【ふしぎな川柳 第九十夜】恣意的なおはよう-兵頭全郎-
- 2016/04/28
- 01:13
おはようございます ※個人の感想です 兵頭全郎
【意味の法律家】
兵頭全郎さんの句集『n≠0』からの一句です。
全郎さんの川柳ってすごく難しいなと思っていて、でも私がちょっと思うのは、全郎さんの川柳から川柳論のようなものをたちあげていくと、すごく新しい川柳論ができるんじゃないかなと思ってるんですね。これは直観なんですが。
で、なんでそう思うかというと、あんまり他ジャンルの手法が〈もちこみ〉で使えないというか、既存の読み解きの方法があんまり使えないようになっている川柳なんじゃないかと思うんです。これはたびたび書いてきたことでもあるんですが。
それでも自分なりにこの句集を読むための〈とっかかり〉をさがしていたときに私にとってはこの「おはようございます」の句なんじゃないかと思ったんですね。
これってどういう句かというと、〈挨拶を相対化する〉句なんですね。「おはようございます」って一応、普遍的ですよね。「おはよう」って言えば、「それってどういうこと?」とは問われないわけです。ある意味、絶対的な発話が挨拶なんですが、この句では「※」で注釈がついていて「個人の感想です」と断られている。だから挨拶の絶対性が奪われて、〈個人的〉な〈感想〉にしかすぎなくなっているわけです。
つまり、「おはようございます」が「おはようございます」でありつつも「おはようございます」でない状態になっているんです。ただあくまでそれは〈個人的〉に「個人の感想」にしかすぎないわけで、その〈恣意性〉は徹頭徹尾〈恣意的〉なわけですよ。「個人/感想」っていう。
で、わたしちょっと思うんですが、全郎さんが川柳を通して問いかけていることのひとつが〈恣意性の耐久性〉なんじゃないかと思うんですよ。〈恣意性〉って「個人」の尺度でものごとを組み立てていくことですが、あまりにも恣意的にすぎると誰も意味がわからなくなるわけです。やりたいようにしすぎると。で、川柳っていうジャンルは実はこの〈恣意性〉とどう向き合うかがひとつの鍵になっているジャンルなのかなとも思うんです(それは最近流行った新聞コラージュ川柳みたいに恣意的に言葉を組み立てるとある程度《意味の冒険》ができてしまうから)。
だからそのときわれわれに問われているのは、どのようにその《恣意性》のなかに「おはようございます」のような絶対的な言説を持ち込めるかどうか、だと思うんですよ。
で、全郎さんの句集のタイトル『n≠0』が象徴的だと思うんだけれども、「n」って任意の数ですよね。恣意性なんですよ。なにを入れてもいい。でもそこに「≠0」が加わっている。0、ではない。どんなに恣意性があろうともそこには絶対性が加味されている。川柳の構造ってこういう恣意性への絶対性の加味なのかなっておもうんです。
で、川柳はわたしは《意味のアナーキズム》がとても魅力的だと思うんですが、この全郎さんの句集から教えてもらったのは、いやそれだけじゃないんだ、その《アナーキズム》のなかにどんなふうに《法》を密輸するかが大事なんだ、ってことなんじゃないかと思うんです。ただアナーキーに意味の冒険をしていればいいわけじゃなくて、そのなかでじぶんなりの《法》をたてていく。そうすると《川柳》としての《表現》がうまれてくるんじゃないかなとおもうんです。
川柳って、意味の冒険家と意味の法律家を同時にやることなんじゃないか。
突き詰めて公式の例外になる 兵頭全郎
キューカー『ガス燈』(1944)。昔の映画なんですが、イングリッド・バーグマンの〈おののく〉眼がすごくよくてですね。で、これってただ〈おののく〉眼をみているだけでもすごくいい映画だなって思える映画なんですね。たとえばその時代を制約しているどんなコードがあったとしても、それを超越して、細部が未来にはみ出ていくことがある。この映画もそんなふうに法律と冒険がせめぎあってあふれている映画だとおもうんです。
