【感想】幽霊になりたてだからドアや壁すり抜けるときおめめ閉じちゃう 木下龍也
- 2014/07/21
- 00:30
幽霊になりたてだからドアや壁すり抜けるときおめめ閉じちゃう 木下龍也
【2014年、ドアや壁への旅】
すごくおもしろい歌だとおもってあれこれかんがえていたんですが、この歌のおもしろさのひとつは「おめめ」と発話することによって〈赤ん坊言説〉をひきこんでいることなんではないかと思うんですね。
まず初句・2句で、「幽霊になりたてだから」と語られているように語り手は幽霊になったばかりです。つまり、生きているとはちがったかたちで幽霊の〈生態〉としてこれまでの〈生の文法〉=「環世界」(ユクスキュル)を組み立てなおさなければならないのがこの語り手です。
しかしそうはいってもまだ生きていたときの〈生の文法〉が残っており、「ドアや壁すり抜けるとき」に眼を閉じてしまっています。
ここで「眼」ではなく「おめめ」という幼児語として「眼」が発話されたときに、語り手が幽霊として生まれたての世界でいきていることが、語り手がはじめてこの世に生をうけた赤ん坊のときの記憶としてオーバーラップしているのではないかとわたしは思います。
つまり、語り手はもういちどゼロから世界を幽霊ではありながらも生き直すことをはじめているのですが、しかしそのとき同時に語り手にとっては、生前の赤ん坊からの記憶の総体のトレースもまた再起動されはじめているのです。
つまり、この語り手にとって、死後を生きていくということとは、生前を生きなおすことでもあるのではないかとわたしはおもうのです。
そういえば、木下さんの短歌には、もうひとつおなじことをちがったかたちで描いている歌があります。
それもまた〈おにぎり〉としての死後の存在様式が〈おにぎり〉を微分化することによって、〈意味としての生前〉に還元されゆく様相をうたった短歌ではないかとわたしはおもうのです。
鮭の死を米で包んでまたさらに海苔で包んだあれが食べたい 木下龍也
【2014年、ドアや壁への旅】
すごくおもしろい歌だとおもってあれこれかんがえていたんですが、この歌のおもしろさのひとつは「おめめ」と発話することによって〈赤ん坊言説〉をひきこんでいることなんではないかと思うんですね。
まず初句・2句で、「幽霊になりたてだから」と語られているように語り手は幽霊になったばかりです。つまり、生きているとはちがったかたちで幽霊の〈生態〉としてこれまでの〈生の文法〉=「環世界」(ユクスキュル)を組み立てなおさなければならないのがこの語り手です。
しかしそうはいってもまだ生きていたときの〈生の文法〉が残っており、「ドアや壁すり抜けるとき」に眼を閉じてしまっています。
ここで「眼」ではなく「おめめ」という幼児語として「眼」が発話されたときに、語り手が幽霊として生まれたての世界でいきていることが、語り手がはじめてこの世に生をうけた赤ん坊のときの記憶としてオーバーラップしているのではないかとわたしは思います。
つまり、語り手はもういちどゼロから世界を幽霊ではありながらも生き直すことをはじめているのですが、しかしそのとき同時に語り手にとっては、生前の赤ん坊からの記憶の総体のトレースもまた再起動されはじめているのです。
つまり、この語り手にとって、死後を生きていくということとは、生前を生きなおすことでもあるのではないかとわたしはおもうのです。
そういえば、木下さんの短歌には、もうひとつおなじことをちがったかたちで描いている歌があります。
それもまた〈おにぎり〉としての死後の存在様式が〈おにぎり〉を微分化することによって、〈意味としての生前〉に還元されゆく様相をうたった短歌ではないかとわたしはおもうのです。
鮭の死を米で包んでまたさらに海苔で包んだあれが食べたい 木下龍也
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