【ふしぎな川柳 第九十六夜】鬼である―中村冨二―
- 2016/05/03
- 23:24
立ち上がると 鬼である 中村冨二
【ああ、鬼だ】
空白文化ってあると思うんですよね。短詩における。
で、短詩において空白っていうのは実はとっても〈過激〉なんじゃないかと。
なんで空白が過激なのかというと、たぶんこの空白によってシーンや意識が180度変わるからだと思うんですよ。空白ってただあいているというよりも、埋められなかった〈非言語〉といったほうがいいような気がするんです。
本来的には短詩は音律芸術だから、言葉で埋めることをしたかったんだけれども、どうしても〈そこ〉だけは埋めることができなかった。
それが〈空白〉なんじゃないかと思うんです。
だからこの句の「鬼」っていうのは「鬼」にあるんじゃなくて、〈空白〉の「 」にあるんじゃないかと思うんです。この空白によって〈立ち上が〉ったものは「鬼」になった。「鬼である」っていう付随する遅延した認識に過ぎません。この句の問題は、この句の鬼性は、この「 」という空白なんじゃないかとおもうんです。
空間恐怖、広場恐怖、アゴラフォビアってあるけれど、もっともおそろしいのはどんな言語をもってしても、意味をもってしても、埋められなかった、しかし避けがたい〈空白〉なんじゃないかとおもうんですよ。
死ぬる僕に時計を買へと言ふか 言へよ 中村冨二
ジャームッシュ『ストレンジャー・ザン・パラダイス』(1985)。ジャームッシュの映画ってダラダラし過ぎていて昔はあんまり好きじゃなかったんですね。ヴェンダースもそうなんですけど、積極的にだらだらしていますよね。で、タルコフスキー/アンゲロプロス的な詩的ダラダラではなくて、ただたんにダラダラしている。やだなあって。でもそれからしばらく経って、ちょっと私生活がだらだらしていたときになんとなくジャームッシュをみなおしていたらすごくよかったんですね。で、これって埋めがたい空白のまわりをだらだら徘徊している映画なんじゃないかと思ったんです。だからその意味ですごく過激なんですね。その空白が埋まってしまう一語を発見してしまったら、破綻してしまうから。だらだらって過激なんだなあって思ったんです。そういう静けさが狂気をはらんでいく点においてジャームッシュは小津安二郎と似ているのかなあって思います。
【ああ、鬼だ】
空白文化ってあると思うんですよね。短詩における。
で、短詩において空白っていうのは実はとっても〈過激〉なんじゃないかと。
なんで空白が過激なのかというと、たぶんこの空白によってシーンや意識が180度変わるからだと思うんですよ。空白ってただあいているというよりも、埋められなかった〈非言語〉といったほうがいいような気がするんです。
本来的には短詩は音律芸術だから、言葉で埋めることをしたかったんだけれども、どうしても〈そこ〉だけは埋めることができなかった。
それが〈空白〉なんじゃないかと思うんです。
だからこの句の「鬼」っていうのは「鬼」にあるんじゃなくて、〈空白〉の「 」にあるんじゃないかと思うんです。この空白によって〈立ち上が〉ったものは「鬼」になった。「鬼である」っていう付随する遅延した認識に過ぎません。この句の問題は、この句の鬼性は、この「 」という空白なんじゃないかとおもうんです。
空間恐怖、広場恐怖、アゴラフォビアってあるけれど、もっともおそろしいのはどんな言語をもってしても、意味をもってしても、埋められなかった、しかし避けがたい〈空白〉なんじゃないかとおもうんですよ。
死ぬる僕に時計を買へと言ふか 言へよ 中村冨二
ジャームッシュ『ストレンジャー・ザン・パラダイス』(1985)。ジャームッシュの映画ってダラダラし過ぎていて昔はあんまり好きじゃなかったんですね。ヴェンダースもそうなんですけど、積極的にだらだらしていますよね。で、タルコフスキー/アンゲロプロス的な詩的ダラダラではなくて、ただたんにダラダラしている。やだなあって。でもそれからしばらく経って、ちょっと私生活がだらだらしていたときになんとなくジャームッシュをみなおしていたらすごくよかったんですね。で、これって埋めがたい空白のまわりをだらだら徘徊している映画なんじゃないかと思ったんです。だからその意味ですごく過激なんですね。その空白が埋まってしまう一語を発見してしまったら、破綻してしまうから。だらだらって過激なんだなあって思ったんです。そういう静けさが狂気をはらんでいく点においてジャームッシュは小津安二郎と似ているのかなあって思います。
- 関連記事
スポンサーサイト
- テーマ:読書感想文
- ジャンル:小説・文学
- カテゴリ:ふしぎな川柳-川柳百物語拾遺-