あとがきの草原。
- 2014/07/20
- 13:16
すべての文章は、あとがきだとも、ときどき、おもう。
前方につらなる言語表現につらなる言語表現として、ひとは、〈あとがき〉としての表現をつづけていくのではないのか、と。
すべての表現は、過去の、現在の、未来のありとある表現の〈あとがき〉である。
たぶん。
あとがき。
わたしが本の「あとがき」を好きな理由はたくさんあるのだけれど、ひとつにはその本を書いているひとがとつぜん〈靴を脱いで裸足になる〉からである。
だからわたしはいつも本の「あとがき」に〈玄関〉をみている。
ここからなら、入れそうだな、とおもっている。
みな、靴を脱いでいるのだから、靴を脱いでもとがめられないだろうな、ってわたしはおもう。
寝ころんで、あしをばたばたさせながら、はらばいになって読んでいても、この「あとがき」という場所においてなら、すくなくとも怒られることはないだろう、っておもう。
わたしたちは本の表紙ではじめて〈書き手〉にであう。やあ、といわれる。読むのかい?、と。かしこまった〈やあ〉、だ。
しかし、「あとがき」で、わたしたちは、ふたたび、〈書き手〉に、再会する。こんどのは、やわらかい〈やあ〉だ。読んだのかい?、と書き手はいう。
でも、ちゃんと読んでも読んでなくてもどちらでもいいよ。気になったらまた読んでくれたらいいんだし、とりあえず入りなよ。
あとがきでであう書き手は、なぜか、みな、やさしい。
はだしとは、たぶん、やさしさなのだ。
そしてこの世界には、おそらく、はだしで書かれる文章があって、それが事後的に〈あとがき〉と呼ばれたりするのだ。
あとがきを読み終えると、またあたらしい靴がある。
わたしは、はいてみる。そうすると、すぐにつぎのあとがきへつづく、草原が、ある。あたらしくて、ずっとむかしからあった、あとがきの系譜のつづく草原。
前方につらなる言語表現につらなる言語表現として、ひとは、〈あとがき〉としての表現をつづけていくのではないのか、と。
すべての表現は、過去の、現在の、未来のありとある表現の〈あとがき〉である。
たぶん。
あとがき。
わたしが本の「あとがき」を好きな理由はたくさんあるのだけれど、ひとつにはその本を書いているひとがとつぜん〈靴を脱いで裸足になる〉からである。
だからわたしはいつも本の「あとがき」に〈玄関〉をみている。
ここからなら、入れそうだな、とおもっている。
みな、靴を脱いでいるのだから、靴を脱いでもとがめられないだろうな、ってわたしはおもう。
寝ころんで、あしをばたばたさせながら、はらばいになって読んでいても、この「あとがき」という場所においてなら、すくなくとも怒られることはないだろう、っておもう。
わたしたちは本の表紙ではじめて〈書き手〉にであう。やあ、といわれる。読むのかい?、と。かしこまった〈やあ〉、だ。
しかし、「あとがき」で、わたしたちは、ふたたび、〈書き手〉に、再会する。こんどのは、やわらかい〈やあ〉だ。読んだのかい?、と書き手はいう。
でも、ちゃんと読んでも読んでなくてもどちらでもいいよ。気になったらまた読んでくれたらいいんだし、とりあえず入りなよ。
あとがきでであう書き手は、なぜか、みな、やさしい。
はだしとは、たぶん、やさしさなのだ。
そしてこの世界には、おそらく、はだしで書かれる文章があって、それが事後的に〈あとがき〉と呼ばれたりするのだ。
あとがきを読み終えると、またあたらしい靴がある。
わたしは、はいてみる。そうすると、すぐにつぎのあとがきへつづく、草原が、ある。あたらしくて、ずっとむかしからあった、あとがきの系譜のつづく草原。
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