【お知らせ】「【短詩時評 17○】歌集の冒険-中家菜津子歌集『うずく、まる』批評会レポート@中野サンプラザ-」『BLOG俳句新空間 第41号』
- 2016/04/22
- 00:57
『 BLOG俳句新空間 第41号』にて「【短詩時評 17○】歌集の冒険-中家菜津子歌集『うずく、まる』批評会レポート@中野サンプラザ-」という文章を載せていただきました。『BLOG俳句新空間』編集部にお礼申し上げます。ありがとうございました!
お時間のあるときにお読みくだされば、さいわいです。
「星が生まれる時、澄んでひかりながらしたたり落ちたものの重さを知らないのですね」
「術日を決めましょう」
うずく、まる
「わたくしはおんなとして星であるべき身体なのです」
(中家菜津子『うずく、まる』書肆侃侃房、2015年)
今回の批評会で野村喜和夫さん加藤治郎さんの対談、パネラーの方々の分析、その後のオーディエンスの方のコメントと、とてもいろんなことが勉強になったし考えさせられたのですが、全体としてふりかえって思うのは、歌集っていう《場所性》だったんですね。
パネラーの染野太朗さんが「ステレオタイプの価値観」を軸に話されていたと思うんですが、でもそれを割り切ってお話されるというよりは、《どうしてそう感じるんだろう》とオーディエンスに問いかけるかたちで話されていた。たとえば、「ステレオタイプ」でありながらも、きみょうな「一息の長さのしらべ」とかそういう割り切れないものが出てくる。染野太朗さんは「こわい」という一言でお話を締めくくられていたんだけれど、《こわい》という感情って割り切れなさを胚胎しているのではないかとも思うんですよ。《こう》思うんだけれど、いっぽうで、《こう》思い切れない枝葉もあるというか。あくまでわたしの当日の記憶と印象なのですが。
そのときちょっとそれはこの中家さんの『うずく、まる』の表紙絵のゴッホの「星月夜」みたいだなあって思ったんです。そこにはうずが描かれている。夜のなかにいくつも○が描かれているんだけれど、でもそれがどろどろしたうずになることによってすっと割り切れない割り切れなさがでてくる。ある意味、《こわいうず》なんですね。なんだろう、と。
でも当日パネラーのかたがたのお話をききながら、歌集ってそういう《うず》のなかでじぶんがどのように巻き込まれたかを体験する場所なのかなともおもったんです。短歌のコードからはこんなうずにみえた、詩のコードからはこんなうずにみえた。それはめいめいがどのようなコードを用意するかでそのうずの巻き込まれ方も変わってくる。
ちょっとそんなふうにもおもいました。さいきん、句集ができあがる過程に関わらせていただくことがあって、そのときに、やっぱり出てくる問題は、《全体性》とどう作り手が向き合っていくことなのかなっておもったんです。一首や一句ではぜったいにでてこなかった《全体性》があからさまにでてくる。それがもしかしたら《作家性》というものなのかもしれないともおもうんです。そしてその《作家性》は読み手もぐるぐると巻き込まれていく《うず》なんです。だから、場所としてある。
そんなふうに、おもったんです。嵐のなかの突風うず巻く中野において。
ポウの小説に『大渦にのまれて』というのがあります。
船が渦巻きに吸いこまれて難破して、どんどん渦の中心に巻きこまれていく。そのとき主人公は、容積の大きいものは流れが遅いということを見出します。これは「関係」の認識です。そこで彼は大きな木片にしがみつき、渦が終るまでの時間を稼ごうとする。その結果、助かるわけです。この小説で「渦の中にいる」ということ、それを坂口安吾の文脈でいうと、人間関係のムチャクチャなどろどろしたところにいる、つまり盲目的な場所にいるということと同じですね。したがって、われわれが生きているということと同義であって、そういう中で、意識化できるところを意識化しようとする。だからといって、それでもって渦巻きを止めてしまうことはできない。しかし、その中においても可能なことはある。それは関係を考察することです。その関係を考察することで、渦というものから多少は逃れられる。それが詩を書くということの意識化とつながっています。
