【ふしぎな川柳 第九十四夜】ほんとうってなに-岩井三窓-
- 2016/05/03
- 02:14
ほんとうの咳をだまって聞いている 岩井三窓
【本当は、ほんとうは、ない】
「ほんとう」ってたぶん「ほんとう」ではないんですよね。
「ほんとう」っていうのは存在していないものなんだと思うんです。
でも、それでも、「ほんとう」はある。だとしたらその「ほんとう」とはなんなのか。
それってこの句がえぐりだしているように〈関係的〉なものだと思うんですよ。わたしがこうだと決めたから「ほんとう」なのではなくて、眼の前の人間が「咳」をして、「だいじょうぶ?」ときけないくらいの〈応答の不可能性〉としての沈黙を感じたときにはじめて「ほんとう」が実感としてわかる。
四の五の言えなくなったときに、言語の沈黙しかなくなったときに、はじめてこれは「ほんとう」だとわかる。そういう関係的なものじゃないかと。
だから語り手は「だまって聞いてい」たんじゃないかとおもうんです。
大きな〈ほんとう〉があるたびに、ひとは言語がいかに役に立たないかを知り、沈黙せざるをえない。それは〈ほんとう〉だとわかったからだとおもうんです。重みとして。今なにを言っても役に立たない。それはどうにもならない。そのひとの傷みを引き受けられる言葉はない。だから黙る。
でもこの句が示すように「聞く」ことはできるんですよ。黙って聞く。そのひとの傷みを、咳を。それもまたエゴイズムかもしれない。それが「ほんとう」だと思っても、「ほんとう」になりきれないかもしれない。でも、それでも、傷みを黙ってきくこと。自分にできることを黙ってすること。それしかないときもあるんじゃないかっておもうんです。
〈ほんとう〉はないかもしれないけれど、〈ほんとう〉に真摯に向き合おうとするときに、〈ほんとう〉はある。
窓の外に映るランプがほんたうであるかもしれず確かめにゆく 光森裕樹
風について考えるというのは、誰にでもできるわけではないし、いつでもどこでもできるわけではない。人が《ほんとうに》風について考えられるのは、人生の中のほんの一時期のことなのだ。そういう気がする。
村上春樹「風のことを考えよう」
ランズマン『ショアー』(1985)。『シンドラーのリスト』とよく対比されて言及される映画なんですが、アウシュヴィッツのホロコーストを扱った映画なんですね。で、ユダヤ系のひとびとが大量に虐殺されたことに対して『シンドラーのリスト』はすごく饒舌に〈抒情ゆたか〉に語ったんだけれども、『ショアー』はひとびとが証言しようとしてつかえてそのまま黙ってしまったり泣いてしまったりっていうそういう〈証言の沈黙〉をずっと撮っているんです。もちろん、なにがほんとうかっていうのはないんだけれども、でもここにはある大きな惨事が起きたときにひとはいったい語る存在として〈どう〉向き合えばいいいのか、向き合い〈そこね〉ればいいのかがひとつの映画として示されているような気がするんです。大惨事があったときに、なにかを積極的に語るべきなのか、それともまったく沈黙するのか、どんなふうに生活するべきなのか、どこまでができることでできないことなのか、そのときに想像する、思いやるってどういうことなのか、誰(何)が語ることができて誰(何)が語ることができないのか。そういうことって言葉をもっている限りずっと考えていかなければならないことなんだなあって思います。ちなみにこの映画、非常に長い映画です。9時間30分です。
【本当は、ほんとうは、ない】
「ほんとう」ってたぶん「ほんとう」ではないんですよね。
「ほんとう」っていうのは存在していないものなんだと思うんです。
でも、それでも、「ほんとう」はある。だとしたらその「ほんとう」とはなんなのか。
それってこの句がえぐりだしているように〈関係的〉なものだと思うんですよ。わたしがこうだと決めたから「ほんとう」なのではなくて、眼の前の人間が「咳」をして、「だいじょうぶ?」ときけないくらいの〈応答の不可能性〉としての沈黙を感じたときにはじめて「ほんとう」が実感としてわかる。
四の五の言えなくなったときに、言語の沈黙しかなくなったときに、はじめてこれは「ほんとう」だとわかる。そういう関係的なものじゃないかと。
だから語り手は「だまって聞いてい」たんじゃないかとおもうんです。
大きな〈ほんとう〉があるたびに、ひとは言語がいかに役に立たないかを知り、沈黙せざるをえない。それは〈ほんとう〉だとわかったからだとおもうんです。重みとして。今なにを言っても役に立たない。それはどうにもならない。そのひとの傷みを引き受けられる言葉はない。だから黙る。
でもこの句が示すように「聞く」ことはできるんですよ。黙って聞く。そのひとの傷みを、咳を。それもまたエゴイズムかもしれない。それが「ほんとう」だと思っても、「ほんとう」になりきれないかもしれない。でも、それでも、傷みを黙ってきくこと。自分にできることを黙ってすること。それしかないときもあるんじゃないかっておもうんです。
〈ほんとう〉はないかもしれないけれど、〈ほんとう〉に真摯に向き合おうとするときに、〈ほんとう〉はある。
窓の外に映るランプがほんたうであるかもしれず確かめにゆく 光森裕樹
風について考えるというのは、誰にでもできるわけではないし、いつでもどこでもできるわけではない。人が《ほんとうに》風について考えられるのは、人生の中のほんの一時期のことなのだ。そういう気がする。
村上春樹「風のことを考えよう」
ランズマン『ショアー』(1985)。『シンドラーのリスト』とよく対比されて言及される映画なんですが、アウシュヴィッツのホロコーストを扱った映画なんですね。で、ユダヤ系のひとびとが大量に虐殺されたことに対して『シンドラーのリスト』はすごく饒舌に〈抒情ゆたか〉に語ったんだけれども、『ショアー』はひとびとが証言しようとしてつかえてそのまま黙ってしまったり泣いてしまったりっていうそういう〈証言の沈黙〉をずっと撮っているんです。もちろん、なにがほんとうかっていうのはないんだけれども、でもここにはある大きな惨事が起きたときにひとはいったい語る存在として〈どう〉向き合えばいいいのか、向き合い〈そこね〉ればいいのかがひとつの映画として示されているような気がするんです。大惨事があったときに、なにかを積極的に語るべきなのか、それともまったく沈黙するのか、どんなふうに生活するべきなのか、どこまでができることでできないことなのか、そのときに想像する、思いやるってどういうことなのか、誰(何)が語ることができて誰(何)が語ることができないのか。そういうことって言葉をもっている限りずっと考えていかなければならないことなんだなあって思います。ちなみにこの映画、非常に長い映画です。9時間30分です。
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