【感想】自転車でいつも助けてくれた人 竹井紫乙
- 2016/04/25
- 19:14
自転車でいつも助けてくれた人 竹井紫乙
【認識(おそれ)と規定(おののき)】
俳句ってなんだろうって考えたときに、ひとつの俳句論として、《俳句とは簡潔な認識である》っていうのがあると思うんですね。ただふっと《認識》する。意味付けはしない。ただちらっと、ふっとみたものをそれそのままに提出する。そういう俳句論の流れがあるとおもうんです。認識なので物語にはならないのが俳句です。感情もそこには入ってこない。
で、じゃあ《認識》が俳句であるならば川柳はいったいどう考えることができるんだろうと考えたときに、川柳っていうのは《認識》に対して《規定》じゃないかと思うんです。川柳とは規定である、と。
で、これは《認識》となにが違うかというと《認識》っていうのは認識対象とは距離をとった中立なポジションなんですね。たとえば古池にあっ蛙が飛び込んだな、で終わりで、それ以上、たとえばじぶんも一緒に古池に飛び込んでいったりだとか、その蛙を抱きしめようとしたりだとかしはじめたらそれは《認識》をオーバーしてしまうというか、俳句としてトゥーマッチになってしまうようにおもうんです。
でも、川柳はその《認識》のオーバーした領域に踏み込んでいく。それはつまり、対象と、世界と関わっていくっていうことです。認識するだけでなく、それと関わりあっていく。だからじぶんみずからも中立な立場ではいられない。つまり世界や対象やみずからを《規定》していくということ。かかわっていくということ。それが川柳なんじゃないかとおもうんです(で、もっといえばこの《認識》+《規定》が短歌かもしれない)。
たとえばうえの紫乙さんの句だとやっぱり「人」と関わってしまっていると思うんですね。「自転車で」という手段や「いつも」という頻度や「助けてくれた」という親密性によってその「人」を認識するというよりは《規定》している。そしてその《規定》によって語っているじぶんじしんも《規定》している。それが川柳なんじゃないかとおもうんです。俳句では「自転車でいつも助けてくれた人」はいないんだけれど(もっといえば俳句では助けあうという積極的かかわり合いは認識の領分を守るならありえないんだけれど)、川柳では「自転車でいつも助けてくれた人」がでてくる。そういう領分の違いというものがあるんじゃないかと思うんです。
でももちろん一概にはいえないわけです。たとえば鴇田智哉さんや小津夜景さんや石原ユキオさんの俳句をみていると《認識》そのものが溶解していくような感じがある。というか俳句的認識そのものを俳句化しているような気さえ起きる。認識が溶解していって、対象とのヘンな距離感が《俳句》によって起動するその独特のしゅんかんがあらわれている。だから一概にはいえないんです。
でも、大きくとらえてみるとそういう俳句と川柳には《認識》と《規定》の違いがあるのかなあってしおとさんの『ひよこ』を読み返しながらおもったんです。『ひよこ』、すごくおもしろかったんですよ。絶望があって。希望があって。
すごくたいへんなハードな時代だけれども、でもこの絶望と希望をどっちもふくみあわせた世界としてできることをしていかなければいけないのかなっておもったんです。絶望と希望ってたぶんどちらも他者とかかわりあう分水嶺になっているとおもうから。
つるつるの哀しい体持て余す 竹井紫乙
三谷幸喜『笑の大学』(1996)。この芝居って〈笑い〉とはなんだろうっていうのが実際に笑いの側とアンチ笑いの側のふたりによって〈生きられ〉ながら規定されていく舞台劇なんです。まず笑いとは理論ではなく〈生きられる〉ものであると。そうした笑いを生きつつ学んでいくから〈大学〉になっている。でも最終的に大事なのはどこかでその規定した世界=笑いを受け取るひとがいないとだめなんだってところにたどりつく。その受け取るひとがたったひとりでもいいから。だからどんなときでもそのひとなりのやりかたでできるだけ生きていかなければならないということをこの戯曲は最後に見いだしているようにおもうんです。それがこの戯曲のたどりついた〈笑い〉だったようにおもうんです。笑いには笑わせる人間と笑う人間の〈ふたり〉の人間がいて、その〈ふたり〉がなんとかかんとかしてできることなら生きていこうとしなければならない。