柄谷行人『言葉と悲劇』
(後日、中野で撮ったもの。)
お時間のあるときにお読みくだされば、さいわいです。
「星が生まれる時、澄んでひかりながらしたたり落ちたものの重さを知らないのですね」
「術日を決めましょう」
うずく、まる
「わたくしはおんなとして星であるべき身体なのです」
(中家菜津子『うずく、まる』書肆侃侃房、2015年)
今回の批評会で野村喜和夫さん加藤治郎さんの対談、パネラーの方々の分析、その後のオーディエンスの方のコメントと、とてもいろんなことが勉強になったし考えさせられたのですが、全体としてふりかえって思うのは、歌集っていう《場所性》だったんですね。
パネラーの染野太朗さんが「ステレオタイプの価値観」を軸に話されていたと思うんですが、でもそれを割り切ってお話されるというよりは、《どうしてそう感じるんだろう》とオーディエンスに問いかけるかたちで話されていた。たとえば、「ステレオタイプ」でありながらも、きみょうな「一息の長さのしらべ」とかそういう割り切れないものが出てくる。染野太朗さんは「こわい」という一言でお話を締めくくられていたんだけれど、《こわい》という感情って割り切れなさを胚胎しているのではないかとも思うんですよ。《こう》思うんだけれど、いっぽうで、《こう》思い切れない枝葉もあるというか。あくまでわたしの当日の記憶と印象なのですが。
そのときちょっとそれはこの中家さんの『うずく、まる』の表紙絵のゴッホの「星月夜」みたいだなあって思ったんです。そこにはうずが描かれている。夜のなかにいくつも○が描かれているんだけれど、でもそれがどろどろしたうずになることによってすっと割り切れない割り切れなさがでてくる。ある意味、《こわいうず》なんですね。なんだろう、と。
でも当日パネラーのかたがたのお話をききながら、歌集ってそういう《うず》のなかでじぶんがどのように巻き込まれたかを体験する場所なのかなともおもったんです。短歌のコードからはこんなうずにみえた、詩のコードからはこんなうずにみえた。それはめいめいがどのようなコードを用意するかでそのうずの巻き込まれ方も変わってくる。
ちょっとそんなふうにもおもいました。さいきん、句集ができあがる過程に関わらせていただくことがあって、そのときに、やっぱり出てくる問題は、《全体性》とどう作り手が向き合っていくことなのかなっておもったんです。一首や一句ではぜったいにでてこなかった《全体性》があからさまにでてくる。それがもしかしたら《作家性》というものなのかもしれないともおもうんです。そしてその《作家性》は読み手もぐるぐると巻き込まれていく《うず》なんです。だから、場所としてある。
そんなふうに、おもったんです。嵐のなかの突風うず巻く中野において。
ポウの小説に『大渦にのまれて』というのがあります。
船が渦巻きに吸いこまれて難破して、どんどん渦の中心に巻きこまれていく。そのとき主人公は、容積の大きいものは流れが遅いということを見出します。これは「関係」の認識です。そこで彼は大きな木片にしがみつき、渦が終るまでの時間を稼ごうとする。その結果、助かるわけです。この小説で「渦の中にいる」ということ、それを坂口安吾の文脈でいうと、人間関係のムチャクチャなどろどろしたところにいる、つまり盲目的な場所にいるということと同じですね。したがって、われわれが生きているということと同義であって、そういう中で、意識化できるところを意識化しようとする。だからといって、それでもって渦巻きを止めてしまうことはできない。しかし、その中においても可能なことはある。それは関係を考察することです。その関係を考察することで、渦というものから多少は逃れられる。それが詩を書くということの意識化とつながっています。
柄谷行人『言葉と悲劇』
(後日、中野で撮ったもの。)
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