【お知らせ】あとがき「すべては水の工房で起こった-水で書いたあとがき-」(野間幸恵『WATER WAX』あざみエージェント)
- 2016/04/01
- 21:57
霧ひとつ水ひとつ置く誕生日 野間幸恵
先日発売された野間幸恵さんの第三句集『WATER WAX』(あざみエージェント、2016年1月)の「あとがき」を書かせていただきました。野間さん、ありがとうございました。
序文は筑網耕平さんが書かれているんですが、筑網さんの次の言葉が野間さんの俳句の質感をとてもよくあらわしていると思うんですね。
「言語」をあたかもワンショットのように使いながら、かつ、イメージの立ち上がりを極小化している。「言語」そのものを意図的に麻痺させているような感さえ覚える。この「言語」によるショット感覚は、俳句形式という前提なしにはなしえない。
つまり、野間さんの俳句は〈イメージの生成〉に向かわずに、たえず〈言語〉の領域に踏みとどまっているのだと。わたしたちは言語と言語でなにか言語的関係を打ち立てた場合、そこにイメージを生成しやすくしてしまうのだけれど、それを野間さんの俳句はできるだけ〈阻害〉していく。そういう言語の切り立った崖のような場所にぎりぎり踏みとどまりつづける。それが野間さんの俳句なんじゃないかと。
筑網さんは、だけれども野間さんの俳句というのは決して無機質の孤独な〈工房〉で言語実験的につくっている句わけでもない、ともいうわけです。それはたぶん野間さんの俳句の語り手がイメージをつくらないようにしつつも、語り手と言葉が関係をつむぎあっていることが感じ取れるからだと思うんです。どこかで語り手とことばは〈仲良く〉もしている。〈密会〉のように。
その筑網さんの〈工房〉という言葉をみたときに、ああそうか、もしかしたらここにあるのは無機的な工房ではなく、〈有機的な工房〉かもしれないなと思って、そこから〈水の工房〉としての「あとがき」を書き始めました。ここにあるのは、有機的な工房であり、そこにいたのは有機物をあつかう錬金術師だったのだ、と。
だからこの「あとがき」は筑網耕平さんの「序文」からヒントをいただき、そして野間さんの俳句の水中深くを潜水し、泳ぎ抜けたあとで、書いたものです。
機会がありましたらお読みいただけると嬉しいです。
正しさの水路を走るメンソレータム 野間幸恵
先日発売された野間幸恵さんの第三句集『WATER WAX』(あざみエージェント、2016年1月)の「あとがき」を書かせていただきました。野間さん、ありがとうございました。
序文は筑網耕平さんが書かれているんですが、筑網さんの次の言葉が野間さんの俳句の質感をとてもよくあらわしていると思うんですね。
「言語」をあたかもワンショットのように使いながら、かつ、イメージの立ち上がりを極小化している。「言語」そのものを意図的に麻痺させているような感さえ覚える。この「言語」によるショット感覚は、俳句形式という前提なしにはなしえない。
つまり、野間さんの俳句は〈イメージの生成〉に向かわずに、たえず〈言語〉の領域に踏みとどまっているのだと。わたしたちは言語と言語でなにか言語的関係を打ち立てた場合、そこにイメージを生成しやすくしてしまうのだけれど、それを野間さんの俳句はできるだけ〈阻害〉していく。そういう言語の切り立った崖のような場所にぎりぎり踏みとどまりつづける。それが野間さんの俳句なんじゃないかと。
筑網さんは、だけれども野間さんの俳句というのは決して無機質の孤独な〈工房〉で言語実験的につくっている句わけでもない、ともいうわけです。それはたぶん野間さんの俳句の語り手がイメージをつくらないようにしつつも、語り手と言葉が関係をつむぎあっていることが感じ取れるからだと思うんです。どこかで語り手とことばは〈仲良く〉もしている。〈密会〉のように。
その筑網さんの〈工房〉という言葉をみたときに、ああそうか、もしかしたらここにあるのは無機的な工房ではなく、〈有機的な工房〉かもしれないなと思って、そこから〈水の工房〉としての「あとがき」を書き始めました。ここにあるのは、有機的な工房であり、そこにいたのは有機物をあつかう錬金術師だったのだ、と。
だからこの「あとがき」は筑網耕平さんの「序文」からヒントをいただき、そして野間さんの俳句の水中深くを潜水し、泳ぎ抜けたあとで、書いたものです。
機会がありましたらお読みいただけると嬉しいです。
正しさの水路を走るメンソレータム 野間幸恵
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