【フシギな川柳 第九十一夜】わたくしと火星猫-木本朱夏-
- 2016/05/02
- 17:04
わたくしを跨いで猫が出て行った 木本朱夏
ゆめのなかの母は若くてわたくしは炬燵の中の火星探検 穂村弘
【わたくしのふしぎ】
『猫川柳アンソロジー ことばの国の猫たち』からの一句です。
〈わたくし〉ってまえから不思議だなあっておもってたんですが、このわたくしって短詩独特の質感だと思うんですよ。散文とかでとつぜん「わたくし」って言ったらかなりのバイアスがかかってしまう。そこからすべての意味的背景が変わってしまいますよね。
ところが短詩だとすぐ終わってしまう形式なので、そういった意味的背景をがっしり背負わなくてもすむ。そういうライトな形式との親和性がまず〈わたくし〉にはある。
で、〈わたくし〉をどう考えたらいいかというときに、わたしはまずこの〈わたくし〉って純粋に形式的問題として考えるべきなんじゃないかと思うんです。
〈わたし〉という3音ではなくて、〈わたくし〉という4音がぴっちりあてはまるからここは〈わたくし〉だった。まずそういう形式的問題が先立つようにおもうんですよ。
でもおもしろいのはその形式的問題が意味的問題を引きずってくるところです。やっぱり、〈わたくし〉と〈わたし〉は違うので。
で、木本さんと穂村さんの短詩のなかの〈わたくし〉をみておもうのは、〈わたくし〉って〈わたし〉以上の負荷を背負ってしまったなにか、なんですね。それは〈わたし〉と等価ではないんです。わたしがなれるものでもない。わたしとちょっと逸脱していくもの、わたしと同化できないもの、それがわたくしです。
だからここでは穂村さんの「ゆめのなか」や「火星探検」なすごく効果的だと思うんですよ。本来的に〈わたし〉はそこにいられない場所だから。
だから木本さんの川柳もここでは「わたくし」となることによって〈わたし〉以上のものを猫が踏み越えていったと読んでもいいんじゃないかと思うんですね。ただたんに猫からまたがれただけじゃなくて、もっと大きな意味を猫がまたいでいった。そのことによってわたしの根っこが変わるような体験をいま語り手はしている。猫によって。
そんなふうに読んでもいいのかなってちょっと思うんですよ。わたくしは。
アリクイに夢見られているわたくしは 江口ちかる
リチャーズ『さらば愛しき女よ』(1975)。この探偵フィリップ・マーロウが出てくる映画をみるとわかるんですが、ハードボイルドって実は〈饒舌〉なんですね。たとえばマーロウは必ず状況に対して最後に皮肉をいうんですよ。で、皮肉は〈言説の付け足しと転換〉なので饒舌になるんですよね。ただそれによって状況がしみっぽくならずに、からっとするんですね。皮肉って、〈上から構造を俯瞰すること〉なので状況がドライになる。だからハードボイルドって乾いている。饒舌だけれど乾いているという不思議な形式がハードボイルドなんですね。で、この不思議なはみ出し方を〈わたし〉を〈わたし〉がみている〈わたし〉である《わたくし》にちょっと近いのかなあって思うんですよ。
ゆめのなかの母は若くてわたくしは炬燵の中の火星探検 穂村弘
【わたくしのふしぎ】
『猫川柳アンソロジー ことばの国の猫たち』からの一句です。
〈わたくし〉ってまえから不思議だなあっておもってたんですが、このわたくしって短詩独特の質感だと思うんですよ。散文とかでとつぜん「わたくし」って言ったらかなりのバイアスがかかってしまう。そこからすべての意味的背景が変わってしまいますよね。
ところが短詩だとすぐ終わってしまう形式なので、そういった意味的背景をがっしり背負わなくてもすむ。そういうライトな形式との親和性がまず〈わたくし〉にはある。
で、〈わたくし〉をどう考えたらいいかというときに、わたしはまずこの〈わたくし〉って純粋に形式的問題として考えるべきなんじゃないかと思うんです。
〈わたし〉という3音ではなくて、〈わたくし〉という4音がぴっちりあてはまるからここは〈わたくし〉だった。まずそういう形式的問題が先立つようにおもうんですよ。
でもおもしろいのはその形式的問題が意味的問題を引きずってくるところです。やっぱり、〈わたくし〉と〈わたし〉は違うので。
で、木本さんと穂村さんの短詩のなかの〈わたくし〉をみておもうのは、〈わたくし〉って〈わたし〉以上の負荷を背負ってしまったなにか、なんですね。それは〈わたし〉と等価ではないんです。わたしがなれるものでもない。わたしとちょっと逸脱していくもの、わたしと同化できないもの、それがわたくしです。
だからここでは穂村さんの「ゆめのなか」や「火星探検」なすごく効果的だと思うんですよ。本来的に〈わたし〉はそこにいられない場所だから。
だから木本さんの川柳もここでは「わたくし」となることによって〈わたし〉以上のものを猫が踏み越えていったと読んでもいいんじゃないかと思うんですね。ただたんに猫からまたがれただけじゃなくて、もっと大きな意味を猫がまたいでいった。そのことによってわたしの根っこが変わるような体験をいま語り手はしている。猫によって。
そんなふうに読んでもいいのかなってちょっと思うんですよ。わたくしは。
アリクイに夢見られているわたくしは 江口ちかる
リチャーズ『さらば愛しき女よ』(1975)。この探偵フィリップ・マーロウが出てくる映画をみるとわかるんですが、ハードボイルドって実は〈饒舌〉なんですね。たとえばマーロウは必ず状況に対して最後に皮肉をいうんですよ。で、皮肉は〈言説の付け足しと転換〉なので饒舌になるんですよね。ただそれによって状況がしみっぽくならずに、からっとするんですね。皮肉って、〈上から構造を俯瞰すること〉なので状況がドライになる。だからハードボイルドって乾いている。饒舌だけれど乾いているという不思議な形式がハードボイルドなんですね。で、この不思議なはみ出し方を〈わたし〉を〈わたし〉がみている〈わたし〉である《わたくし》にちょっと近いのかなあって思うんですよ。
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