【意味の法律家】
兵頭全郎さんの句集『n≠0』からの一句です。
全郎さんの川柳ってすごく難しいなと思っていて、でも私がちょっと思うのは、全郎さんの川柳から川柳論のようなものをたちあげていくと、すごく新しい川柳論ができるんじゃないかなと思ってるんですね。これは直観なんですが。
で、なんでそう思うかというと、あんまり他ジャンルの手法が〈もちこみ〉で使えないというか、既存の読み解きの方法があんまり使えないようになっている川柳なんじゃないかと思うんです。これはたびたび書いてきたことでもあるんですが。
それでも自分なりにこの句集を読むための〈とっかかり〉をさがしていたときに私にとってはこの「おはようございます」の句なんじゃないかと思ったんですね。
これってどういう句かというと、〈挨拶を相対化する〉句なんですね。「おはようございます」って一応、普遍的ですよね。「おはよう」って言えば、「それってどういうこと?」とは問われないわけです。ある意味、絶対的な発話が挨拶なんですが、この句では「※」で注釈がついていて「個人の感想です」と断られている。だから挨拶の絶対性が奪われて、〈個人的〉な〈感想〉にしかすぎなくなっているわけです。
つまり、「おはようございます」が「おはようございます」でありつつも「おはようございます」でない状態になっているんです。ただあくまでそれは〈個人的〉に「個人の感想」にしかすぎないわけで、その〈恣意性〉は徹頭徹尾〈恣意的〉なわけですよ。「個人/感想」っていう。
で、わたしちょっと思うんですが、全郎さんが川柳を通して問いかけていることのひとつが〈恣意性の耐久性〉なんじゃないかと思うんですよ。〈恣意性〉って「個人」の尺度でものごとを組み立てていくことですが、あまりにも恣意的にすぎると誰も意味がわからなくなるわけです。やりたいようにしすぎると。で、川柳っていうジャンルは実はこの〈恣意性〉とどう向き合うかがひとつの鍵になっているジャンルなのかなとも思うんです(それは最近流行った新聞コラージュ川柳みたいに恣意的に言葉を組み立てるとある程度《意味の冒険》ができてしまうから)。
だからそのときわれわれに問われているのは、どのようにその《恣意性》のなかに「おはようございます」のような絶対的な言説を持ち込めるかどうか、だと思うんですよ。
で、全郎さんの句集のタイトル『n≠0』が象徴的だと思うんだけれども、「n」って任意の数ですよね。恣意性なんですよ。なにを入れてもいい。でもそこに「≠0」が加わっている。0、ではない。どんなに恣意性があろうともそこには絶対性が加味されている。川柳の構造ってこういう恣意性への絶対性の加味なのかなっておもうんです。
で、川柳はわたしは《意味のアナーキズム》がとても魅力的だと思うんですが、この全郎さんの句集から教えてもらったのは、いやそれだけじゃないんだ、その《アナーキズム》のなかにどんなふうに《法》を密輸するかが大事なんだ、ってことなんじゃないかと思うんです。ただアナーキーに意味の冒険をしていればいいわけじゃなくて、そのなかでじぶんなりの《法》をたてていく。そうすると《川柳》としての《表現》がうまれてくるんじゃないかなとおもうんです。
川柳って、意味の冒険家と意味の法律家を同時にやることなんじゃないか。
突き詰めて公式の例外になる 兵頭全郎
キューカー『ガス燈』(1944)。昔の映画なんですが、イングリッド・バーグマンの〈おののく〉眼がすごくよくてですね。で、これってただ〈おののく〉眼をみているだけでもすごくいい映画だなって思える映画なんですね。たとえばその時代を制約しているどんなコードがあったとしても、それを超越して、細部が未来にはみ出ていくことがある。この映画もそんなふうに法律と冒険がせめぎあってあふれている映画だとおもうんです。
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