【認識(おそれ)と規定(おののき)】
俳句ってなんだろうって考えたときに、ひとつの俳句論として、《俳句とは簡潔な認識である》っていうのがあると思うんですね。ただふっと《認識》する。意味付けはしない。ただちらっと、ふっとみたものをそれそのままに提出する。そういう俳句論の流れがあるとおもうんです。認識なので物語にはならないのが俳句です。感情もそこには入ってこない。
で、じゃあ《認識》が俳句であるならば川柳はいったいどう考えることができるんだろうと考えたときに、川柳っていうのは《認識》に対して《規定》じゃないかと思うんです。川柳とは規定である、と。
で、これは《認識》となにが違うかというと《認識》っていうのは認識対象とは距離をとった中立なポジションなんですね。たとえば古池にあっ蛙が飛び込んだな、で終わりで、それ以上、たとえばじぶんも一緒に古池に飛び込んでいったりだとか、その蛙を抱きしめようとしたりだとかしはじめたらそれは《認識》をオーバーしてしまうというか、俳句としてトゥーマッチになってしまうようにおもうんです。
でも、川柳はその《認識》のオーバーした領域に踏み込んでいく。それはつまり、対象と、世界と関わっていくっていうことです。認識するだけでなく、それと関わりあっていく。だからじぶんみずからも中立な立場ではいられない。つまり世界や対象やみずからを《規定》していくということ。かかわっていくということ。それが川柳なんじゃないかとおもうんです(で、もっといえばこの《認識》+《規定》が短歌かもしれない)。
たとえばうえの紫乙さんの句だとやっぱり「人」と関わってしまっていると思うんですね。「自転車で」という手段や「いつも」という頻度や「助けてくれた」という親密性によってその「人」を認識するというよりは《規定》している。そしてその《規定》によって語っているじぶんじしんも《規定》している。それが川柳なんじゃないかとおもうんです。俳句では「自転車でいつも助けてくれた人」はいないんだけれど(もっといえば俳句では助けあうという積極的かかわり合いは認識の領分を守るならありえないんだけれど)、川柳では「自転車でいつも助けてくれた人」がでてくる。そういう領分の違いというものがあるんじゃないかと思うんです。
でももちろん一概にはいえないわけです。たとえば鴇田智哉さんや小津夜景さんや石原ユキオさんの俳句をみていると《認識》そのものが溶解していくような感じがある。というか俳句的認識そのものを俳句化しているような気さえ起きる。認識が溶解していって、対象とのヘンな距離感が《俳句》によって起動するその独特のしゅんかんがあらわれている。だから一概にはいえないんです。
でも、大きくとらえてみるとそういう俳句と川柳には《認識》と《規定》の違いがあるのかなあってしおとさんの『ひよこ』を読み返しながらおもったんです。『ひよこ』、すごくおもしろかったんですよ。絶望があって。希望があって。
すごくたいへんなハードな時代だけれども、でもこの絶望と希望をどっちもふくみあわせた世界としてできることをしていかなければいけないのかなっておもったんです。絶望と希望ってたぶんどちらも他者とかかわりあう分水嶺になっているとおもうから。
つるつるの哀しい体持て余す 竹井紫乙
三谷幸喜『笑の大学』(1996)。この芝居って〈笑い〉とはなんだろうっていうのが実際に笑いの側とアンチ笑いの側のふたりによって〈生きられ〉ながら規定されていく舞台劇なんです。まず笑いとは理論ではなく〈生きられる〉ものであると。そうした笑いを生きつつ学んでいくから〈大学〉になっている。でも最終的に大事なのはどこかでその規定した世界=笑いを受け取るひとがいないとだめなんだってところにたどりつく。その受け取るひとがたったひとりでもいいから。だからどんなときでもそのひとなりのやりかたでできるだけ生きていかなければならないということをこの戯曲は最後に見いだしているようにおもうんです。それがこの戯曲のたどりついた〈笑い〉だったようにおもうんです。笑いには笑わせる人間と笑う人間の〈ふたり〉の人間がいて、その〈ふたり〉がなんとかかんとかしてできることなら生きていこうとしなければならない。
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