜなら〈七夕〉という家族に特権的な〈記念日〉には語り手は「君」に会うことはできないはずだからです。七夕には会えない君との「七月六日」だからこそ語り手はみずから「記念日」をつくらなければいけない。しかしじぶんだけの記念日であってはいけない。それはだれもが共感し、理解し、サラダのように享受できる、しつこくない、ライトな感覚の記念日でなければいけない。普遍化すればするほど、おそらく、〈わたしとあなた〉の〈記念日〉は同じ「食べること」と「うたうこと」を主題化する〈くちびる〉にのこっていくだろうから。それが「男と女のチョコレート革命」になるはずなのだから。すなわち、
「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日 俵万智
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