【ふしぎな川柳 第九十五夜】認識がくる-筒井祥文-
- 2016/05/03
- 05:41
こんな手をしてると猫が見せに来る 筒井祥文
【「認識をもってこい!」とかつてキルケゴールは叫んだ】
この句ってなにかとてもフシギですよね。
で、なんでだろう、って考えてたんだけれども、ひとつに、「こんな手をしてる」という〈認識〉をもった猫のふしぎさっていうのがあるんじゃないかとおもうんですよね。
「こんな手」っていう認識のなかには「あんな手」や「そんな手」っていう認識が埋め込まれているはずなんですね。そのうえで「こんな手」という発話ってはじめてできるとおもうんですよ。
つまり、猫は手についていろんな認識を行ってるわけです。そのうえで〈わたし〉に手をみせにきている。
だからこの句のなにが不思議かっていうと、猫が〈相対的認識〉をもった点にあるとおもうんですよ。わたしはこんな手だ、あいつはあんな手だ、おまえはどんな手だ、って。
そしてその猫の相対的認識をこれから引き受ける語り手がいるわけですよね。見せに来る、ってそういうことだから。これからわたしは猫に問いかけられるわけですね。おいどうなんだ、と。だから人間でいるからって安心はできない。ちゃんと手について、手のことについて考えなければならない。これはそういう〈認識のすり合わせ〉の句にもなっている。
ちなみに相対性は主客分離を引き起こすものだけれど、その逆の主客合一としての絶対的認識としてはこんな猫の句があげられるでしょう。
縊死の木か猫かしばらくわからない 石部明
桟敷童子・東憲司『泳ぐ機関車』(2015)。炭坑労働をめぐる劇なんですが、リアリズムというよりは、マジックリアリズムのような感じで描かれているんですね。で、マジックリアリズムってなんだろうって考えたときにそれって土着的な要素がかれらにとっては自然、わたしたちにとってはマジカルにみえることだとおもうんですよ。これは、ガルシア=マルケスやフエンテスなどのラテンアメリカ文学もそうなんじゃないかって思うんです。土着のリアリティってたぶん、マジカルなんですね。それがこの劇をみてるとわかる。かれらとわたしたちの〈認識〉のすれちがいとすりあわせがマジカルってことです。
【「認識をもってこい!」とかつてキルケゴールは叫んだ】
この句ってなにかとてもフシギですよね。
で、なんでだろう、って考えてたんだけれども、ひとつに、「こんな手をしてる」という〈認識〉をもった猫のふしぎさっていうのがあるんじゃないかとおもうんですよね。
「こんな手」っていう認識のなかには「あんな手」や「そんな手」っていう認識が埋め込まれているはずなんですね。そのうえで「こんな手」という発話ってはじめてできるとおもうんですよ。
つまり、猫は手についていろんな認識を行ってるわけです。そのうえで〈わたし〉に手をみせにきている。
だからこの句のなにが不思議かっていうと、猫が〈相対的認識〉をもった点にあるとおもうんですよ。わたしはこんな手だ、あいつはあんな手だ、おまえはどんな手だ、って。
そしてその猫の相対的認識をこれから引き受ける語り手がいるわけですよね。見せに来る、ってそういうことだから。これからわたしは猫に問いかけられるわけですね。おいどうなんだ、と。だから人間でいるからって安心はできない。ちゃんと手について、手のことについて考えなければならない。これはそういう〈認識のすり合わせ〉の句にもなっている。
ちなみに相対性は主客分離を引き起こすものだけれど、その逆の主客合一としての絶対的認識としてはこんな猫の句があげられるでしょう。
縊死の木か猫かしばらくわからない 石部明
桟敷童子・東憲司『泳ぐ機関車』(2015)。炭坑労働をめぐる劇なんですが、リアリズムというよりは、マジックリアリズムのような感じで描かれているんですね。で、マジックリアリズムってなんだろうって考えたときにそれって土着的な要素がかれらにとっては自然、わたしたちにとってはマジカルにみえることだとおもうんですよ。これは、ガルシア=マルケスやフエンテスなどのラテンアメリカ文学もそうなんじゃないかって思うんです。土着のリアリティってたぶん、マジカルなんですね。それがこの劇をみてるとわかる。かれらとわたしたちの〈認識〉のすれちがいとすりあわせがマジカルってことです。
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