【短歌】プリントを…(東京新聞・東京歌壇2016年4月24日・東直子 選)
- 2016/04/24
- 20:05
プリントをほのぼのまわす風景をきみの明日の基礎にしなさい 柳本々々
(東京新聞・東京歌壇2016年4月24日・東直子 選)
【未満(ゼリー)の風景】
まなざしはゼリーぢーつとしてゐると 小津夜景
ぷろぺらのぷるんぷるんと宵の春 〃
要はどう死ぬかなのよねワインゼリー 池田澄子
ミルクゼリーコーヒーゼリー君は謎 佐々木貴子
そういうきれいな言葉は、自分じゃぜったいに食べないフルーツゼリーみたいなものなんだな チェーホフ『かもめ』
小澤英実はクリステヴァのアブジェクションの概念を使い、「人間の体液や排泄物や吐瀉物や経血が穢れとされ、ひいては出産を司る女の身体が最大の禁忌とされ棄却される」といい、その表れが女の幽霊と水の結びつきだとする 西山智則『恐怖の君臨』
俳句を読んで驚いたり心を揺すぶられたり気持ちがよくなったりするのは、たまたま「そこ」に生起した(ゆえに「そこ」にしかない)「それ」を見せられたとき 西原天気「コモエスタ三鬼28 偶然と固有性」
夜景さんの俳句をずっと読んでいたときに、ゼリー的な句が多いというか、意味になる一歩手前の句が多いのかなと思ったんですね。風景になる前の風景がつづられていくというか。
で、クリステヴァにアブジェクシオンという考え方があって、たしかわたしの理解では、《ひとは主体化するためにどろどろしたものを捨てる、いみきらう》というようなことだったんじゃないかとおもうんです。あいまいなもの、境界をゆらゆらさせるものをひとはいやがって、どこかに押し込めようとする。そうする身振りによってひとはじぶんのしっかりした主体をうちたてる。たとえば牛乳の粘膜のようなあいまいなものをいやがるということです。
でも、そういうひとが主体化するために捨てたものを夜景さんは俳句でひろおうとしているのではないかっておもうんです。
ゼリーの句が象徴的だと思うんですが、夜景さんの俳句のなかでは《まなざし》=見ることっていうのは記述的に確定することではなくて、《ゼリー化させる》ことだとおもうんですよ。《ぢーつとしてゐると》ってこれはたぶん《写生》をしようとしているんだとおもうんですね。でもその写生がアブジェクシオン(棄却)して主体化する《しっかりとした観察者》にはならないで、アブジェクシオンしてしまったものを《いま》かきあつめてゼリーにしちゃおうという《ゼリー化する行為者》のほうに向いていく。それが夜景さんの俳句なんじゃないか。だから、見ることが行為につながっていく。だから、夜景さんの俳句ってアクションがおおいんじゃないかとおもうんですよ。
もしあえてわたしなりに夜景さんの俳句の全体的なコンセプトをひとことでいうなら、《ゼリー的回収》なんじゃないかとおもうんです。それはいつもべつのかたちの。それはいつも語りそこねたかたちの。
別のかたちだけど生きてゐますから 小津夜景
語りそこなつたひとつの手をにぎる 〃
小路くんの髭にちかって紅い海にずっと眠ってずっと笑うの 東直子
(東京新聞・東京歌壇2016年4月24日・東直子 選)
【未満(ゼリー)の風景】
まなざしはゼリーぢーつとしてゐると 小津夜景
ぷろぺらのぷるんぷるんと宵の春 〃
要はどう死ぬかなのよねワインゼリー 池田澄子
ミルクゼリーコーヒーゼリー君は謎 佐々木貴子
そういうきれいな言葉は、自分じゃぜったいに食べないフルーツゼリーみたいなものなんだな チェーホフ『かもめ』
小澤英実はクリステヴァのアブジェクションの概念を使い、「人間の体液や排泄物や吐瀉物や経血が穢れとされ、ひいては出産を司る女の身体が最大の禁忌とされ棄却される」といい、その表れが女の幽霊と水の結びつきだとする 西山智則『恐怖の君臨』
俳句を読んで驚いたり心を揺すぶられたり気持ちがよくなったりするのは、たまたま「そこ」に生起した(ゆえに「そこ」にしかない)「それ」を見せられたとき 西原天気「コモエスタ三鬼28 偶然と固有性」
夜景さんの俳句をずっと読んでいたときに、ゼリー的な句が多いというか、意味になる一歩手前の句が多いのかなと思ったんですね。風景になる前の風景がつづられていくというか。
で、クリステヴァにアブジェクシオンという考え方があって、たしかわたしの理解では、《ひとは主体化するためにどろどろしたものを捨てる、いみきらう》というようなことだったんじゃないかとおもうんです。あいまいなもの、境界をゆらゆらさせるものをひとはいやがって、どこかに押し込めようとする。そうする身振りによってひとはじぶんのしっかりした主体をうちたてる。たとえば牛乳の粘膜のようなあいまいなものをいやがるということです。
でも、そういうひとが主体化するために捨てたものを夜景さんは俳句でひろおうとしているのではないかっておもうんです。
ゼリーの句が象徴的だと思うんですが、夜景さんの俳句のなかでは《まなざし》=見ることっていうのは記述的に確定することではなくて、《ゼリー化させる》ことだとおもうんですよ。《ぢーつとしてゐると》ってこれはたぶん《写生》をしようとしているんだとおもうんですね。でもその写生がアブジェクシオン(棄却)して主体化する《しっかりとした観察者》にはならないで、アブジェクシオンしてしまったものを《いま》かきあつめてゼリーにしちゃおうという《ゼリー化する行為者》のほうに向いていく。それが夜景さんの俳句なんじゃないか。だから、見ることが行為につながっていく。だから、夜景さんの俳句ってアクションがおおいんじゃないかとおもうんですよ。
もしあえてわたしなりに夜景さんの俳句の全体的なコンセプトをひとことでいうなら、《ゼリー的回収》なんじゃないかとおもうんです。それはいつもべつのかたちの。それはいつも語りそこねたかたちの。
別のかたちだけど生きてゐますから 小津夜景
語りそこなつたひとつの手をにぎる 〃
小路くんの髭にちかって紅い海にずっと眠ってずっと笑うの 東直子
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